「鼓動-5」
翌日、勇介は申し送りの場で昨日の非礼を詫びた。
「北詰先生は悪くないですよ。いけないのは浅川先生なんですから!」
いつも彼にセクハラされているという看護師三人組が口を揃えて言うと、医局は一気に明るいムードになった。
(そういえば浅川の姿が見えないな)
医局に掲示してある勤務シフトを見上げた勇介は思わず口が半開きになる。浅川は非番だった。
自分のシフトに合わせて飲み会を企画する辺りはさすがとしか言いようがない。とんでもなく抜け目のない男だ。
綺麗に片付けられた浅川のデスクを睨んでいると、後ろから名前を呼ばれた。
「黒崎先生と揉めたんだって? 悪かったな」
首をめぐらせると、院長の桂が当直日誌を抱えて立っている。
「院長が当直だったんですか!」
驚いてしまった。ようやく医局長や浅川の苦労がわかった。なんとか救命全員で歓迎会をしてくれようとして、当直の交代要員を探してくれたのだと気付く。
(オレはやっぱりわかってないんだ)
昨夜の子供じみた自分の行動を振り返るにつけ、自己嫌悪で気分が落ち込んだ。
そんな様子を誤解したのか、院長はハゲ頭をさすりながら言った。
「まあ、彼女は昔から気が強いからね。あまり気にしないで。浅川くんの歓迎会の時なんか、セクハラしたとかしないとかで、流血沙汰だったんだから」
「はあ……」
返事をしつつ、首をかしげる。
どうして整形外科の彼女が、毎回救命の歓迎会に出席しているのだろう?
「あの、黒崎先生って……?」
言いかけた時コールが鳴ってしまったので、勇介は口をつぐむと一礼し、患者を受け入れるために医局を出た。
「患者は生後九ヶ月の女の子、熱湯による重度の熱傷(やけど)です」
救急隊員の腕に抱かれた小さな体を見て、勇介もそばにいた宮下看護師も、思わず動きが止まる。背中じゅう真っ赤になった赤ん坊は泣く気力もないのかぐったりしていた。
勇介はわれにかえり、宮下をひじでこづいた。
「宮下! 生食とガーゼ、ありったけ持って来い!」
「は、はい!」
宮下がくるりと向きを変えて走り出す。勇介は救急隊員から今にも消えてしまいそうな小さな命を受け取った。
「愛ちゃん! ごめんね、ごめんね。お願い! 先生、愛ちゃんを助けてください。助けてください!」
処置室に向かう勇介に若い母親が取りすがる。
「お母さんは外で待っててください!」
一喝すると処置室に入ってドアを閉めた。
モニタを見ながら宮下がバイタルを読み上げる。
「血圧低下、脈も微弱です」
赤ん坊はかなり衰弱している。ひくひくとからだ全体が痙攣したように動いているのは、チアノーゼかもしれない。呼吸器に異常が生じた可能性もある。
保温マットに寝かされた赤ん坊に渚の姿を重ねる。バイタルを示す数値はかなり危険な状態だった。
「抗菌剤を塗布して。体温維持に注意してください」
熱傷二度から三度。大人と違って赤ん坊の皮膚は柔らかく薄いだけに、想像以上の重症だった。
「熱傷のショック症状が出てる。輸血用意」
広範囲の熱傷は血圧低下を引き起こす。そして血液中のたんぱく質や水分を外に出してしまい、血液が足りなくなって生命に危険が及ぶ。
バタン!
「先生! 愛ちゃんを助けて!」
処置室の扉が乱暴に開けられて、赤ん坊の母親が飛び込んで来た。
「お母さん、入っちゃダメです。外に出てください!」
ナースの一人が取り乱す母親を押さえつけている。勇介は母親を無視して治療を続けた。
「先生、あの……お母さんに、何とか言ってあげないんですか?」
輸血の準備をする宮下が小声で言うが、彼の言葉も勇介は無視した。それどころではないのだ。今はこの赤ん坊の生命の鼓動を聞き取らなければいけない。
「宮下、無駄口叩くな。早くしろ」
低下し続ける血圧の数値を睨みつけ、心拍数を示すピッピッという電子音に耳を傾ける。
大声で泣きじゃくる母の声が聞こえているのだろうか。赤ん坊がわずかに目を開け閉めする。勇介は入り口付近で泣いている母親を怒鳴りつけた。
「静かにしろっ! 親なら泣くな」
母親がビクンとして静かになった。周囲の目が自分と母親に注がれるのをひしひしと感じた。シンとなった処置室に、機械の音だけがやけに大きく響く。
少々きつく言い過ぎたかもしれないと思い直して赤ん坊のガーゼを取り替えながら出来るだけ静かに言った。
「母親なら、我が子の命に耳を傾けてください。聞こえるでしょう? この子の心拍数……生きようとする鼓動が」
母親は静かになったが出て行こうとはしない。勇介は看護師に頷くとそのまま治療に当たった。
祈るようにわが子を見つめる母親を目の端に捉え、素早く赤ん坊に目線を戻したとき、ぐったりと目を閉じる幼い顔が、頭の中で渚にすり替わる。輸血をする為の血管を探して肌に触れると、柔らかくて小さい体がヒクヒクと痙攣した。
(この子が助からなかったらどうしよう)
そう思うと、どういう訳だか手が震えてきてしまった。こういう状態では、医者に手助けできることなんて、本当に些細な事だけだ。本人の生きる力を信じるしかないのだと思うと、やるせなさがつのる。
(どうなってる。これじゃ、まるで素人だろ)
冷静になろうと思い、自身を叱咤すればするほど、渚の顔がちらついてしまう。こんなことは今までになかった。視界がぼやけてきたように感じて頭を一振りし、大きく息を吸い込み、吐き出す。吐息にまじって思わず声が漏れた。
「がんばれ。まだ生まれてきたばかりなんだから。家族の愛情も……まだ何も……」
閉じた目蓋の裏で、渚がにっこり微笑む。
そっと背中を押されてハッとした。
「まだ処置は終わっていないでしょう? 医者なら泣くな」
傍らに、整形外科の黒崎女医が居た。彼女は勇介の手もとから針先を取り上げた。
(泣いていた……?)
慌てて手の甲で目元をぬぐうと、わずかな水分が付着した。
黒崎は素晴らしい手際で赤ん坊の細い血管を拾って、輸血を開始した。
勇介は患者の小さな頭をそっと撫でる。
(がんばって、生きような)




