「出逢い-2」
ICUのドアが開いて、母親がよろめきながら出て来た。
「勇介さん! 勇介さん、どこなの?」
勇介は母親に駆け寄って、今にも倒れそうな体を支えた。彼女にとって父の死はショックだったと思うが、それ以上に最後の言葉に対する怒りが彼女の足元をふらつかせているようだった。そんな母を見るにつけ、我知らずため息が漏れる。
確かに先程の状況を見れば母に同情せざるを得ない気がしたが、待てよ。よく考えればお互い様ではないのか?
母は母でもう長い間年下の愛人と密通している事は勇介も父も先刻承知だった。デザイナーだか何だか知らないが、その男は勇介にまで趣味の悪い服やバッグを送り付けて来たりした。そして事もあろうに「就職できなかったらモデルにしてやる」などとふざけた事を平気で言ってくるような愚か者だった。もっとも一人息子の自分に、あの男がそんなことを言ったなどと、母は夢にも思っていないだろう。
さすがに勇介が働き出してからは、あの男は余計な事はしなくなった。
――何せ今じゃ、あいつよりこちらの方が数倍稼いでいるし、将来有望だからな。
腕の中で母が身じろぎをした。化粧の落ちた母の顔に目を落とす。ビクッと肩を震わせて、彼女の表情が一瞬無くなった。その目線の先の人物に、彼女は鋭い声で言った。
「あなた、誰なの!」
言葉が飛んだ方向に、少年の姿があった。
勇介は母に彼を紹介した。怯えた様子の歩は、とても自分から名前を言えるような状態では無さそうに見えたからだ。
「母さん、鳴沢歩くんだ。鳴沢杏子さんの弟さんだよ。父さんの事を心配して、ここでずっと待っててくれたんですよ」
「あの女の弟ですって? よくも顔が出せたものね。北詰の親切につけ込んで、子供まで作って……!」
おっかない顔でいたいけな少年を睨みつける母が、何だか無性に汚らわしい存在に思えて、勇介は母の身体を押しやるようにして身を引いた。言葉を探して立ちすくむ少年に、母は怒涛のごとく捲くし立てた。
「あなたたち姉弟の魂胆は、始めからわかっていたのよ。北詰に取り入って財産を狙っていたのでしょう! 冗談じゃ無いわ。こんなもの、こうしてやる!」
引きつった顔で笑ったかと思うと、母はポケットから何やら紙切れを取り出してビリビリと破き、廊下に撒き散らした。慌ててゴミのように散らばった紙片をかき集めていた勇介は、紙片に印字された文字を見つけて、思わず母の顔を振り仰いだ。
(なんて事を……!)
それは父の印鑑を押した離婚届と、愛人との間に生まれた子供・渚の認知の為の書類だった。
「これで、あなた達とはもう何の関わりもありませんからね。北詰は死んだし、あの女も。ふたりとも罰が当たったのよ!」
呆然と立ち尽くしている鳴沢少年に向って、さらに母が言い募る。
「北詰があんたたちに残すものなんて、何一つ無いんだからね。もう二度と私たちの前に現れないでちょうだい!」
まるで、父に対するやり場の無い怒りのぶつけ先を見つけたように母の目が輝いているのを見て、勇介は嫌悪感で胸がムカムカしてきた。
「さっさと消えてしまいなさい! 目障りだわ!」
ヒステリックな声が飛び、人形のように固まっていた少年がわずかに動きを見せた。彼は蒼白になっており、目線が宙をさまよった。一歩、二歩後ずさり、それでも彼はペコリと頭を下げると背を向けた。そのまま逃げるように廊下を走りだす。彼の顔に浮かんだ表情が目蓋の裏に焼き付いて離れない。戸惑ったような、悲しげな顔。左の耳だけに付けた銀のピアスが、窓からの夕陽にチカッと光っていた。
あんな事を言われて傷つかないわけがない。
「歩くん!」
背中に向かって慌てて呼び止めたが、彼はすごい勢いで廊下を曲がって姿を消した。
背後で母が狂ったように笑い出した。振り返ってまじまじとその顔を見る。あんな、頼りなげな少年に、言いたい放題に罵声を浴びせていた女が自分の母親だという事実は、勇介の胸に苦い塊となって居すわった。父の死のショックもさることながら、今は母への反発の感情の方が勇介を支配している。さっきビリビリに破いた書類の意味を考える。あれは父の遺言のようなものだ。父の遺志を、母は無造作に破り捨てた。金に苦労した事は無かったから、北詰家の財産が幾らあるのか知らないが、それを全て独り占めにするというのか。
愛人の子供とはいえ、あの赤ん坊は父の実の子供だ。認知してやらなくていったいどうするのだ。公の児童養護施設にでも入れて勝手にしろということなのだろうか。
赤ん坊の事は、確かに何とかするべきなのだろう。母がこんな調子なら、それをやらなければならないのは自分の役目ということだ。でもあの少年はどうすればいいのだろう。愛人の家族を、未成年だからというだけで、残された相手方の遺族が面倒看るなどという話は聞いたことが無い。
でも……
ふと廊下の窓から外を眺めたとき、灯り始めた街路灯の下を歩く鳴沢少年の姿を見つけた。五分咲きの桜並木が続く病院の駐車場を、足早に横切ってゆく。
感情をストレートに伝えてくる大きな茶色い瞳が脳裏から離れない。そして、父の言葉も。
――歩と渚を頼む。
狂ったように笑い続ける母親を残し、勇介は父の顔をもう一度見るために、ICUの扉を開けた。