「鼓動-4」
腕時計は夜の十一時を差していた。音を立てないようにそっと玄関を開ける。自動で点灯するフットライトが暗い足元を照らした。小柄な歩の二十五センチのスニーカーとヨチヨチ歩きの渚の十二センチの靴がキチンとそろえてある。なんだかホッとする。
二人はもう寝てしまったようだった。廊下は真っ暗だ。リビングのドアを開けると間接照明がともっており、ガラスのローテーブルに茶碗と箸がセットされていた。
「あ……」
歩に食事は要らないと連絡するのを忘れていた。また忙しい彼に余計な手間をかけさせてしまった。
(何のための携帯電話だよ。ホントにオレって気が利かないな……)
上着を脱いでネクタイを緩めながら、ソファに腰掛けると御飯茶碗の下のメモを発見した。
《勇さんへ
お仕事お疲れさまです。夕食冷蔵庫に入ってます。夜遅いと食べたくない人も居るから軽めと普通と両方のおかずを用意しました。好きなほうを食べてね!
*くれぐれも、無理に両方食べなくて良いです。残ったら俺の弁当にするので。 歩より》
冷蔵庫を開けるとメモのとおり二皿のおかずが入っていた。一皿目を手に取ると、鮭のほぐし身にみつばとわさびがワンセットになっており、ご丁寧に付箋が貼ってある。
《軽め定食 お茶漬けでどうぞ。お茶は流し台にあるよ》
もう一皿取り出すと、こちらはトンカツだった。付け合せの山盛りキャベツの隣にカツがラップでくるんであり、やはり付箋が貼ってある。
《普通定食 カツだけレンジで温めてください》
「気が利くなんてもんじゃないな。見習わなくちゃ」
勇介はありがたく冷蔵庫から《軽め定食》を取り出した。
歩の心遣いに、ほわっと胸が温かくなる。彼に先回りをして面倒をみるなんて、恐れ多いと思った。
食事を済ませてリビングから続く和室の襖をそっと開けると、歩と渚がぐっすり眠っていた。オレンジの豆電球がついている和室は、ミルクのように甘ったるい匂いがした。
うつ伏せで布団から転がり出ている渚を抱き上げてコロンと布団に戻してやると、渚はまたうつ伏せになった。
(なんか、ぬいぐるみのこぐまに似てるかも)
思わず笑みがこぼれる。
視線をずらして奥に寝ている歩を見たとき、一瞬ドキリとした。彼の寝顔は、事故のあと、病院の資料で目にした、姉の鳴沢杏子の死に顔にそっくりだったのだ。長い睫毛が目元に影を作っている。彼女と明らかに違うところは、生きている人間のツヤを保った健康的な肌の色だけだ。本当に生きているかどうか、そんな馬鹿な事を確認せずにはいられなくなり、衝動に駆られて歩の頬に指先でそっと触れてみた。ゆでタマゴみたいに温かくてすべすべで気持ちいい。う~んと呻って歩は自分の頬をボリボリと引っ掻いたが目は閉じられたままだ。もう一度触ってみるとぱかっと口が開いた。歩は完璧に熟睡モードだった。
勇介はしばらく子供二人の寝顔を見ていた。歩はこの暮らしを気に入ってくれているのだろうか。こんなに気を使って、毎日疲れはしないのだろうか。
――みんな心配してるのよ。
ふいに黒崎女医の言葉が浮かんだ。職場のみんなも、今自分が歩を気にしているように、自分の事を気にしてくれたのだとしたら……。
(明日は皆にひとことお詫びしておかないといけないかもしれない……)
ちょっと反省して和室の襖を閉めた。




