「鼓動-3」
急患が入り、少し遅れて店に到着した勇介は、凄い人数に驚いた。みな市立総合病院のスタッフだというが、知らない顔もずいぶん混ざっている。
「北詰先生、大人気ですね」
嬉しそうに駆け寄ってきた宮下が、勇介を上座へと引き摺り込んだ。
「キャー! 北詰先生よ」
押し寄せる女性たちの顔を見て、知らずに眉間のシワが深くなる。女性は嫌いじゃないが、騒がしいのは遠慮したい。それでも一応ひととおり順番に彼女たちを目で追う。救命の看護師たちがほぼ全員揃っている。
(……っていうか、医局長も浅川もココに居て、誰が当直やってんだ?)
呆れて物が言えない。こんなんで、いいのだろうか。近所で大きな事故でも起きたら、いったい誰が患者を診るのだろう。
病院を出たときには、確か外科の主任が手伝いに来ていたが。彼だけでもしも大きなオペが入ったら、誰が助手を務めるのか?
仕事が気になってしまい、自然と酒がすすまなくなってしまう。酒がすすまないと、時間も進まないように感じるから不思議だ。
(あ~、なんか早く帰りたいな……)
今頃歩は何してるだろう。これからすぐに帰っても、渚はもう寝てしまっているだろうし、ひょっとしたら歩も起きてないかもしれない。話を聞く限り、彼らの生活はきわめて規則正しい。それは、歩が極力渚の生活サイクルにあわせるように努力をしているからだと感じた。親の都合で子どもを夜更かしさせるなんてあたりまえだと考えていたが、歩を見ていると自分の考えが自己中心的であることを思い知らされる。
「添い寝しながらつい朝までねちゃうんだよね」と、歩が昨日こぼしていたのを思い出す。赤ん坊なんて眠くなれば勝手に寝るだろう、とつい言うと、歩はあきれたような顔をした。
「あのね、勇さん。子供は誰かがそばにいることで安心するんだ。特に、おれたち引越ししたばかりだから、なれない部屋とかってのは、子どもにとって不安なんだよ」
まったく、ナルホドとうなずくしかない話である。まあ、それはともかく、彼らの声が聞けないのが残念だ。
飲み始めてまだいくらも経っていないが、すでに嫌になっていた。何とか理由をつけて席を立ちたいのだが、大勢の女性にガッチリと周囲を固められ、身動きが取れない。
「ねえ北詰先生、先生は当然彼女とか居ますよね」
「あ、はい……。居ます」
言葉少なに応答する。ウソでも、最初から「彼女が居る」とハッキリ言っておくのが一番いいのだ。男女の間で思わせぶりな態度はいらぬ騒動の元になる。これは過去の手痛い経験から学んだ事だ。大抵の女性はこれで引き下がってくれる。ところが、本日に限っては、凄いのが一人居た。
「そっかー、彼女居てもいいや。愛人一号ってことで、……じゃなきゃ、お互い面倒臭いからセフレでもいいか。ねっ北詰先生」
勇介はギョッとして爆弾発言の女を見た。
(誰だろうこの女性は?)
いつの間にか救命のナースたちを押し退けて自分の右腕にへばりついている女は、見たことが無かった。化粧の濃い女だった。艶やかなストレートの黒髪を背中に流し、胸元が大胆にVカットされた黒のニットを着ている。色の白い谷間が見えた。全員が病院の関係者なのだから、この女もたぶん看護師か何かだろう。
(う~ん、確かに美人かもしれないけど……ちょっと勘違いしてないか?)
まるでホステスのようにしなだれかかる女を、わざと荒っぽく押しやった。
「すみません、あまり寄りかかられると箸が使えませんので離れてください」
勇介の言葉に一瞬座がシーンとなった。
(なんなんだろう、この空気は)
遥か前方から医局長がこちらを見ている。彼の胡麻塩頭に汗が浮いているのが見えた。周囲を取り囲むナースたちも、一歩引いたように見えたのは、気のせいだろうか。
「にゃははは」
突然浅川の下品な笑いが響いた。左ナナメ前方、幾人かの女性を挟んだ先に浅黒い顔がのぞいている。彼は目が合うとウィンクして言った。
「さすが、北詰ちゃん。言葉通りだね。『女性には不自由してません!』」
浅川は勇介の口真似をすると、またガハハと豪快に笑った。
意味がわからず、ポカンとしていると、隣で爆弾発言の女性が大笑いした。
「アーハッハッハ! あたしの負けだわ。ハイ浅川センセ、一万円」
女性は財布から万札を抜き取って飛行機を折ると浅川に向かって投げた。札飛行機は見事に浅川の前に着陸した。勇介は浅川と女性を交互に見た。
「あたしは黒崎イツコ。整形外科医なの」
「よろしく」と差し出された白い手を勇介は反射的に握り返した。浅川がニヤリとして言った。
「黒崎先生と賭けをしててね。北詰ちゃんが色気ムンムンの黒崎先生にセクハラするかどうかってさ」
浅川の言葉にナースたちがクスクス笑った。
「あーあ、残念だわ。せっかくセクシースタイルできめてきたのに、北詰センセったら一回もあたしの胸元見てくれないんですもの。おかげで一万円、とられちゃったじゃない」
(一回見たけど……てゆうか、この状態。ひょっとしてオレ、からかわれてる?)
勇介は黒崎の手を握ったままだったことに気づき、慌てて放した。
「やだ、いいのよ。握ってても。もしかして北詰センセって、むっつりな感じ?」
ふふふと流し目で笑う黒崎の周囲で、ナースたちがまたクスクス笑う。
「だれが!」
思わずうわずったような声が出てしまう。よく女性からアプローチを受けるが、大学時代もS大病院でも、こんなふうにいじられたことなどなかった。
「北詰センセ、なんか可愛いかも!」
キャアと一声上げ、黒崎が胸にしなだれかかってきた。
(なんだよ、この変な流れは!)
場は盛り上がったようだったが、何だか無性に腹が立ってきた。こうやってだらだらとここに居てもいらつくだけだ。
勇介は黒崎を押しのけすっくと立ち上がった。
「帰ります」
低い声で言う勇介を、皆が唖然とした顔で見上げているが、そんなことはどうでもいいと思った。構わずカバンを引っつかみ、席を離れる。浅川に気を使った自分がバカだった。
「こういうのは、もう結構ですから」
勇介は捨てゼリフを残して居酒屋を出た。
居酒屋の入っている雑居ビルを出たとき、 カツカツとヒールの音が追いかけてきた。
「待って! 北詰先生、待ってよ」
「賭けに負けたのはオレのせいじゃないでしょう?」
肩で息をする黒崎女医に冷たく言うと、彼女はバツが悪そうに俯いた。長い黒髪がはらりと胸元に落ちる。
「あなたをからかって、申し訳ないと思うわ」
黒崎は俯いたまま頭を下げた。
「別に気にしていません。ただ、もうこれっきりにして欲しいですね」
その言葉に黒崎は勢い良く顔を上げた。きっちりとアイラインを引いた目元がやや吊り上がっている。
「これっきりって、どういう事ですか」
「どうもこうも言葉通りです。もう、かまわないで結構ですから」
勇介は無表情を崩す事無く静かに言ったが、心中穏やかでなかった。
(さっきからどういうつもりなんだ、この女は?)
彼女はグイと自慢の胸を突き出すようにして言った。
「だからみんなが困るのよ」
「え……?」
「仕事ぶりも前向きで、腕もいい。……ついでに顔もね」
黒崎は口の端をゆがめて笑う。この女はまださっきの続きがしたいのだろうかと、不快な気持ちになった。
「それはどうも」
パシッ!
勇介が表情を変えずに言った途端、彼女の平手が飛んできた。
「それよ、その態度!」
小気味よい音と共に怒鳴りつけられて、勇介はまじまじと彼女を見た。酔っているのかわからないが、顔が真っ赤だ。
「もう少し、みんなの気持ちを汲んでやったらどうなのよ!」
黒崎が鼻息荒く怒鳴ったあと、勇介の腕をつかんだ。
「みんなあなたのこと、心配してるのよ」
つかんだ腕をぐいぐいとゆさぶられる。
「心配? ……オレを?」
勇介はつかまれた腕をふりほどいた。やっぱりこの女は酔っているのだろう。人に心配されるような行動も言動もしたつもりはないし、仕事だってキッチリやっている。ましてや叩かれる筋合いなんてない。
「失礼ですけど、おっしゃる意味がわかりません」
怒りの衝動を無表情の中に懸命に押し込めて背を向けると、その背中に黒崎の言葉が投げつけられた。
「その冷たい態度がいけないのよ。S大病院ではどうだか知らないけど、この病院は違うのよ!」
彼女の声に、夜の商店街を歩く通行人が何人も振り返った。
「特に救命はチームでしょう? ファミリーよ。お互い信頼が無ければやっていけないし、その為には自分の言いたいことや考えをキチンと周囲に伝えていかなければいけないでしょう?」
勇介は肩越しに黒崎を振り返る。
「ボクは患者に対する処置やケアの事など、言うべき事は全てスタッフに伝えています」
何だかケンカを吹っかけられているような気がしてうんざりする。よく居るのだ。酒が入ると自分のやり方を押し付けて説教する先輩。彼女の年齢がいくつかは知らないが、それなりにキャリアもありそうだから、ひょっとしたら同じ歳か、一つや二つは上なのだろう。第一、今日初めてお目にかかった彼女が、どうしてあれこれと言うのだろう? 救命のスタッフに言われるなら納得もするが、これではただの酔っ払いのたわごとだと解釈するしかない。
じっと見ていると、彼女はさらに興奮したように言った。
「違うわよ! そうじゃなくて、ハートの問題よ!」
「ハート?」
「言ったでしょう。救命はファミリーよ。チームワークが人命を救うのよ。だからみんなはあなたが早く職場に溶け込めるようにって、今日も。なのにあなたったら、いつまでたっても仮面つけてるみたいだって……」
「仮面……」
勇介は自分の顔に手をやった。髭は濃いほうではないけれど、少しばかり伸び始めており、ざらりとした感触がした。
黒崎はここが往来だという事にようやく気付いたようだった。彼女は声のトーンを落として言った。
「着任したばかりだし、なまじ仕事が出来るから色々押し付けられちゃうのかもしれないけど、あなた一人で何でも背負い込まないで、もっとコミュニケーションとって。周りのスタッフに任せるところは任せなさいってこと。信頼ってそういうところから始まるものよ」
黒崎は胸元に掛かった黒髪を背中へと払い除けて「どうだ、いい事言うだろう!」というように背筋を伸ばした。
確かに彼女の言いたい事は良くわかった。でも勇介には根本的に意味のわかっていないことがあり、それがネックとなってどうしても彼女の言葉を素直に受け入れられない。
――ファミリー
家族とは何か。これが理解不能な以上、きっと彼女との議論は平行線だと思った。
「わかりました。これからはもっと職場のスタッフと仲良くなれるように努力します。ただ……ボクの医者としての持論もあるのでそれは曲げないつもりです」
「持論?」
可愛らしい仕草で首をかしげる黒崎女医に言い放った。
「『人は信用しても、仕事は信用するな』ボクらは人命を預かっているのだから、馴れ合いは御免です。良い緊張感の無い職場は、いずれ医療ミスを引き起こします」
勇介が、自分が一番魅力的に見えるやり方で微笑んで見せると、彼女は唖然としたような顔つきで黙り込んだ。しかし、再び背を向けて歩き出すと、我に返ったように大声で怒鳴った。
「やっぱりあなた、わかってないわよ。論点ズレてるし!」
勇介は彼女を無視して歩き続ける。わざとはぐらかしたのがわからないのだろうか。
暑苦しい女だと思った。
どうすれば人の気持ちがわかるのか、どうすれば他人と心から信頼し合える関係になれるのか。
――『家族』とはいったい何なのか。
(そんなこと、オレが一番知りたいんだよ!)
今は、自身の新しい家族との信頼関係を築こうとして、懸命に努力している最中なのだから。
皮肉にも、家族の一人を失ってから度々遭遇するこの『家族』というキーワードに、勇介の脳みそは翻弄されていた。『家族』という言葉を理解できるようにならなければ、歩と渚に本当の意味で『北詰勇介』を受け入れてもらえないのでは、と不安に思う。一緒に暮らしていても、血がつながっていても二十七年間理解不能だった『家族』というものを、肌で実感するのは多分ずっと先なのだ。それでも努力するしかない。たとえ家族ごっこから始めても。
勇介は足早に急ぐ。歩と渚が居る、まだかりそめではあるが、『家族』の待つ家に……。




