第二章「鼓動-1」
第二章突入です!
いつもお読みくださいましてありがとうございます。
いよいよ奇妙な雑居生活がスタートしました。
勇介は、子供の泣き声で目が覚めた。
そうだった……。昨日から歩と渚と一緒に暮らし始めたのだと思い出した。
寝室の隣が和室になっている。歩と渚は和室に布団を敷いて寝起きしていた。この広いマンションの部屋は、どこでも自由に使って良いのだと言ったのに、彼らは和室とリビングしか使用していなかった。
泣き声はたぶんリビングから聞こえているのだろう。部屋一つ分隔たっているせいか、別に騒々しいわけではない。勇介はベッドの中でもぞもぞしながら昨夜の事を思い返した。
昨夜帰宅すると、歩は彼なりに精一杯の誠意を尽くしてくれた。リビングにあるガラスのローテーブルに、乗り切らないほどの夕食が用意されており、勇介は目を見張った。肉じゃが、おでん、唐揚げその他数品、どれも彼の手作りらしい。
「父さんも母さんも関西の出身だったから、味付け薄いかも」
そう断りを入れた彼の料理は、やはり少々薄味だったがキチンと素材の味がして、それはそれで、とても優しくて美味しかった。
「凄いな。これ、みんなあーちゃんが作ってくれたの?」
勇介の言葉に歩は頬を赤らめて小さく頷いた。渚の面倒を見ながらもこれだけの料理を用意してくれたこと自体に何だか感動した。勇介の為に買っておいてくれたという御飯茶碗と箸を目にして、ほわっと気持ちが温かくなる。そういった細かな気遣いに、彼の人柄が良く現れていた。
こんなに良くしてもらうとは、正直思っていなかったので、彼らにお近づきのしるしを買ってきて正解だと思った。
「ボクもあーちゃんと渚にプレゼントがあるんだ」
帰り際に購入した携帯電話を歩に手渡す。家に固定電話が無いのでとりあえずのつもりだった。
「え……これって、俺の?」
彼は困惑気味に手の中の携帯を見つめている。ひょっとして、干渉されるみたいで嫌だったのかなと心配になり、反応を伺うように言ってみた。
「家族だからさ。すぐに連絡とりあえるように、ねっ」
「家族……だから?」
歩は大きな瞳を見開いてメタリックブルーの携帯を握り締めた。だんだんと瞳が潤んできたのには、さすがにどうなることかと思ったが、
「ありがとう勇さん! 大事に使わせてもらうね」
そう言って歩は輝くような笑顔になった。あんな顔で言われて悪い気はしないが、ゼロ円携帯なので、なんだかこちらのほうがちょっと恐縮したほどだった。
渚にも乗って遊べるオモチャの自動車を買ってやった。彼も歩同様えらく気に入ってくれたようで、それだけで勇介は満足だった。
ところが渚はそれ以上に満足だったらしく、なんと勇介の膝に乗って食事をした。ひょっとしたら、その行動は渚なりの精一杯の誠意かもしれないと思うと、可愛くてたまらない。
新しい家族との新しい暮らしは、勇介にとって良い刺激になりそうだった。
思考を中断し、ベッドから起き出すと枕もとの目覚まし時計に目をやった。午前五時三十分。青いカーテンの隙間から覗く空は薄暗い。
欠伸を噛み殺してリビングのドアを開けると、勇介の顔を見るなり歩は渚を叱り付けた。
「ほら渚のせいだぞ。勇さん起きちゃったじゃないか。静かにしないとダメだって、言っただろ」
渚は手に持っていたバターロールの食べかけを、歩に向かって投げつけるとキーキー喚いた。涙の粒が真っ赤な頬で光っている。
「あーちゃん、渚、おはよう」
気分はすこぶる爽やかだった。病院の仮眠室暮らしのおかげで、すっかりどんな騒ぎの中でも眠れるようになっていたから、「昨夜はとてもゆっくり出来た」と言うと、歩はホッとしたように微笑んだ。
歩は白いYシャツに制服のズボンをはき、その上にクマの絵がついたエプロンをして、忙しそうにキッチンとリビングを往復していた。茶髪頭をしょっちゅう撫で付けるが、寝癖のせいで毛先は撫でたそばからピョンと立ち上がって思い思いの方向に向かう。彼は時々渚に声をかけてはヨダレや鼻水を拭いたり、床に散らかった食べこぼしのパンくずを拾ったりと片時もじっとしていない。
渚はと言えば、ストロー付きのコップを持って、がらんとした広いリビングをウロウロしている。その様子を見て、いい事を思いついた。
今度の休日に、歩と渚と三人で、このリビングに置くテーブルと椅子を買いに行こう!
ダイニングテーブル。
それはまさに家族の団欒だ。
落ち着いて食事をする場所が無いから渚はウロウロしているし、歩も行ったり来たりしているのだろう。それに歩の勉強机だって必要だ。布団の上げ下ろしも手間がかかるから、ベッドを買ってやってもいい。とにかく彼らの喜ぶ事をしてやりたくて仕方が無い。こんな気持ちは生まれて初めてだった。
昨日携帯をプレゼントした時に見せた歩の嬉しそうな顔が脳裏に浮かぶ。あの、輝くばかりの笑顔がもう一度見れるなら、何でもしてやりたいと思えるほどだった。
自分の考えに一人頷いて、歩の姿を探した。
彼はキッチンで自分の弁当を作っているようだった。背後から覗くと彼は気付いて言った。
「勇さんの朝食、用意できてるから。顔洗ってきて! 今日は雨で自転車使えないんだ」
「え……自転車?」
妙に焦った口調で言われ、買い物の事を言い出せなくなってしまった。
「晴れた日は自転車で渚の保育園まですぐなんだけど、雨だと電車とバスで通学時間が倍かかるんだよ。特にバスは道路が混むからね。だから今日は早く出ないと!」
慌ただしい動きで弁当を包むと、歩はリビングを飛び出して洗面所へ行ってしまった。ガタガタと洗濯機をいじる音がする。
(え? 朝から洗濯してるのか? しかも雨なのに?)
ぼーっと突っ立っている勇介の足元に渚が纏わり付いてきた。
「渚、もう朝ごはん食べたの?」
脇の下に手を入れて抱き上げ、胸元に抱えると柔らかくてあったかい。
(なんか、ネコみたい……)
ぷっくりとしたほっぺに思わず頬ずりしたくなり、ギュッと抱きしめた途端に、渚の口から「グエッ」という音と共に大量のミルクが戻ってきて、勇介のパジャマが濡れた。
「うへっ!」
思わず渚を放り出して自分の胸元を見下ろした。
(うわっ! くっさーー!)
ミルクのゲロは死にそうなほど臭い。渚は黒目がちの瞳で勇介を見上げると、右足の周りをぐるぐる回り始めた。何だかこちらの目が回りそうだった。
リビングのドアが勢い良く開いて洗濯物を抱えた歩が入ってきた。洗濯籠の中身は殆ど勇介が病院の泊まり中に溜め込んだ下着類だった。
「あーちゃん、それオレのでしょう。自分でするからいいよ!」
慌てて洗濯籠を奪い取ると、歩は鼻の辺りにしわを寄せた。
「勇さん、……臭い。もしかして……」
彼はすぐにニオイに気付いて目を三角に吊り上げた。
「渚の仕業だね。早く脱いで! 洗濯しないとシミになるよ」
「え?」
歩は勇介のパジャマをあっという間に剥ぎ取って今度は浴室に消えた。勇介は上半身裸のまま、再びぼーっとリビングに立っていた。
(なんか……非常に慌ただしい)
小さな子供の居る家庭を知らないので、朝からバタバタする彼らに少々眩暈がした。何か手伝わなくてはと思うのだが、何をしたらいいのかわからなかった。
結局買い物の件を言い出す時間も無いままに、歩は渚を負ぶって登校してしまった。
「そうだ、車で送ってやればよかったのに」
彼らの騒々しさに毒気を抜かれてボケッとしていた勇介は、自分の気の利かなさを呪った。やはりこれも日頃の生活態度が原因なのだろう。人の為に何かをしてやろうという基本姿勢が出来ていないのだ。他人が今どうして欲しいのかという事がすぐに思いつかない。
《勇介くんは、他人に対して無関心なところがあり、言葉かけも足りません》
学生の時の通知表にいつも書かれていた言葉だ。要するに、他人の立場に立った考え方が出来ないという意味なのだろう。当事は「ふん」という感じだったが、今はよく理解できるし、身に沁みる言葉だ。
それに引き換え、まだ十五歳の歩の方がよっぽど人間が出来ていると思う。彼は結局勇介の洗濯を干し、渚のオムツを替え、台所の片づけまで済ませて出て行った。やはり歩はかなり几帳面な性格らしい。
「やりっぱなしにしておくと、帰ってきてからうんざりするんだよね」
そう言いながら鍋を洗う歩を、勇介はひたすら尊敬の眼差しで見ていただけだった。働く姉の代わりに家事と育児の一切を任されていたというのはウソではないようだ。あまりに手際が良いのと、ごく自然な作業動作のせいだろうか。手伝うとか、そういったことがまったく思いつかなかったのだ。
心を入れ替えなければいけない。
そう痛感した。先回りをして彼らの面倒が見れるくらいにならなければ。なんたって自分は大人で、彼らの保護者なのだから。
人の立場で考え行動する。
この考え方は、勇介自身の職業にもダイレクトに通ずるはずだ。
「歩の立場に立った考え方、患者の立場に立った医療」
洗面台の鏡に向かって声に出してみた。
(ふむ、結構前向きでいい言葉じゃないか。あーちゃんに尊敬されるような、頼れる大人にならなきゃね)
そう思ってまた歩の事を考えていると気付き、勇介は首をかしげた。誰かに認めてもらいたいなんて思うのは、医者になって間もないときの恩師、香川教授以来だった。しかも今回は完全に意味合いが違う。香川に対しては、医者としての北詰勇介を認めてもらいたかった。そのために寝る間も惜しんで勉強した。でも今度は違う。相手は年下の歩であり、その彼に人間としての北詰勇介を認めてもらいたいと考えているのだ。そんな自分にかなり戸惑う。
(このオレをそんな気にさせるなんてなあ。鳴沢歩。不思議な子だな……)




