「変化の兆し-1」
十日間の忌引き休暇を終えて職場復帰した勇介を待っていたのは、周囲の冷たい視線だった。元々同僚からは嫌われていたから、それほどストレスにはならなかったが、執刀予定の患者からオペのキャンセルが相次いだ事が勇介を果てしなく落ち込ませた。
(なぜ父の件だけで、執刀拒否をされたりするのだろう?)
あまりにも理不尽な気がしたが、選択の権利は患者にある。きっとこれは自分の腕が未熟だという事なのかもしれない。
「気にする事はないさ。キミのおかげで元気になった患者の方が、何倍も多いのだから」
勇介に対する態度を変えなかったのは、上司であり恩師の香川教授だけだった。
教授の研究室を出ると、前方からこの病院にいつも出入りしているSK製薬の営業マンがやってきた。勇介と同じ歳くらいの営業マンはこちらに気付いて廊下の真ん中で立ち止まった。会釈をすると、彼はフッと鼻で笑ったようだった。ムッとして睨み付けると、営業マンは言った。
「とんでもないスキャンダルだな。驚いたよ。まさか杏子ちゃんの子供の父親が、北詰部長だったなんてな」
「お前が、言いふらしてるんじゃないのか?」
営業マンは凄い目つきで睨み返すと言った。
「バカな! 何で俺が自分の首を絞めるようなこと!」
とことん世間知らずなんだな。と、営業マンは呆れたように呟く。勇介がよくわからずに首をかしげると、彼は吐き捨てるように言った。
「ライバルの製薬会社にウワサ流されてよぉ、SK製薬は今日限りこの病院、出入り禁止になったんだぜ」
勇介は耳を疑った。
「なんでそんな事ぐらいで?」
その言葉に、営業マンは目を三角に吊り上げた。
「そんな事ぐらいだと? 冗談じゃない! 企業はイメージが大切なんだ。一度しくじると、ウワサに尾ひれがついて取り返しがつかないんだ!」
勇介は、オペを断ってきた患者たちの事を思い返す。誰もが揉め事には巻き込まれたくないのだ。
「せっかく大口顧客を担当できたって喜んでたのに! 逆に給料カットで妻に合わせる顔がない!」
営業マンは泣きそうな顔になり、クルリと踵を返すと廊下をすごい勢いで走り去った。勇介は彼の背中を見ながら、つぶやいた。
「明日は我が身か……」
明日どころではなかった。第一外科のフロアに戻ると、彼は早速院長室へ呼び出された。
「北詰、元気でな」
一つ先輩の沢木がニヤリと笑って勇介の肩を叩いた。沢木を無視してフロアを出た。S大病院の人事は良く知っている。問題アリのドクターに課せられる処分はパターンがある。内科では末期がんの病棟勤務か、系列の老人福祉施設だ。外科の場合はどこだろう? きつくて割に合わないといえば救命しか思い浮かばなかった。
エレベータで最上階に上がると、重厚な木目のドアを前に、ため息をついた。ドアの横のプレートには「院長室」と書いてある。
ノックをしてドアを開けると、正面の机に白髪頭で細身の、メガネをかけた男性が座っていた。S大学附属病院(S大病院)の院長・山下である。
「第一外科の北詰です。お呼びでしょうか」
声をかけ、室内に入ってドアを閉めた。
「いやぁ、北詰くん。この度は、お父上のSK製薬営業部長が、あんな事になってしまって……。キミも大変だったろう?」
山下院長は、故意に父の肩書きを口にした。
「院長をはじめ、病院の関係者の方々にも、大変ご迷惑をお掛け致しました」
勇介は型どおりの挨拶をし、頭を下げる。
「秘書の女性の方も、お気の毒でしたな。まだお若いのに。しかし、営業部長直々に車を運転されていたとは。何か私用でもあったのですかねぇ」
山下はメガネの奥から、探るような目で勇介を見て言う。
(知ってるくせに……。どうしても、オレの口から言わせたいのかよっ!)
唇を引き結んで沈黙を守った。その無表情な沈黙をどう解釈したのか、山下院長は突然本題に入った。
「北詰くん、キミ救命に行ってはどうかね」
「え、救命ですか?」
来たな……
予想通りの展開にも、一応驚いたフリをしてみせる。先程沢木に声を掛けられた時点で覚悟していたことだ。おそらく沢木は勇介がとばされた後を全部ひきつぐ腹づもりなのだろう。そう思うとしゃくにさわるが、研究や学会の報告などは向いていない仕事だと思っていたから、常に実務が出来る救命の方が、もしかしたら自分には向いているのかもしれない。
「そう、救命は医療現場の第一線だ。若い医師が腕を磨くにはもってこいだと私は思うのだが」
山下院長は至極もっともな言葉を口にした。しかし彼の目はどこか楽しげだった。山下のメガネが、窓からの光を受けてキラリと光る。
「ここの救命は確か、今スタッフは定員のはずでは?」
(救命、上等じゃねぇか! 香川教授の右腕のオレを舐めるなよ。必ず第一外科に復帰してやる!)
勇介は少々の反抗心を持って、院長を睨み付けたが、彼の次の言葉にその意気込みは無残にも砕けた。
「いや、ここの救命ではなくて、Y市にある市立総合病院に行くのだよ」
「へ……?」
気が付けば、勇介は馬鹿みたいに口を開けて突っ立っていた。
「市立総合病院は、確かキミの父上が運び込まれた病院だったと思うが、違うかね? これも何かの縁だと思って、父上の世話になった病院で働いてみたらどうかね。第一外科の香川教授も承知している事だし」
香川教授の名前が出て、頭の中が回転し始めた。院長が続ける。
「香川教授もキミのように有能なスタッフを手離したく無かったのか、ずいぶんと渋っていたがね」
勇介はグッと唇を噛んだ。教授の力を持ってしても、どうにもならないぐらいに厄介者と化していたのだと思い知った。蒼白な顔の勇介に、山下院長は猫撫で声で言う。
「キミもここに居て、父上の事で色々言われるのもイヤだろうと思ってね。まぁ、我々の親心だよ。今回の不祥事でSK製薬も手を引いたようだし。うん、なんだ……今後、キミにはちょっと期待できそうもないしねぇ」
今までまったく気にしていなかったが、SK製薬営業部長という父の後ろ盾の大きさが色々な意味で身にしみた。
(つまりは金か……)
父が亡くなったことで、出世街道から完全に脱落したに留まらず、最先端の外科的医療の場からも切り離されてしまうなんて。
あらためて考えてみれば、しょせん自分はそれだけの医師だったということだ。
(なにが「香川教授の右腕」だ。オレはバカだ……)
大学附属病院と市立の総合病院では、明らかに格が違う。
人事はもう覆らない。
勇介は一礼すると、不快な表情が表れないように気をつけながら院長室を出た。
職場に戻ると、事務員がやって来て最後通告を言い渡した。
「先方が出来るだけ早い着任を希望しています。北詰先生、今から荷物を持って、市立総合病院へ行ってください」
有無を言わせぬ口調に、渋々肯いた。
第一外科のデスクで荷造りをしている間じゅう、同僚たちはそこに誰もいないかのようにして振舞った。毎日のように勇介の美貌を目当てに顔を出してはキャーキャー言っていたナースたちでさえ、ひと言二言声を掛けてきただけだった。
職場に未練はないが、香川の指導がもう受けられないのだという事が彼を打ちのめした。香川の下ではいつも最先端の外科医療が展開されていた。教授もここぞという大仕事の際には、必ず勇介をチームに指名してくれたから、彼は常に最新の設備と最高の条件の下で腕を振るう事ができた。
(それも、もう出来ない……)
《S大学附属病院第一外科・医師 北詰勇介》
名札をデスクに放り出すと、勇介は数年間にわたって勤務したS大病院の巨大な建物を後にした。




