序章~1章 「出逢い-1」
序
彼を見たのは、父の搬送先の病院だった。初めてなのに、どこかで見た事があるように感じたのは、彼が杏子にとてもよく似ていたからかもしれない。くしゃくしゃな茶髪を撫で付けながら、彼は茶色がかった瞳でじっとこちらを見ていた。
第一章 出逢い
桜前線が関東地方に掛かったと、カーラジオのニュースが告げていた。北詰勇介はウィンカーを左に出すと、案内にしたがって病院の敷地内に車を乗り入れた。桜の古木が駐車場をぐるりと取り囲んでいる。ちらほらと白い花をつけた枝が春の風に揺れていた。この一大事に、桜を見上げる余裕があるとは思わなかったので、勇介は自分自身の冷静さに少々驚いていた。
父が交通事故に遭ったと知らされたのは、ほんの数時間前だ。職場に居た勇介は、急いで父の収容先である、ここ市立総合病院に車で駆けつけたのだった。
救命の入り口から入ると、オペ室前の廊下を見渡した。『手術中』の赤いライトが点灯した扉の前で、ぼんやりと佇む母の姿があった。パールグリーンのシャネルスーツに身を包み、黒いエナメルのケリーバッグを提げた母は、彼の姿を認めると引き結んでいた口の端を歪めた。久しぶりに見る母の顔は、こんな時だというのに相変らず完璧に化粧が施されている。勇介は薄暗い廊下を、ゆっくりと母の方へ歩いて行った。
「父さんは?」
母はガラス玉のような目でこちらを見ながら低い声で言った。
「……まったく、何なのよ。いいかげんにしてほしいわ」
吐き棄てるような言い方に勇介は眉根を寄せ、非難の言葉を口にしようとしたが、思い直して口をつぐんだ。化粧でも隠しきれないほどに血の気の失せた母の顔色を見たからだ。母はそれ以上何も言わずに『手術中』の赤い表示を見上げていた。
数分後、オペ室の扉が細く開いた。顔を出した看護師が中に入るよう手招きする。母と顔を見合わせてから中に滑り込む。オペ室内は中扉によって仕切られており、中扉に付いているガラスの向こうに父が横たわっているのが見えた。はやる気持ちを抑えて、父が運び出されるのをじっと待つ。容態を自分の目で直に見たかった。
丁度オペが終了した所だった。オペといっても、つぶれてしまった内臓を取れるだけ取り去って、傷口を縫い合わせて止血したにすぎない。中扉が開き、ストレッチャーに乗った父が運び出されてきた。
「父さん……」
勇介はひと目で父の容態を悟った。
もう……助からない。
父をICU(集中治療室)に運ぶ為、看護師数名と担当の医師、それに母と勇介が付き添って、廊下を進んだ。
そのときだった。
勇介の視界に彼の姿が飛び込んで来たのは。
華奢な体つきをした少年が、廊下の壁に貼りつくようにして立っている。
看護師二名、ストレッチャーに乗せられた父親、それを追う母親と勇介、一塊になって彼の脇を通り抜ける。
何故彼はこんな所に居るのだろう? 実の姉、鳴沢杏子が亡くなったというのに、たった一人の弟がこんなところでウロウロしていていいのだろうか?
その時はそんなことくらいしか思い浮かばなかったから、会釈もついついおざなりになってしまったかもしれない。
少年は驚いたように、大きな瞳をさらに見開いてこちらを見ていた。わずか数秒の事だが、勇介の目蓋の裏にその瞬間の映像が鮮明に焼きついた。
父が、秘書の鳴沢杏子と不倫関係にあることは、とっくに本人から聞いていた。母以外の女性と付き合っているという事自体は別段驚きはしなかった。父は勇介が大学に進学する以前から女性関係で母と揉めていたからだ。それも一度や二度ではない。夫婦の間では、常に離婚という文字がやりとりされていたから、大学時代の一人暮らしを終えて実家に帰って来たとき、まだ離婚していなかった事実に少々拍子抜けしたのを覚えている。
ICUに移された父は、もう手の施しようがなかったので、勇介と母はその時が来るのをじっと待った。枕元の機器から心拍数の低下を示すコールが断続的に続いている。
交通事故。スピードを出しすぎた車がカーブを曲がりきれずに中央分離帯を乗り越えて父の運転する車に正面衝突したとのことだった。エアバッグも意味をなさず、胸から下全てを押しつぶされた父は、あらゆる内臓にダメージを負った。
搬送先の市立総合病院の救命医たちは本当によく手を尽くしてくれた。
同乗していた秘書の鳴沢杏子は即死だった。相手車輌と座席に挟まれて頭部粉砕骨折。気の毒としか言いようがなかった。ただ、彼女の死に顔は驚くほど穏やかだったという。そのわけはたぶん、奇跡的に助かった彼女の子供のせいだろう。同乗していた一歳半になるという彼女の息子は、かすり傷程度で生還し、今この病院の小児科に入院している。彼女が身を呈して息子の命を救ったのだろうと思われた。
父と鳴沢杏子の事で、別段驚かなかった勇介も、さすがに二人の間に子供が出来た事には仰天した。はっきり言って言葉も無い。
何故って……
彼女はまだその当時二十歳で、今年二十七の勇介より五つも年下だったのだから。
「あなた、しっかりしてください!」
ケンカばかりしていたくせに、母の目にはうっすらと涙が盛り上がっている。自分の母親に対して言うのもなんだが、本気の涙かどうかなんて、甚だ怪しい。
父は焦点の定まらぬ目をさまよわせて、何かしきりにもぐもぐ言っている。勇介はかまわず酸素マスクを取り去った。父は自分の手を握る母を振り払う仕草をした。隣に座る母をチラリと横目で見ると、泣き顔が一変し、彼女は鬼のような形相になった。
「父さん、何が言いたいの?」
真っ青な父の唇に勇介は耳を近づける。荒い呼吸と共に、父のしわがれた声が流れ込んでくる。
「…………」
勇介は一瞬声を上げそうになったが、黙ってぎこちなく肯いた。これが父の最後の望みならば、息子として聞いてやるしかない、そう気持ちの上では納得しても、父の唇から漏れた言葉に驚きを隠せなかった。それが臨終の言葉とは。
目の端に映る母の横顔が直視できない。いくらなんでも母が気の毒すぎる。いったいこの二人はどこまで冷め切っていたのだろう?
苦しい息の元、父は言った。確かにこう言った。
「歩と渚を頼む……」
ピーーーーーーーーーー
断続的だった機械音が、悲鳴のように尾を引く。
バイタルゼロ。
医師による瞳孔の確認がなされ、カルテに時刻が刻まれた。我が父・北詰大介氏の人生終幕の時刻。
父が最後に口にした言葉。一人息子の勇介でもなく、長年連れ添った妻でもない二つの名前を、ぶつぶつと口の中で反芻していた母は、ふいに立ち上がった。座っていたパイプ椅子がガタンと音を立てたので、ICUにいたスタッフ全員の目が集まった。だが、母は周りが見えないようだった。
「……認めない」低い声である。「ぜったいに、認めないわ」
繰り返される、まるで呪詛のような母の言葉に、担当の医師は果てしない誤解をしたようだった。
「お気持ちはわかりますが、我々は尽くせる手は全て尽くしました」
母の口から出た「認めない」の意味を把握しているのは勇介だけだった。スタッフ一同が頭を深々と下げるのを、彼は無言で見守った。
担当医から死因と処置の状況説明があると言われ、勇介は蒼白な顔でワナワナと唇を震わせて立ち尽くす母を残して、続き部屋へ移動した。
小さな事務机に座った胡麻塩頭の中年担当医に粗末なパイプ椅子を勧められた。時間短縮を図るため、こちらから二、三質問をすると、担当医は驚いたような顔になり言った。
「すべておっしゃるとおりです。私からはもう貴方にご説明する必要はないでしょう」
蒼白だった母の様子が気になり、別のドアからICUを出た。
夕陽が差し込む廊下には、母の姿は見当たらなかったが、代わりに思いがけない人物が居た。くしゃくしゃの茶髪のまま、ICUのソファの一番はじっこに座っている少年は、まるで仔猫のように小さく身を縮めている。さっきオペ室の前ですれ違ってから三時間以上経っているが、あれからずっとココに居たのだろうか?
彼はこちらに気付くとはじかれたように立ち上がった。ほっそりとした華奢な体つき。少年特有の長い手足に細い首筋が目を惹いた。潤んだ大きな瞳から、大粒の涙が転がり落ちるのを見てドキリとした。
「鳴沢歩くんだね。北詰勇介です」
父の死に際の言葉が甦る。
――歩と渚を頼む
最愛の父は、どこまで我がままだったのかと呆れる。一人息子の自分に、愛人の弟と愛人との間に生まれた赤ん坊の事を頼むなんて。
少年の顔をじっと見つめた。綺麗な顔をしていると思った。亡くなった姉の杏子より七つ年下だと聞いている。十五歳の中学三年生で、杏子以外に身寄りは無い。
鳴沢姉弟の両親は、三年前、列車事故で亡くなった。姉弟の父親と勇介の父は大学時代の親友で、その関係か、父が彼らの面倒を後見人としてみてやっていた事は生前聞いてた。鳴沢杏子とは何度か顔を合わせたことがある。一番新しい記憶は二年ほど前、仕事の都合で父の勤務先に出向いた時に、秘書として働く姿を見かけた。そのときは、会釈をしただけで口は利いていない。なんだかずいぶんと垢抜けたなと、そんな印象を持った。思えばあの時すでに彼女のお腹には父の子供が居たのだ。父は鳴沢杏子の就職を世話したが、余計なことまでしでかした。親友の子供を面倒看るどころか、愛人にして子供まで作っていたのだから、父は呆れ果てたエロジジイだったのかもしれない。
過去に見た鳴沢杏子の顔が記憶の彼方に消え失せると、目の前に茶髪少年の顔が戻ってきた。
勇介は夕暮れの廊下で佇む鳴沢歩少年に、一歩、二歩と近付いた。ニキビ一つ無い滑らかな頬を、透明な涙が流れ落ちてゆく。
この少年は一人ぼっちになってしまったのだと思うと、知らず知らずに労るような言葉が出た。
「悲しい目に、あったね……」
声をかけてやり、頬を流れる涙を指先ですくってやると、彼はスイッチが入ったように動き出した。
差し延べた手をやんわりと払い除けて、懸命にフリースの袖口で涙を拭う仕草に、不覚にも切ないものが込み上げてきてしまった。最愛の家族を亡くした遺族の姿を見るのは初めてではなかったが、今回はいつもと勝手が違う。目の前の少年に、自身の姿を重ねる。世間から見れば、父は単なるエロジジイか、それ以下かもしれないが自分にとってはたった一人のかけがえのない人だった。
再び目の前の少年に目を戻すと、彼は気丈にも涙を堪えて言った。
「あの……北詰さんの具合は?」
勇介は今初めて少年の目的を知った。普通、たった一人の姉の死だけで頭がいっぱいになってしまうというのに、彼は父の事を案じてずっとココに居たのだ。何だか信じられなかった。確かに亡くなってしまった人の事は仕方がないが、赤の他人の為にどうして? それとも、父は彼らにとってそれほど大切な人物だったという事なのだろうか。
彼は気づかわしげに勇介を見上げている。そう……父の事を聞かれていたのだっけ。
「今、息を引き取ったよ」
その言葉に、鳴沢少年の大きな目がふっと伏せられた。長い睫毛が目元に濃い影を作り、また一筋、涙が彼の頬を伝った。
なるべく連日更新していきたいと思っています。
よろしくお願いしま~す。