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しい

空に来ていた。




見えるのは青と白と。

雲と鳥と海と。

電車が、ゆうら、ゆうら、

左右に揺れて。


「素敵──」

思わずそんな月並みな言葉がハツの口をついて出る。隣に座ったサラリーマン風の男性がちらとこちらを見てきたので、ハツは耳まで赤くして俯いた。


空に来たとハツは思った。あの時。あれは幾つの時だったろう。

街並みや電線や緑なんかが一斉にふっと途切れて、突然目の前に青と白の世界が広がった。空は海と繋がって。雲が浮いていて。白い海鳥が飛んでいて。

たぶん、あそこは小高い丘の上だったのだ。小高い丘の上に線路が敷いてあって、海の近くだったから樹も住宅もなかったのだ。


だから何にも邪魔されずに、空と、海が。

──そう。


海が見えた。






夏休みは今日で最終日だった。明日からまた昼間の生活が始まる。夜の電車に乗るのも今より控え目にしなければならない。授業中眠り込んで勉強で遅れをとるような事はしたくない。

ハツはいつものように夜の景色を眺めて揺られていた。

電車で暮らすようになったらどうだろう、と考える事がある。つまり、非日常が日常になったらどうだろうと考えるのだ。

どこにも縛られない、どこにも依存しない、けれどもどんな場所に行っても必ず安心できる電車内テリトリーに住めて、外で何があっても影響を受けない。

そうしたら周りに煩わされずに考え事や創作に集中出来るだろう。

たぶんそこでは時の流れも違うのだろう。

年も取らないだろう。

──そんな事。

有り得ないけれど。馬鹿げている。なのにハツはそういった事を時々真剣に考えてしまう。

何を持っていこうとか。

何をしようとか。

──頭悪い。

たしか昔のアニメでそういうのあったよなあ、と思ったらすこし笑えた。

「何?」

今日も当然のように隣には左記子が座っている。

「思い出し笑い?」

「そう」

何を思い出して笑ったのかは訊いて来ない。

きっとハツは答えないと分かっているのだろう。

「私もね、」

左記子は座席に寄りかかって車内の天井を仰ぎ見る。

「特に電車とか、乗り物に乗ってるときって、自分の世界に入って妄想しちゃうんだよね。有りもしない事色々。 でも他人から見るとぼーっとしてるようにしか見えないらしくて。本当は、頭の中フル回転なんだけど」

「それ、考える以外の機能止まってるからそう見えるんじゃない」

「そうかなあ」

ふふ、と左記子は笑う。初めて声を出して笑った。

腕の時計を見ると01:23と表示されていた。

深夜の皆橋駅は午前一時より無料開放され、一時五分になると上り方面から電車が来る。

それから三十分かけて終点まで行き、今度は逆走して皆橋駅へ戻る。深夜だからこそ出来る事である。

──あと四十分。

別に旅でもないのに、旅の終わりみたいな気持になって来る。

内臓が静かに圧迫されるような、苦い染みが付くような、上手くは表せないけれどそんな気持。左記子が再びぽつりと口を開く。

「夏休み、今日で終わりだね」

「うん」

「明日から学校で会えるね」

「うん」

だから何、といつものハツだったら云うところなのに。

あのね──左記子は伸ばした自分の脚の、サンダルの先を見つめる。

「私、学校が始まったらあんまりここへは来ないと思う」

「そう」

そんなの。 ハツだってそうだ。

「ちょっと寂しい」

「そう」


左記子は両脚をゆらゆらさせる。水中のばた足みたいに交互に動かしている。座席の縁を両手でぎゅっと掴んで、足先を眺めてただいつまでもそうしていた。子供みたいに。


電車の音が低くゆっくりとしたリズムに変わり始める。徐々に運転速度を落としてゆく。

終点に近づいているのだ。

──終わりに近づいている音。

他のどんな音よりも、ハツはこの音で終わりを予感する。

間もなくこの電車は終着駅に入り、暫く停車して皆橋駅へ折り返す。

何故かここで聞く音は特別で、他のどんな駅で聞く震動音よりも終わりっぽく感じてしまう。

左記子がすっと顔をあげる。

真っ暗で景色なんか何も見えない、その窓の先の何かに目を凝らす。ハツには見えない暗闇の先が左記子には見えているのだろうか。

「梅渓さん」

大きくはないが凛とした芯の通った声だった。

「お願いが、あるの」




✳︎




そういう訳でハツは並んで左記子と砂浜に立っている。



──停車したら、一緒に降りない。


──一度見てみたい処があるんだ。


──ほら、あそこの。


──あそこに海が見えるでしょう。


終点の真ん前に海があるなんて知らなかった。

ハツは毎晩、海の近くまで来ていたという事か。

砂粒が隙間だらけのサンダルを通過して足を包む。

波の音。

最後だから、と左記子は云った。

今日が最後だから、お願いと。

電車が停車した途端に左記子はドアへ駆け寄り、窪みに手を掛けた。

ドアは難なくするりと開いた。


──ここは。

いつか見た、昼間空と繋がっていた、あの、空みたいだと思った海か。

あの時乗っていたのはここの路線の電車だったのだろうか。

「昼間だって海なんか滅多に行かないんだけど」

月の光のみ浴びた左記子の全身が青白い。

「どうしても一度、夜の海を見てみたくて」

夜の海を見るのはハツも初めてだった。昼間のイメージとはまるで違う。 昼間の、あの自由で寛容なイメージとは。

この水は世界と繋がっていて、バリアなんか無くて、泳いでいけばアメリカだってアフリカだってどこへでも行けてしまうんだ、と夏の昼間なら感慨に耽る事が出来るのだけれど。


夜は。

なんだかいきものみたいだ。


天体の光だけを浴びてぬらぬらと光る波の様子や、波の音がやけに大きく感じられて。

主体が闇のように思えて。

何もかもを呑み込んでしまいそうで。

波打ち際に近づいてみる。

砂浜は安定しなくって歩きにくい。さらさらと柔らかい砂が足裏に纏わりついてくる。生ぬるい。

波の音。

左記子もゆっくりやって来て側に立つ。

波の音。

ここは──。

日本ではない。

地球ですらない。ここは、

夜だ。

このいきものは海ではなくて夜なのだ。

夜には力があると、ハツは信じている。

子供みたいにあからさまな力があると信じている訳ではない。


、、 、、

でも、夜は。


ハツも左記子も、何も云わずに波の音を聞いていた。


昼のハツと昼の左記子と。


夜のハツと夜の左記子。


夜と昼のあいだ。


正常と狂いの狭間の狭間──。



「海って夜に入ったら死にそうに思わない?」

左記子が囁くように話し掛けてくる。

「思う」

音で殺される。闇に殺される。

海底の得体の知れない生物に噛み殺されそうな気もしてくる。

「思うだけだけど」

「私入る」

左記子は唐突に宣言して、たぶん笑った。云うなりどんどん海に近づいていく。

海が、左記子が、みるみるハツと距離を離してゆくように感じる。

「待って」

言葉より先に足が動いた。待って、ともう一度呼んで走り寄る。

「私も入る」

目を丸くした左記子の瞳が月明かりを反射して、波のようにぬるりと光った。

「ここまで付き合ってるんだし。 ちゃんと最後まで付き合う」

もう海はすぐ目の前で待っていた。

ハツは立ち止まって、海と向き合った。

一歩前へ出る。

寄せてくる波が迫ってきてつま先を掠める。砂と同じで、生ぬるかった。

海水は一定間隔をおいてまたやって来る。ハツの足指に絡み付く。 そのまま何かにぐいと引かれ、次の瞬間ハツの全身は海に浸った。

いっしゅん、視線の端に白いワンピースと一緒になって海中を揺れている左記子が映った。

思っていた程怖くはなかった。水温も心地好い。ハツは自分でも驚くほど落ち着いていた。

たしか七十パーセント、それとも八十パーセントだったか、人間の体は殆んど水分で出来ているそうだ。

だから、海に溶け込むのは案外簡単な事なのかも知れない。体内の残りの三十パーセントが水分で満たされればいい。

空気の泡が顔に当たる感触を妙にはっきり感じ取る。

ハツの口や鼻の中に海水が侵入していく。






本当に。


海に入っているあいだ、ハツは死んだ。

ハツという個体は無くなって、闇と夜と一体化していた。









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