第7話:チョコレート記念日
空は高く青い、天気は上々。
暑くもなく寒くもない。実に過ごしやすい季節だ。ドアに掛かったプレートを”open”表示に返し定時に店を開ける。
―― 準備は万端
ただいつもとちょっと違うのは店主が不在だということだった。
「あれは何か抱えてるよな」
「え?ああ。そう、かもねぇー」
今日の手作りシフォンケーキは抹茶だ。庭の緑を見ていると何となくそんな気になった。優はカウンターに寄りかかり店内を眺めていた克己の前をさらりと通り過ぎ、綺麗に焼きあがったシフォンケーキをショーケースにディスプレイして頷いた。
店主不在の店内は、差し歯が取れたように何かが足りないような気がした。
留守を任された二人は普段と変わりなく客を出迎えたが、正直一人客がなるべく来ないように願っていた。
しかし、その願い空しくオープンテラスに座った一人の女性。時折木の天辺を青いではうつむいて溜息を漏らす。そんなことを一時間以上も一人で繰り返しているのだから気にならないという方が嘘になる。
もともと此処へ来る一人客の殆どがあんな感じなのはいつものことだ。そういう人間がまるで道に迷った先にやっと見つけたとばかりにふらりとここへ足を向ける。
でも、いつもなら店主がいるのだ。
「マスターだったら絶対声かけるよな」
「だろうね。ほら、気になるなら何か言ってきなよ」
「俺に振るなよ」
「僕が見つけたわけじゃないし、僕はそんなに気にならない」
そういってにっこりと毒のない笑顔を浮かべ、ぽんっと克己の肩を叩いてさっさと裏へと引っ込んでいった優を「冷たい奴」と小声でぼやきながら恨めしげに見送った。
「僕は冷たいんじゃなくて分を弁えてるだけだよ。気まぐれでするようなことでもない」
地獄耳なのか違う?と釘を刺した彼に他意はない。克己はぶすっとしたまま両肘をカウンターにつき顎を乗せた。結局彷徨う視線が行きつく先は彼女の元だ。
あ、ハンカチ出した。
あちゃー、泣いてるんじゃねぇ?
何があったんだろ?ん?携帯見てる。実は待ち合わせだったのか。
彼女の動きに合わせて眉間を寄せたり離したりしている克己の背後から”ばこん!”と軽い音が響いた。
「いてっ!」
「鬱陶しいっ!声かけるつもり無いならさっさと仕事して!」
優に叱咤された克己は不服そうな表情をしたままお盆の裏で叩かれた頭を擦りつつ折った腰を伸ばした。それとほぼ同時に入ってきた客の為、メニューとお水・お絞りが人数分乗せられたお盆を優から受け取る。
テーブルへと歩みを進めながらもちらと例の場所に視線を送ったが相変わらずな調子だった。
―― ……ふぅ
と大きな溜息をつき他の客の注文をとるが明らかに心此処にあらずだ。
「あの、聞いてます?」
「あ、すみません。大丈夫ですよ、ご注文繰り返させていただきます」
大丈夫と言っておきながらやはり上の空で聞き繰り返した注文は間違っていた。あはは…と情けなく笑うとカウンターで見ていた相方が渋い顔でにらんでいた。
―― 仕方ないじゃないか。ここで、あんな顔されてたんじゃ…ったく、何でこんな日に限っていないんだよ。
ちぇっと小さく舌打ちして注文を伝えにカウンターへと戻る。優に軽食を頼み自分は飲み物をとカウンターへ入る。
「ボケマスター」
―― ぼすっ
「いてっ!」
「誰がボケですか」
用事とやらから丁度今しがた戻ってきたらしい店主に書類ケースで頭を叩かれた。ちらちらとテラスの様子を伺いながらエスプレッソメーカーに気を取られていたら、愚痴が声になっていることに気がつかなかった。
今日は厄日だ。思わずぼやいた声に店主は「何ですか?」と問い返していたが克己は頭を左右に振った。もう一発は勘弁願いたい。
「ちゃんと留守番していてくれてましたか?」
「店番だろ?」
「どちらでも構いませんよ。似たようなものでしょう?お土産に生チョコレート買ってきたんですけど後でいただきませんか?」
にこりとそういって笑った店主に克己は棘を抜かれた。
だが、今はそれよりも。
裏へと引っ込もうとしていた店主の腕をぐいっと引っ張った。少し驚いた様に振り返られたがそんなことはどうでもいい。
克己は顎でテラスを杓った。
「気になるんなら克己が行けば良いんだよ、さっきから」
「煩いな」
店主の腕から書類ケースを受け取りつつ相方に悪態をつかれて「いーっ!」と口を横へ歪める。その様子に店主は「また子供みたいなことを」と少々呆れたように微笑んで肩を竦めた。
「あれでも、寛いでいらっしゃるのかもしれないでしょう?」
テラスの女性をちらりと見た後、口ではそういいながら店主は上着を脱ぎ荷物に重ねるとカウンターの裏にかけてあったエプロンを身に着ける。
そして、静かに彼女の元へ足を運んだ。その様子を少し緊張した面持ちで眺めている克己の様子に優は苦笑して肩を竦めた。
店主の片手には、土産だといっていた箱がそのままだ。克己は思わず、あ…と声を漏らしそうになったが何とか飲み込んだ。
ちょっと楽しみにしていたのに…。
そんな克己の心を知ってかしらずか彼女は店主が差し出した箱から一つ掴みあげるとにっこりと笑ったように見えた。やっと胸をなでおろす。
「今。内心ホッとしたろう?好きだもんね?チョコレート」
「してねぇよっ」
相方の何か企んだような笑顔にへそを曲げてそっぽを向く。向いた先にはまた彼女が目に入ったが先ほどまでとは彼女を包む空気が変わっていたことに、やっぱりマスターは凄いなと改めて思った。
「はい、留守番お疲れ様」
カウンターへ戻ってきた店主にチョコレートの箱を渡されて条件反射で受け取った。
綺麗に並んだ黒曜石の様な菓子の列がたった一箇所だけ欠けていた。
その申し訳なさそうな一箇所で埋まる物があるなら…それで十分だろう…。