第3話:火種を持つ男
あいつは今日も遅れてくる。
苛立たしげに何度も俺は時計に視線を送った。手首の上で就職祝いにもらったデジタル時計と店内にかかっている古臭い柱時計の両方だ。
一人で入ったカフェは何だか落ち着かない。俺だけが場違いなところに足を踏み入れているようだ。
大体なんでこんなところを待ち合わせにしたんだ。
雨だって降ってないし。
卓上をこつこつと叩いていた手を止めると替わりに煙草の箱を手に取った。
―― ……あれ?
「どうぞ」
確かに持ってきたと思っていたのになかなか出てこない。ぽんぽんと自分の身体を叩き見当たらない物を探していた俺の視界の隅に、すっとマッチが写った。
顔をあげた先にはにっこりと穏やかな笑みを浮かべた店員がお盆を小脇に抱えたまま立っていた。
そして、俺がそれに気がついたのを確認してか軽く頭を下げて止めた足をカウンターへと進めた。
―― ……どうも。
俺はその後姿に軽く礼を告げてありがたく手に取った。
店名の入ったケースを開き一本抜き出す。
しゅっと擂り合わせた先にはぽっと小さな灯が灯り火薬の臭いがぷんっと鼻先につく。
ちりちり……
煙草の先を焦がし紫煙が上がり始めると独特の香りが漂い始める。
俺はゆっくりと息を吸い込んで手元に津かづいてくる火種を見つめながら同じくらいゆっくりと吐き出した。
高く上っていく紫煙は、天井で音もなく回っているシーリングファンにかき回されその姿を散らしていった。
ぼんやりとその様子を眺めながら俺は一息ついた。
少しはその様子に落ち着きを取り戻したようだ。
―― まぁ、怒るほどのことでもないか。
何か最近「程のこと」ではないことが年々増えているような気がするのは俺の気のせいだろうか。
俺は本気になることがあるのか?やや思案気に眉を寄せ煙草のフィルターをかみ締めた…が…。
―― ま、いいか。
結局いつもの結論に行き着いて嘆息する。
あいつ、今日は何て言い訳して来るつもりなんだろう…。
毎回遅刻してくるあいつの言い訳がほんの少し面白くて、ほんの少し楽しみになってしまっている。
とはいえ、例えどんな理由があるにしろ連絡もなく遅刻するのは、やっぱり俺にとっては許すまじ行為で恥ずべきことだ。
だから、あいつが今回も遅れてくるだろうと予測をしながらも、いつもどおりにその場所へと足を運ぶ。
まぁ、別に「待つ」というのも悪くない。
どんなに遅れても必ず来るしな。
灰皿の中身が本数を増やす中、何本目かの煙草に火をつけたとき慌しくウェルカムベルが鳴り響いた。
―― やっときたか。
反射的にそう思って視線を入り口に移したが外れだった。
女には違いなかったが俺の待ち人ではなかった。
すらりと背の高い女だ。別段、美人というわけでも際立ってスタイルが良いわけでもない。店員はその女に個室席を薦めているようだったが彼女は首を縦には振らなかった。
結局、腰ほどまでのパーティションで仕切られたオープンスペースの一角に腰を据えた。
顔を上げた俺から斜め前に拝める位置だ。
何でそいつが底へ座ったのか些か気になるところだ。
俺なら壁で仕切ってくれている個室へ腰掛けたかった。だから自然と…
―― ああ「待ち合わせ」ってことか
と判断した。
それにしても入り口に背を向けて座ったんじゃ意味ないだろう?別に話し相手でもないその駆け込み女に俺は何となく心の中で突っ込んだ。
「お注ぎしましょうか?」
ぼんやりとその客を眺めながら煙草をふかしていた俺に高い位置から声が降ってきた。
はたと我に返り声のした方へと顔をあげた。さっき女を案内していた飄々としていて掴み所のない案に何を考えているのか分かり辛い感じの店員だ。
俺が軽くうなずくと、にっこりと微笑んで用意してきた新しいカップをことりとテーブルに置いた。柔らかな湯気と香りを漂わせる琥珀色の液体が真っ白なカップを静かに満たした。その代わりに空になっていたカップを盆の上に乗せ灰皿も新しい物と入れ替えてくれた。
「どうかされましたか?」
視線を店員に向けたまま外さなかった俺に困ったように眉根を寄せて微笑むと柔らかい物腰手声をかけてきた。手際が良いな、とか、女みたいな手をしているな…とか、そんなことを考えていたはずなのに口から出たのは別の質問だった。
「何であの女あんなに慌ててたんだ?」
小声で呟いた俺に店員はちらと俺の斜め前に視線を泳がせた後、首を振る。
「私には何とも」
ま、当然の答えが返ってきた。
「何で個室は断ったんだろうな?」
「ああ、見てらしたんですね。どうも、独りになりたくなかったそうですよ?」
「ふー…ん」
―― …独り…ねぇー…
それ以上俺の言葉が続かないのを確認して店員は軽く腰を折りその場を去っていった。
……ってことは俺が此処に座っているからあの女はそこへ座った、ってことか。
―― 何かそれって恥ずかしくないか?
ふとそんな考えが頭を過ぎって、肘をついていたほうの手で口元を覆った。それと同時に女と目があった。
俺は瞬間湯沸かし器になったようにぼっと方が高潮したのが分かった。慌てて視線を落とす。彼女は、その後も暫くこちらに視線を置いたようだが流れ落ちるように逸らして自分の手元に戻したようだった。
―― 正直かなり驚いた。
あの女、別にそう大した美人でもないくせに丁寧に口紅を塗った口角を引き上げて愁いを帯びた微笑を見せたとたん俺は射抜かれたようだった。
まだ、どきどきと煩い胸に手を置いて慌てて火をともした煙草の煙を深く、深く吸い込んだ。
「お待たせっ」
そんな最中、俺の待ち人が俺の顔を覗き込むようにして声をかけてきた。
俺は上手く吐ききれていなかった煙が違う器官に詰まって、大袈裟な位咳き込んだ。
「何、ぼさっとしてたの?」
「あー…別に。お前が遅いからだ」
眉間にしわを寄せてそう口にした俺を気にするでもなく
「へへっ、ごめんね」
と彼女はにこにこっと仔犬の様に笑いながら俺のむかいがわに腰を下ろした。タイミングよく水とお絞りが差し出される。
「ありがとう、マスター。えっと、私ミックスジュースね」
「はい、畏まりました」
―― 店主だったのか。若そうだったから店員だと思った。
何となく二言三言言葉を交わした店主のその後姿を見送りながら俺は煙草を灰皿に押し付けた。
「禁煙するんじゃなかったの?」
「苛々すると欲しくなるんだ」
こんなに遅れてきたのに悪びれる風もない彼女にそっけなく答えた。
「あ、もしかして、怒っちゃってる?」
―― もしかしなくても、普通は怒るだろう。
「ごめんね。道路に飛び出した子猫を救出に!と思って足を踏み出したらグレーチングに嵌っちゃって足ひねって病院運ばれてたの」
―― おいおいおい。
ぽんぽんと軽快な口調でそこまで口にした一揆に口にした彼女に脱帽だ。
「今、疑ったでしょう!」
「あー…いや?」
それならそれで、電話の一本くらい入れたっていいはずだ。と、それをこいつに求めるのも今更という気がしないでもない。
そういう女だ。
見てみろ!といわんばかりに彼女はテーブルの外へと足を放り投げた。確かに、巻かれたばかりのような綺麗な包帯が足首を包んでいた。だが、やはりそれで納得しろというのが無理だろう。俺はどうしようもない怒りとも呆れともつかない感情をはき捨てるように溜息をこぼした。
「心配?」
溜息が安堵の息にでも取れたのだろうか?どこまでもポジティブ思考な女で頭が下がる。
「あ?はいはい。心配心配。足引っ込めとけ、邪魔になる」
俺の適当な相槌に満足なのか、うふふっと笑って座り直すとお手拭のタオルをくるくると巻きもとの位置へ戻した。
―― 結局は、こいつのペースだ。
それが俺にとって気に食わないような、それでもいいというような。
妙なもんだな。こんな女と俺は三年も付き合っている。俺がそんなことを考えているとも知らずに彼女は切々と如実にその時のことを物凄い大事件のように語っている。
その肩越しにちらと例の席へ視線を移したが女はこちらを気にもしていなかった。
―― 当たり前か。
そのはずなのにどこかであの笑顔が俺の中に残って消化不良を起こしている。
「ほら、また」
再び煙草を取り出した俺の手から、ひょいと伸びた手が抜き取っていく。「んだよっ!」と睨み付けるとにこりと微笑まれてしまった。
「あたしが来たのに、苛々しなく良いでしょ?のーすもーきんぐ、OK?」
人の気も知らないで呑気なものだ。
「どうぞ」
たぶん会話を聞かれていたんだろう、マスターと呼ばれた男は笑いをかみ殺しながら彼女の前にコースターを置き、そっと細長いグラスとストローを置いた。
「ねぇ、マスター。この人これだけ?」
二、三本吸殻の入った灰皿を指差しながら楽しそうに聞いた彼女に、マスターは「ええ、そうですよ」と同意して微笑んだ。
「ほんとにぃー?」
かなり疑わしげにマスターと俺の顔を交互に見たが「ま、いっか」と口にしたのを確認して、マスターは席を外した。
「どうした?」
「んー。遅れたお詫びにどっちかあげようと思ったんだけど、決めかねているわけだ」
そういった彼女は真剣にグラスに添えてあるバナナとチェリーを睨み付けていた。俺はわざとらしく長い溜息を付き大きく息を吸い込んだ後、声と共に吐き出した。
「いるか!そんなもん!」
「えーっ」
「……それなら両方くれ」
「やだ」
―― 阿保だなこいつ
また、つまらない会話を交わしてしまったとテーブルに肘をつく。
どっちもあげないわ!と怒りながら結局両方自分で食べてしまった彼女を眺めていると…ふと、視線を感じて顔を上げた。
―― ………っ
あの女とまた目があった。今にも泣き出しそうに潤んだ瞳を向けながら、口元はさびしげに微笑んでいた。
―― もう駄目だ。
直感的にそう感じた俺は彼女の抗議の声も無視して、立ち上がって腕を引いた。
「出るぞ」
「え?まだ飲んでないよ」
「お前が遅れるからだ。早く出よう」
全部飲めなかったよ、ごめんね。と彼女がマスターに詫びている声を聞きながら俺は会計を済ませて店を出た。
片足を引きずっていた。どうやら言い訳は本当だったようだ。俺は少し歩く速度を落とした。
「どうしたの?らしくない」
不安そうな声が隣から聞こえる。
「お前が遅れるのは”らしい”な」
「意地悪」
―― 意地悪で結構だ。
何か、嫌な予感を起こさせる女だった。
すがるような瞳に、何か囁きた気な口元。あのタイミングで彼女が店に入ってきてくれたことに僅かながら感謝すらしていた。
そうでなければ、俺はきっと
―― 火遊びが始まっていた。
「賢明ですよ」
彼女の謝罪にマスターがそう答えたのがやけに耳に残った。