episode7
最近、どういうわけか――
私の学園生活は、とても過ごしやすかった。
(……なんだか、運がいい?)
そう表現するのが一番近い。
授業の進行は滞りなく、必要な資料はいつも揃っている。
食堂では、なぜか私の好みの料理が続く日が増えたし、苦手な食材が出てくることも少なくなった。
ちょっとしたトラブルが起きそうになる前に、誰かが先回りして対処してくれているような、そんな感覚。
けれど、それは決して派手な出来事ではなくて。
誰かが「やってくれた」と明確にわかるものでもなかった。
だから最初は、気のせいだと思っていた。
「最近さ、なんか学園生活快適じゃない?」
昼休み、食堂で向かいに座るクロエが、スープを飲みながらそんなことを言った。
「それ、私も思ってたわ」
私はフォークを止めて、少し考え込む。
「授業もスムーズだし、無駄な待ち時間も減ったし……なんというか、余計な引っかかりがないのよね」
「だよね!前はもっとバタバタしてた気がするのに」
クロエは嬉しそうに頷き、隣のリアンを見る。
「リアンもそう思わない?」
「……確かに」
リアンは少し考えるように視線を上げてから、苦笑した。
「不思議だな。学園の運営が急に改善された、なんて話は聞いていないんだけど」
「中立派が知らないところで改革派が何かしたとか?」
「いや、それなら噂になるはずだ」
三人で顔を見合わせて、揃って小さく笑った。
「まぁ、過ごしやすいならいいじゃない」
クロエのその一言で、その場はそれ以上深掘りしなかった。
――その時は、まだ。
それから数日。
私はふとした瞬間に、ある光景を目にした。
食堂の裏手。
搬入口の近くで、数人の使用人たちと話をしている一人の生徒。
さらりとしたグレーの髪。
見慣れた後ろ姿。
(……リュシアン?)
彼は控えめな態度で、しかし要点を外さないような話し方で、食堂の責任者らしき人物に何かを伝えていた。
相手は最初こそ訝しげだったが、やがて納得したように何度も頷いている。
用件を終えたのか、軽く頭を下げてその場を離れていくリュシアン。
彼は人目につかない回廊へと姿を消していった。
(今の……ただの立ち話、よね?)
そう思おうとしたのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
それから、意識して周囲を見るようになった。
すると――気づいてしまう。
誰かが何かを“整えている”。
授業準備を手伝っていた下級生が、「頼まれたから」と言う。
物品管理をしている職員が、「少し前に相談されて」と口にする。
その“誰か”の名前は出てこないけれど、共通点は一つだった。
直接は表に出ないこと。
決定的だったのは、食堂で出会った職員の一言だ。
「そういえば、最近よく手伝ってくれる生徒がいましてね」
食材を運びながら、何気なくそう話す彼は続けた。
「夜遅くに、掃除もしてくれるし。頼んでもいないのに、壊れた器具の報告までしてくれるんです。だから彼がメニューをこうしたらどうかって言ってたのを採用したんですよね」
「……どんな方ですか?」
自然を装って尋ねた私に、用務員は首を傾げた。
「ええと、騎士科の生徒だったかな。灰色の髪に青い瞳が印象的で、物静かな――ああ、そういえば名前はなんだっけ……」
そこまで聞けば、もう十分だった。
(やっぱり……)
その夜、私は訓練場へ向かった。
夜の訓練場は、すっかり私にとって馴染みの場所になっていた。
数日に一度、こうして訪れては、ベンチに腰を下ろし、彼が剣を振るう姿を静かに眺める。
言葉を交わすことは少ない。ただ、同じ空間にいるだけ。
最初は恐縮していた様子のリュシアンも、何回か繰り返せば慣れたようで、
いつの間にか私たちにとっては当たり前になっていた。
(……さて)
今日は、聞かなければならない。
剣を振るう彼の横顔を見つめながら、私はそっと息を整えた。
(最近、私の周りで起きていること――)
その答えが、目の前にいる気がしてならなかったから。
******
リュシアンが剣を収め、最後に軽く息を整えたそのタイミングを見計らって、
私はベンチから立ち上がった。
月明かりに照らされた彼の背中は、昼間に見るよりもずっと静かで、どこか孤独を帯びている。
「ねぇ、リュシアン」
その声に、彼の肩がわずかに跳ねた。
振り返った彼は、いつものように穏やかな微笑を浮かべる。
「はい、セレーヌ様。どうなさいましたか」
「最近ですね」
私は夜風に揺れる髪を押さえながら、何気ない調子で続ける。
「なんだか運がいいというか……学園生活がとても快適なんです」
「……それは、良かったですね」
無難な返答。
けれど、ほんの一瞬だけ遅れた反応が、彼が内心ひどく動揺していることを物語っていた。
そして彼の視線が、一瞬だけ彷徨ったのを私は見逃さなかった。
「食堂では好きな料理が増えているし、授業の準備も不思議と滞らないし、困ったことが起きる前に、自然と解決してしまうことが多くて」
私は指を折りながら、ひとつひとつ思い当たる出来事を挙げていく。
リュシアンは何も言わず、ただ静かに聞いていた。
「それで、思ったんです」
私はふっと笑って、でも大真面目な顔で彼を見る。
「もしかしたら、私には幸運の妖精さんがついているんじゃないかって」
「……え?」
リュシアンの表情が、完全に固まった。
目を丸くし、言葉を失ったその様子があまりにも可笑しくて、思わず私は吹き出してしまった。
「ふふ、ごめんなさい。少しからかいすぎました」
慌てたように首を振る彼に、私は一歩近づいて、柔らかく続ける。
「でもですね、その妖精さんに、どうしてもお礼を言いたくて」
「……お礼、ですか?」
「ええ」
そして、私は微笑んだ。
「リュシアン。妖精さんを探すの、手伝ってくれませんか?」
彼は明らかに言葉を失っていた。
どう答えるべきか必死に考えているのが、視線や唇の動きから伝わってくる。
その姿があまりにも愛おしくて、私はくすりと笑ってしまう。
「……冗談です」
そう言ってから、彼のすぐ前に立ち、声を少しだけ落とした。
「あなたがやっているのでしょう?」
月明かりの中、彼のサファイア色の瞳をまっすぐに見つめる。
「私の“サファイアの妖精さん”」
その瞬間、彼の微笑が完全に崩れた。
「……よく、分かりましたね」
「気になって色んな人に話を聞いてみたの。そしたらみんな誰だか明確には覚えてないけれど、あなたの特徴と似た生徒をあげていたから」
そう返した私をみながら、小さく、申し訳なさそうに呟く声。
「ご迷惑でしたでしょうか」
その言葉に、私は首を横に振った。
「迷惑ではありません。でも……」
少し困ったように、私は笑う。
「どうして、そんなことをしてくれるのかなって気になって」
「それに、些細なところまで気を配っているようでしたから、あなたがきちんと休めているのか心配になってしまって」
「……心配、ですか」
彼はその言葉を、まるで初めて聞く単語のように、ゆっくりと繰り返した。
「どうして、こんなことをしてくれていたのですか?」
優しく問いかけると、彼は少しだけ視線を伏せて答えた。
「使える人間だと、思っていただけるように行動しただけです」
あまりにも平然とした声音。
「使える人間に?」
「はい」
「でも…」
それならどうしてわざわざ自分だとわからないように行動していたのだろう。
「どうして私に隠れるように行動していたの?」
「……隠れていた、わけでは……」
小さな声。
否定だけど、どこか自信がない。
「じゃあ、どうして?」
私が重ねて聞くと、彼はしばらく黙り込んだ。
考えているというより、どう答えればいいのかわからないという沈黙。
やがて、ぽつりと口を開いた。
「……見えるところにいると、邪魔になることがあるので」
「邪魔?」
思わず聞き返すと、リュシアンは少し慌てたように首を振った。
「いえ、その……セレーヌ様が、ではなくて……」
言葉を探すみたいに、指先がきゅっと握られる。
「……僕、使える人間だって思ってもらえた方が、いいと思っていました」
その言い方が、あまりにも幼くて。
同時に、胸がひりりとした。
「それで?」
私は続きを促す。
「使える人間って、どういうことだと思ったの?」
リュシアンは少し考えてから、まるで当たり前のことを言うみたいに答えた。
「……目立たずに、必要なことを全部整えておくこと、です」
「整える?」
「はい」
頷く。
「書類とか、備品とか、人の動線とか……困りそうなところを先に直しておくとか」
だんだんと、言葉が増えていく。
「見えないところでやっておけば、邪魔にならないですし……怒られることも、少ないので」
そこで、ふっと言葉が止まった。
言ってしまった、という顔。
「……それ、誰に教わったの?」
私がそう尋ねると、リュシアンは一瞬だけ目を伏せて、答えた。
「教わった、というより……そうしている方が、過ごしやすかっただけです」
過ごしやすい。
その一言が、彼の過去を全部語っている気がした。
「だから……セレーヌ様にも、同じようにしていました」
小さく、でもまっすぐに。
「役に立てていれば、僕をそばに置いてくれるかと思って……」
私は少し黙ってから、静かに言った。
「でも、私は」
彼の顔を見る。
「あなたの姿が見えないと、寂しかったわ」
その瞬間、リュシアンの目が大きく見開かれた。
「……え?」
完全に想定外、という顔。
「役に立ってるかどうかじゃなくて」
私は続ける。
「私にとって重要なのはそこにいるかどうか、よ」
リュシアンはしばらく何も言えなかった。
唇が少し開いたまま、言葉を探している。
「……そういう、考え方は」
やっと出てきた声は、かすれていた。
「……したことが、ありませんでした」
世界の見え方が少しだけ揺らいだ瞬間のように。
(リュシアンは、まだ”どう接すればいいか”を知らないのね)
私は「それに…」とはっきりと言った。
「リュシアン。あなたは私の使用人ではありません。婚約者です。
使う、使われるという関係ではないと、私は思うわ」
彼は、まるで言葉の意味が理解できないかのように、黙って私を見つめていた。
だから私は、もう一度微笑む。
「でも……私のために頑張ってくれたことは、事実です」
「ありがとうございました。とても快適でしたわ」
その瞬間。
リュシアンの表情が、はっきりと変わった。
驚きと戸惑いと抑えきれない嬉しさ――そして、微かな感情の揺らぎ。
私は思わず、彼の頬にそっと触れる。
「初めて、本当のあなたの感情を見せてくれたような気がします」
月明かりの下、彼の瞳が揺れる。
「……セレーヌ様は、不思議な方ですね」
少し泣きそうな、でも確かに“生きた声”で、彼はそう言った。
その夜。
私たちの距離は、確かにまた一歩、近づいた気がした。
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