episode6
リュシアンの夜の鍛錬を目にしてから、数日が過ぎていて。
――気づけば、私は何度も夜の訓練場へ足を運んでいた。
否、正確にいうなら、柱の影に身を寄せながら、完全に覗き見をしていた。
(だって、仕方がないじゃない?)
胸の内で、即座に言い訳を始める。
(あんな無表情で)
(あんなに美しい剣技を)
(淡々と、何の感情も浮かべずに振るう人がいたら)
(……見に行くしかないでしょう!?)
月明かりを受けて、剣が弧を描く。
一切の無駄がなく、迷いもない。
踏み込み。
回避。
返す刃。
すべてが静かで、正確で、研ぎ澄まされている。
(なにあれ)
(芸術?)
(戦場で舞う彫刻?)
(無表情なのがまた反則なのだけれど!?)
感情を削ぎ落としたような顔。
視線は剣先だけを見据え、呼吸すら乱れない。
(夜限定の危険生物では??)
剣を振るうたび、衣擦れの音がわずかに響く。
汗が月光を反射して、首筋を伝う。
(……待って)
(首筋)
(綺麗すぎない?)
私は一瞬、己の思考を制止しようとした。
(落ち着きなさい、セレーヌ)
(私は公女であり、婚約者で――)
(……いや無理ね)
(だって)
(あんな無表情で、誰にも見せない顔で)
(ひとり黙々と剣を振るうの、ずるすぎるでしょう)
訓練の合間、ほんの一瞬だけ、彼は呼吸を整えるために立ち止まる。
剣先を下げ、目を伏せる。
(……その横顔)
(静かで、孤独で、強くて)
(最高に好み)
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(見守ってるだけよ)
(邪魔してないし)
(安全確認という名目もあるし)
(これは覗き見じゃない)
(観察よ、観察)
そう自分に言い聞かせながら、
私はまた一歩も動けずに、彼を見つめ続けていた。
(……本当に)
(こんな人、放っておけるわけないじゃない)
月明かりの下で剣を振るうその姿を、
誰にも見せないままにしておくなんて――
(それこそ、罪よ)
柱の影で、外面は完璧に冷静なまま。
内心では、私は盛大に拍手喝采を送り続けていた。
昼間の学園で、彼を見かけることはほとんどなかった。
同じ学園に通っているはずなのに、まるで存在の位相がずれているかのように、すれ違うことすらない。
(この時間のここにしかリュシアンは現れないのよね…)
(私が呼べばおそらく来るのだろうけど…)
きっとそうしてやってきた彼は、夜の無表情ではない別の姿で私の前に現れるだろう。
(それはそれで、いいかもしれないけれど)
私はもう少し、私に見せないリュシアンを知ってみたかった。
そんなことを続けていると、クロエやリアンに「最近眠そうだね」と心配されるたび、私は笑って誤魔化した。
大丈夫よ、と。少し夜更かししているだけ、と。
そうして今夜も、私は同じように訓練場へ向かった。
いつもなら、遠くからでも聞こえてくる音がある。
剣を振りかぶる風切り音。
木製の標的を打つ、乾いた衝撃音。
けれど――その夜は、違った。
(音が、しない)
(おかしいわね…)
胸の奥に、微かな違和感が走る。
私は自然と足を早めていた。
月明かりに照らされた訓練場の片隅。
いつもの場所に、確かに彼はいた。
……けれど。
「……っ」
思わず、息を呑む。
訓練服は、あちこちが擦り切れ、色がくすんでいる。
袖口や膝には、はっきりとした使用感があった。
そして、腕。
包帯が巻かれている。
それも一度ではない。何度も巻き直された痕跡がある。
リュシアンは、その包帯を、黙々と巻き直していた。
その表情は――
痛みを堪えるものでも、苛立ちを滲ませるものでもない。
感情が、ない。
まるで、すべてが抜け落ちたような、人形のような無表情だった。
慣れた手つきで包帯を整え終えると、彼は何事もなかったかのように剣を手に取る。
そして、また素振りを始めた。
(あんな状態で。きっと痛いはずなのに)
それでも、その顔には、何の変化もない。
――痛みを感じていないのではない。
感じることを、やめているように見えた。
そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……さすがに、見ていられないわね」
私は小さく息を吐いた。
これ以上、影から見ているだけではだめだ。
自分にかけていた認識齟齬の魔法を、そっと解く。
足音を殺すこともせず、私は彼へと歩み寄った。
その気配に気づいたのだろう。
リュシアンは、剣を振るう手を止め、こちらを向いた。
無表情だった顔が、ほんのわずかに崩れる。
サファイアの瞳が、見開かれた。
「……?」
その瞳に、確かに“驚き”が浮かんだのを見て、私は静かに口を開いた。
「こんばんは、リュシアン」
夜の訓練場に、私の声が落ちた。
月明かりの下で、
彼と、初めて――真正面から向き合った。
「……セ、セレーヌ様!?」
数秒遅れて、彼は我に返ったように目を見開き、慌てて駆け寄ってくる。
「なぜ、このような時間に……」
「散歩をしていたら、あなたが見えたの」
「散歩、ですか」
「ええ」
少し苦しい言い訳だと自覚しつつも、彼はそれ以上問い詰めることはしなかった。
「邪魔をしてしまったかしら」
「いえ。セレーヌ様が邪魔になることなど、決して」
私は視線を逸らし、訓練場の片隅にあるベンチを指さす。
「少し、お話ししてもいいかしら?」
「構いません」
そう答えた彼は、先にベンチへと歩み寄ると、ふと立ち止まり――
自分が羽織っていた上着を脱ぎ、丁寧に畳んでから、座面に敷いた。
「どうぞ」
(……あら)
こんな状況でも、
こんな時間でも、
自然にそんな振る舞いが出てくるのね。
(……いいわね、素敵)
思わず心の中で頬が緩むのを必死に抑えながら、私はその上に腰を下ろした。
並んで座ると、夜の静けさと、彼の体温がほんのり伝わってくる。
「……あなたの剣を振るう姿を、少し見させていただきました」
「え?」
「とても美しい太刀筋でしたわ」
一瞬、彼の表情が揺れた。
褒められることに慣れていない子供のように。
「あ、ありがとうございます……」
「騎士になりたいのですか?」
丁寧に問いかけると、彼は背筋を正し、はっきりと答えた。
「はい。魔法騎士団を目指しております」
迷いのない声音。
それは“夢”というより、“生きがい”の宣言のようだった。
「……そう」
私は小さく頷いてから、微笑む。
「それは、とても素敵な目標ですね」
「……素敵、でしょうか」
彼は少しだけ視線を落とした。
「笑われると思っていました」
「なぜです?」
「……私のようなものがそのような目標をなんて、身の程を知らないと」
胸の奥が、きしりと音を立てた。
「そんなこと、ありません」
思わず、少しだけ語気が強くなる。
「あなたなら、きっと叶えられます」
彼は驚いたように私を見つめ、何も言わずに、ただ黙っていた。
その沈黙の中で、私は再び、彼の腕に目を向ける。
包帯は巻き直されているが、回復魔法がかけられた痕跡はない。
「……それ、回復魔法を使っていませんね」
「……実は、不得意でして」
(子供の頃に習う回復魔法が苦手…)
(ちゃんと教えてもらうことができなかったのかしら)
そう考えていると、
苦笑を浮かべながら、彼は続けた。
「それに、これくらいであれば問題ありませんから」
あまりにも平然とした言葉。
「それは、問題ですわ」
「……え?」
「騎士にとって大切なのは、剣の腕前だけではありません」
「……」
「自分の体調や怪我を管理できなければ、いざというとき、最大の力は発揮できませんもの」
彼は静かに、自分の腕を見つめた。
「……なるほど」
素直な返答。
私はふっと微笑み、少しだけ声の調子を変える。
「幸いなことに――」
彼の方を見る。
「あなたの婚約者は、回復魔法のエキスパートですから」
「……え?」
「私が、コツを伝授して差し上げましょう」
少しだけお茶目にそう言うと、彼は目を丸くして固まった。
「そ、そんな……」
「遠慮は無用です」
……それでも、彼は戸惑ったまま、しばらく沈黙したあと、静かに口を開く。
「……では、私は何をすればよろしいでしょうか」
その問いは、あまりにも自然に、当然のように出てきた。
私は思わず瞬きをする。
「何を、とは?」
「教えていただく以上、対価が必要でしょう」
善意には必ず見返りがある。
それが、彼の世界の常識なのだと―― はっきり伝わってくる。
私は小さく息を吐き、首を横に振った。
「そんなもの、いらないわ」
彼の目が、わずかに揺れる。
「だって――」
私は静かに続ける。
「あなたは、私の婚約者なのですから」
その言葉に、リュシアンは完全に言葉を失った。
夜風が、二人の間を静かにすり抜けていく。
「……そう、ですか」
ようやく絞り出した声は、納得と困惑が入り混じった、不思議な響きだった。
「では……よろしければ教えてくださいますか」
「もちろんです」
差し出された腕に、私はそっと手を添える。
*******
「大丈夫。ゆっくりでいいですわ」
魔力の流れを示しながら、回復魔法の基礎を一つずつ、丁寧に伝えていく。
彼は驚くほど素直に、それを受け入れた。
(この人、魔法に関しても飲み込みが早いのね…)
そして、1時間もかからずに回復魔法のコツを習得したようだった。
「これでいいですね!上手でしたよ、リュシアン」
「セレーヌ様のおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして。それにしても、リュシアンは剣も魔法も素晴らしいですね。飲み込みが早いですから、きっと素敵な騎士様になるわ」
「そ、そうでしょうか」
「えぇ、これまでたくさんの騎士たちを見てきた私が言うのですから間違いないですわ!」
(……そういえば、お父様がなぜリュシアンを私の婚約者にしたのか、その背景をちゃんと聞くまもなく学園にきてしまったのよね)
まだ彼の実力を多く見たわけではないけれど、確かにお父様の好きそうな才能の原石であることは間違いない。
それにしても、なぜ数多くのご令息からの婚約の申し入れがありながら、リュシアンだったのか。
(今度の休みに実家に帰って聞いてみましょうか)
私はリュシアンの治った腕を満足げに見つめながら、そんなことを考える。
そんな私には気が付かなかったのだ。
思考している私を見つめていた彼が、私の前で見せていた微笑を剥がして無表情に、ほとんど聞き取れないほど小さな声で呟いた言葉を。
「……あなたに、使っていただける人間にならなければ」
その言葉の意味を、このときの私は、まだ正しく理解していなかった。
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