episode2
――その青は、美しく微笑んでいた。
目の前の青年は、困ったように眉を下げながらも、終始穏やかな笑みを浮かべている。
そのサファイアの瞳に見つめ返されて、私ははっと我に返った。
(……まずい。完全に意識が飛んでた)
何も言わずにいる私を前に、彼はただ立ち尽くしている。
声をかけるべきか、待つべきか。そんな迷いが、その微笑の奥に滲んでいた。
私は小さく息を整え、令嬢らしい微笑みを作る。
「お待たせしてしまったかしら。
初めまして。リザンドル公爵家のセレーヌと申しますわ」
そう告げると、彼はほっとしたように肩の力を抜いた。
「こちらこそ……。
ヴィオランドル侯爵家のリュシアンと申します。
どうぞ、リュシアンと呼び捨てていただければ」
……声も、所作も、言葉選びも。
(完璧……)
背筋はすっと伸び、無駄な力の入らない重心。
歩き方も、視線の落とし方も、呼吸の間さえ洗練されている。
(……これは)
私は、内心で一度深く息を吸った。
(落ち着きなさい、セレーヌ)
これまで、美しい人間は数え切れないほど見てきた。
我が家の父も、年を重ねた今なお堂々としているし、兄たちはそれぞれ違った魅力を持つ、整った容姿をしている。
友人であるリアンも、王族らしく端正で、誰が見ても「美しい」と言われる顔立ちだ。
王太子殿下だって
――確かに、美しい。
均整の取れた顔立ちに、余裕のある笑みと人懐っこい微笑みの見事な使い分け。人を惹きつけるカリスマもある。
(でも)
(正直、そこまでタイプじゃないのよね)
完成されすぎているというか。親愛と尊敬はあるけれど、心が跳ねる感じは、ない。
……そのはずなのに。
目の前の彼を見た瞬間、胸の奥が、きゅっと音を立てた。
(……こんなに、私の心を射抜いた人、いたかしら)
一瞬、記憶を辿る。
(いえ)
(……いないわね)
伏せがちな睫毛。
感情を隠すような、少しだけ影のある眼差し。
けれど、その奥に滲む、誠実さと脆さ。
無駄に主張しない輪郭。
鋭すぎないのに、はっきりとした目鼻立ち。
(派手じゃないのに、目が離せないのは反則では?)
それに何より。
微笑んだ時に、ほんのわずかに緊張が滲む口元。
(……ああ、だめ)
(このタイプ、はまずいわ)
(静かで、控えめで、どこか便りなさげな感じ)
(守りたくなるやつ)
心の中で、私は盛大に頭を抱えた。
(なにこれ)
(好みすぎるんだけど)
(聞いてない)
(お父様ったらこんな逸材をどこで拾ってきたの…)
(というかなぜ今まで見つかっていなかったのかしら、いや見つかってたら困るわね)
これまで、「美しい」と思った人はたくさんいた。
でも、
「好み」
「刺さる」
「心が勝手に傾く」
――それは、まったく別だ。
(……これは)
(厄介ね)
そう結論づけながらも、
視線は一瞬たりとも、彼から離れなかった。
(でも)
(まあ、仕方ないわよね)
(こんな顔で、こんな佇まいで、こんな空気纏ってるんだもの)
外では完璧な微笑みを浮かべたまま、内心で私は、静かに白旗を上げていた。
心の中で叫びそうになるのを必死で抑えつつ、私はにこりと返す。
「でしたら……私のことも、セレーヌと呼んでくださいな。
私たち、婚約したんですもの」
その瞬間。彼の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
(なんてこと…!そんな表情だめよ!!)
(守りたくなるやつじゃない!!)
「……いえ。
私のようなものが、公女様をそのように呼ぶなど……不敬に当たります」
その言葉で、胸の奥がひやりと冷えた。
(……ああ、そうなのね)
穏やかな微笑を崩さないまま、当然のように自分を下に置く言葉。
そこに、ためらいも、疑問もない。
「それは、“周りやあなたが、あなたをどう思っているか”の話でしょう?」
思わず、そう口にしていた。
「……?」
「私は、あなたの婚約者になるの。
将来、家族になる人に……名前で呼ばれるのが嫌だなんて、そんなこと全く思いませんわ」
彼は言葉を失ったように、瞬きを繰り返す。
私は一歩、彼に近づいた。
「ね?お願いです…リュシアン」
しばらくの沈黙の後、彼は小さく息を吐いた。
「……わかりました。……セレーヌ、様」
最後に付いた敬称に、私は思わず笑ってしまう。
「ふふ。今日はそこまでで許してあげます」
本当に困ったように眉を下げる彼を見て、私はそれ以上は押さなかった。
無理に壊していいものじゃない。
これは、少しずつほどいていくものだ。
(それにしても困った様子も本当にいちいち私の心に刺さるわね…)
(危険だわ)
その後、私たちは学園内に用意された私の部屋へと向かった。
扉を開けて中へ入ると――私はすぐに違和感に気づく。
リュシアンが、入ってこない。
「……どうしました?」
「……よろしいのでしょうか。私が、ここに入っても」
「どうして?」
私が首を傾げると、彼は少し視線を伏せた。
「……こういった場所は、私のような者が立ち入ってはいけないと……」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
(“いけない”……?)
「それは……誰が決めたの?」
「……侯爵夫人が」
淡々とした口調。
まるで、それが世界の常識であるかのように。
「兄上の部屋でも、家でも、学園でも……高位の方が使う場所には入るな、と」
私は何も言えなくなった。
代わりに、そっと彼の手を取る。
びくり、と小さく震えが伝わってきた。
「ここは、私の部屋です」
静かに、けれどはっきり言う。
「私が主人で、あなたに“入ってほしい”と思ったから招いたの」
彼のサファイアの瞳が、揺れる。
「……よろしいのでしょうか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「だって、あなたは私の婚約者ですもの」
長い沈黙のあと、彼は小さく頷いた。
「……わかりました」
部屋に入った彼の全身から、わずかに力が抜けるのが分かった。
(……少しずつ、でいい)
私は彼の手を引いて、テーブルへ向かう。
「さあ、お茶にしましょう。お話ししたいこと、たくさんありますから」
彼は穏やかに微笑んだ。
――その微笑が、少しだけ硬いことに気づきながら。




