表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/21

episode10.5_2

学園は、正直に言ってしまえば、侯爵邸よりは楽だった。


侯爵夫人が用意したのは最下級貴族の生徒用の部屋で、

支給されたのも制服と訓練着、それから勉学に必要な最低限のものだけ。

それでも――

あの憎しみのこもった視線と、理由のない暴力から解放されたのは、

僕にとって初めてのことだった。


それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。


もっとも、その頃にはもう、

僕の表情筋はとっくに死んでいた。


笑っても、怒っても、泣いても、

どうせ意味はないと知っていたから。


何をするにも、無表情が当たり前。

必要なときだけ、貼り付けたような笑顔を作る。


学園では、上級魔法まで扱えるようになった認識齟齬の魔法を

ほぼ常時展開していた。

人に気づかれないように、

視線から外れるように、

存在を薄くするために。


それでも、剣は持ち込めなかったし、

訓練用の道具も、魔道具も、足りないものばかりだった。


だから僕は考えた。


――何かを得るには、何かを差し出すしかない。


そう思って、

王家のパーティーで観察して身につけた仕草や所作、

言葉遣いと処世術を使った。


無表情のまま、

必要なときだけ柔らかく笑って。


「使える存在」だと示せば、

対価として必要なものが手に入る。


それを、僕は学園で改めて学んだ。


しばらくの間、

兄の周囲で雑務をこなすこともあった。


けれど、兄が生徒会に所属すると、

「もう必要ない」と言われ、それも終わった。


兄の前に立つと、

今でも、あのよくわからない恐怖に支配される。


視線を向けられるだけで、

体が固まり、息が浅くなる。


だから、なるべく会わないように。

存在を消すように。

気を配って過ごした。


認識齟齬の魔法を使っていても、

試験や単位取得の場面では、

どうしても魔法を解かなければならない時がある。


そういう時を狙って、

貴族派の生徒たちに絡まれた。


「妾の子が、バスティアン様と同じ姓を名乗るなんて烏滸がましい」


そんな言葉と一緒に、

殴られ、蹴られ、突き飛ばされた。


体にできた傷も、

僕は「対価」を支払って手当てするものを手に入れ、

黙って処理した。


痛みも、悔しさも、

感情として外に出すことはしなかった。


微笑を浮かべて、

使える存在だと示せば、

何かは得られる。


――それが、僕の生き方だった。




そうして、一学年が終わった頃のことだった。


父から、侯爵邸に戻るようにと直々に連絡が来た。

理由は告げられていなかったけれど、

行かないという選択肢は、僕にはなかった。


久しぶりに戻った侯爵邸で、

僕は淡々と告げられた。


――婚約が決まった。


一緒に話を聞いていた侯爵夫人は、

その瞬間、この世の終わりのような顔をした。


「なぜ、このようなものが……!

 よりにもよって、公女様の婚約者ですって……!」


半狂乱になりながら、

信じられないものを見るように僕を睨みつける。


公女様。

王国にある四大公爵家のご令嬢。


その中でも、ひときわ存在感を放つ方――

セレーヌ公女。


社交界にはあまり姿を見せないが、

参加する時は決まって王太子殿下のパートナーを務める。

まるで物語の中の姫君のような人。


……その方が、僕の婚約者?


どういうことだろう、と頭が追いつかなかった。


経緯を聞くと、

どうやら彼女の父上――

王国でも最高峰の騎士が所属する魔法騎士団の団長、

その決定によるものらしい。


授業で何度かお見かけしたことがある方だ。

閣下のご子息、ロラン小公爵には、

授業の過程で助言をもらったこともあった。


僕のような者にも、

丁寧に、当たり前のように接してくれた人。


……憧れだった。


父は珍しく動揺した様子を見せていたが、

やがて僕を見て、こう言った。


「いいか。

 セレーヌ公女に、しっかり仕えろ」


それだけだった。


侯爵夫人は、

「お前なんて、どうせすぐに公女様から婚約破棄されるわ」

と吐き捨て、

手にしていた扇子で僕の頬を打ちつけて去っていった。


痛みよりも、

言葉の方が、胸に残った。


――公女様の婚約者。


その言葉を、

僕は何度も心の中で繰り返した。


あの、

お姫様みたいに美しい人が、僕の……?


今まで感じたことのない感情が、

胸の奥からじわじわと湧き上がってきて、

どう処理すればいいのかわからなかった。


公女様は僕より一学年下で、

今年、学園に入学される。


婚約が決まったのが入学間近だったため、

正式な顔合わせの時間は取れず、

僕たちは学園の入学式の日に会うことになった。


待ち合わせ場所の温室には、

約束の時間より三時間も早く着いてしまった。


心臓が、うるさいくらいに音を立てていた。


落ち着け、と自分に言い聞かせながら、

パーティーで観察して身につけた

すべての所作、仕草、表情を頭の中で反復する。


失敗は許されない。

気に入られなければならない。


――使える人間だと、示さなければ。


小さな足音が近づいてきて、

振り向いた瞬間。


そこにいたのは、

初めて見た時よりも、さらに美しい人だった。


さらりと流れる金髪。

アメジストのように輝く瞳が、まっすぐ僕を映している。


柔らかな声で、

僕の名前を呼んでくれた。


その瞬間、

胸の奥で何かが弾けた。


嬉しさで、

心臓が爆発しそうだった。


――ああ。

僕には、まだこんな感情が残っていたんだ。


初対面の結果は、どうやら悪くなかったらしい。


セレーヌ様は、

僕を気に入ってくださったようだった。


……ならば。


もっと、

もっと気に入ってもらえるように。


役に立つ存在として、

そばに置いてもらえるように。


僕は、そう決意した。



セレーヌ様は、

ロラン小公爵によく似た、気さくで柔らかな笑顔をしていた。


その笑顔を向けられるたびに、

胸の奥がじんわりと温かくなる。


――けれど同時に、

侯爵夫人の言葉が、時折頭をよぎった。


「どうせ、すぐに婚約破棄される」


その言葉は、

今まで感じたことのない種類の恐怖を、僕に与えた。


そうだよな、と冷静に同意する自分がいる一方で、

捨てられたくない、と

心の奥で叫び、泣きわめく自分がいる。


そんな矛盾を抱えたまま、

僕は過ごしていた。


――そして、夜の鍛錬を見られてしまった。


よりにもよって、

同学年の生徒たちに怪我を負わされた後のことで、

その時の僕は、ひどく傷だらけだった。


まずい、と思った。


こんな姿を見られたら、

きっと嫌われる。

失望される。


そう思っていた僕とは裏腹に、

セレーヌ様は僕を叱りもせず、

回復魔法を教えてくださった。


回復魔法は、幼少期に誰もが習う基礎魔法だ。

もちろん、

セレーヌ様の扱う回復魔法は上級魔法で、

簡単に真似できるものではない。


それでも、

基礎から丁寧に教えてくれるその姿は、

ロラン小公爵とよく似ていた。


――ああ。

この人のために、何かをしたい。


そう思った。


いや、

そう思わずにはいられなかった。


だから僕は、

もっと利用価値があると思ってもらわなければ、と考えた。


僕のような者が、

セレーヌ様の婚約者だなんて烏滸がましい。

その事実は、どれだけ目を逸らしても消えない。


だから、

なるべく彼女の前には出ないようにして、

兄の雑務をこなしていた時と同じように、

隠れて、いろいろと手を尽くした。


……でも。


兄の時と、決定的に違ったのは、

それが――楽しかったことだ。


セレーヌ様は、

こんなものが好きだろうか。

こうしたら、喜んでくれるだろうか。


そう考えている時間が、

楽しくて仕方がなかった。


楽しい、と思ったのは、

剣を初めて手にした時以来だった。


やがて、

僕がしていたことはセレーヌ様に知られてしまった。


叱られると思った。

やめろと言われると思った。


けれど彼女は、

「幸せを運んでくれる妖精さんみたいね」

と笑った。


嬉しかった。


騎士じゃなくて、

妖精になればいいのか、

と本気で思ったくらいだった。


「もうしなくていいわ」


そう言われた時は、

正直、とても落ち込んだ。


けれど、そんな僕の様子を察してくださったのか、

条件付きで続けることを許してくれた。


――セレーヌ様がお一人の時は、姿を見せること。


それが、

僕にとってどれほど嬉しいことだったか。


遠くから見つめるだけでも、胸がいっぱいになるのに、

一緒にいてもいいと言われた。


そんなこと、

今までの人生で一度もなかった。

いつだって僕は姿を見せるなと言われ続けてきた人生だったから。


嬉しくて、

寮の部屋に帰っても眠れなかった。


……けれど。


その幸せは、

セレーヌ様が何気なく口にした、


「実家へ帰る」


という一言で、

音を立てて崩れ去ることになる。


なぜ実家に帰るのか――

その理由を、僕は聞くことができなかった。


そもそも、その言葉を聞いたのも偶然だった。

たまたま耳に入っただけ。

だから、聞き返すことも、確かめることもできなかった。


きっと帰るなら、次の学園の休みのときだろう。

そう思った瞬間から、休みの日が来るまで、胸の奥がずっとざわついていた。


そして迎えた休みの日。


侯爵夫人の言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。


――どうせ、すぐに婚約破棄されるわ。


その声が響くたびに、胃の奥がきりきりと痛み、

吐き気が込み上げてきた。


悪いことばかり考えると、

僕は昔から、吐き気や過呼吸に襲われることがあった。


学園に入って、少しは落ち着いたと思っていた。

セレーヌ様と出会ってからは、一度も起きていなかったのに。


休みが明けても、

「婚約を破棄しましょう」と言われるのが怖くて、

僕はセレーヌ様のもとへ近づけなくなった。


陰から、

セレーヌ様がご学友のリアン殿下やクロエ嬢と楽しそうに話しているのを眺める。


……あのお二人が、少し羨ましかった。


それでも、

怖くて、

足が動かなかった。


それからしばらくして――

僕は、不自然な動きをしている貴族派の生徒数名を見かけた。


彼らが見ている先には、中立派の生徒。


あの生徒は、

セレーヌ様に憧れていると言っていたのを思い出した。


彼らの手元に、

鈍く光る何かが見えた。


考えるより先に、体が動いていた。


その生徒を押しのけるようにして前に出る。

次の瞬間、腕に鋭い痛みが走った。


周囲が騒がしくなる。


庇った生徒は大した怪我ではなさそうだったから、

僕は急いでその場を離れた。


セレーヌ様に教えていただいた回復魔法を使う。

外傷は、どうにか塞がった。


念のため包帯を巻き、

人の少ない倉庫へと身を滑り込ませる。


ここは、

たまに一人になりたいときに来ていた場所だった。


包帯を巻き終えて、

膝を抱えてうずくまる。


……ひどく、疲れていた。


腕の痛みは消えたはずなのに、

なぜか全身が重く、

体の奥からじわじわと嫌な感覚が広がっていく。


息がうまく吸えない。


胸が苦しい。


それでも、

声を出さないように、

ただひたすら耐えていた。


気づけば、

外はすっかり暗くなっていた。


ぼんやりと、

セレーヌ様のことを考えていた、その時。


倉庫の扉が、軋む音を立てて開いた。


誰か来た――そう思い、

反射的に認識齟齬の魔法をかけ直す。


その瞬間。


「リュシアン」


今、一番会いたくて、

そして一番会うのが怖かった人の声が響いた。


セレーヌ様は、

僕がここにいると確信しているようだった。


「かくれんぼは終わりにしましょう」


そう言われて、

魔法を解除するしかなかった。


……婚約破棄されて、

捨てられるんだと思っていた。


なのに。


「好きよ」


そう言われた。


好きだと言われたのは、

生まれて初めてで、

頭が真っ白になった。


いつか騎士になったら、

僕を好きだと言ってくれる人ができるだろうか――

そんなことを、ずっと思っていたのに。


騎士になる前に、叶ってしまった。


その瞬間、

手に力が入らなくなった。


セレーヌ様の次に大切な、

剣を握れなくなったらどうしよう。


その恐怖が、

胸の奥から一気に押し寄せてきた。


けれど――

その手も、

セレーヌ様が治してくださった。


僕が欲しかったものを、

当たり前のように与えてくれる人。


安心して、

嬉しくて、

ずっと蓋をしていた感情が一気に溢れ出した。


気づけば、

涙が止まらなくなっていた。



******



……セレーヌ様は、僕を好きだと言った。

捨てないとも、言ってくれた。


信じたい。

本当に、信じたい。


けれど――

もし、いつかその言葉がなくなったら、どうなるんだろう。


もし、僕が役に立たなくなったら。

もし、飽きられたら。

もし、僕がまたいらない存在に戻ったら。


……その時、僕は、どうなってしまうんだろう。


きっと、前みたいに平気な顔なんてできない。

もう、唯一の人を知ってしまったから。


面白いと思ってくださった方!ぜひ高評価、ブックマーク、リアクションよろしくお願い致します!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ