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episode10.5_1


僕の最初の記憶は、

女性の、憎しみのこもった声だった。


――お前なんかがいるから、私の人生狂ったじゃない。

――なんで私が、こんな目に遭わなくちゃいけないの?

――私はただ、あのお方を愛しただけだったのに。

――それが、いけないことだったの?


幼い僕は、暗い部屋の隅で、膝を抱えながらそれを聞いていた。


――あのお方も結局、私じゃなくて。

――お前という存在を、スペアとして残しておきたかっただけなのよ。

――お前さえ、いなければ。

――私はずっと、彼のそばにいられたはずなのに。


吐き捨てるような言葉。

感情のぶつかる音だけが、部屋に満ちていた。


そして最後に、必ず言われる。


――お前なんて、生まれてこなければよかったのに。


その意味を、幼い僕が理解できたかと言えば、きっとできていなかった。

でも、不思議とその言葉だけは、

一言一句、今でも覚えている。


少しだけ成長した僕は、やがて知ることになる。


あの女性が誰だったのか。

そして、あの言葉の正体が、何だったのかを。


――彼女は、僕の産みの母だった。


侯爵家に仕えていたメイド。

父に見そめられ、関係を持ち、そして生まれたのが僕――

リュシアン・ヴィオランドル。


父が母に、特別な感情を抱いていたわけではなかったらしい。

僕という存在が生まれた途端、父は母に興味を示さなくなった。


どうやら、父の正妻はもう子を産むことが難しく、

正妻との間に生まれた長男に何かあった時のため、

“スペア”として僕を作っておきたかっただけだったようだ。


用が済めば、それで終わり。


母は、いつの間にか侯爵家から姿を消し、

僕は、母から捨てられた。


では、僕は父にとって必要な子だったのか。

そういうわけでも、なかったらしい。


使用人部屋よりもさらに奥。

物置のような、湿っぽい小部屋が、僕の居場所だった。


一日に一度、

カビたパンと、使用人たちの余り物の薄いスープが、

床に投げ捨てるように置かれる。


それすら忘れられる日もあって、

数日、何も口にできないことも珍しくなかった。


父は広い領地を持っていたため、屋敷を不在にしがちだった。

代わりに屋敷を取り仕切っていた正妻は、

僕を見るのを、心底嫌っていた。


廊下ですれ違えば、


「穢らわしい」

「妾の子が」


そう吐き捨てられる。


「なぜ、由緒正しき侯爵家に、こんな忌々しいものが生まれたの」


その目に宿る憎悪は、

母が向けてきたそれと、よく似ていた。


違うのは――

言葉のあとに、暴力が伴うことだろうか。


まだ五歳の僕に、

成人女性の力に耐えられるはずもなく。


殴られ、蹴られ、

最後にはいつも、意識を失った。


それが、日常だった。


兄は――

少し離れた場所から、その様子を見ていた。


助けることも、止めることもなく。

ただ、なんの感情も浮かべない目で。


まるで、

そこにいるのが「人間」ではないかのように。



兄は、時折、僕のところへ一人でやってきた。


ノックもなく、当然のように扉を開けて入ってくる。

そして、何かを差し出す。


それは、いつも食べ物だった。


「ほら、あげるよ」


そう言われて渡されるそれを、僕は素直に受け取った。

当時、食事を与えられないことも多かった僕にとって、

誰かが“与えてくれる”という行為そのものが、初めてだったからだ。


戸惑いながらも、ありがたいと思って食べた。


けれど――

それは、善意ではなかった。


そうして兄から何かをもらって食べるたび、

僕は必ず体調を崩した。


理由はわからない。

ただ、苦しくて、息ができなくて、体の奥が焼けるように痛む。


助けを求めて声を上げても、

僕の部屋に誰かが来ることは、もちろんない。


そうして一人で耐え、

症状が治まる頃になると、兄はまた現れた。


「体調は、良くなったのか?」


そう尋ねる兄の顔は、ひどく楽しそうだった。


僕は恐怖に震えながら、

それでも「大丈夫です」と答えるしかなかった。


あれが何だったのかは、当時の僕にはわからない。

けれど、後になって思えば――

きっと毒のようなものだったのだろう。


兄からもらうものは、食べたくなかった。


けれど、食べなければ何をされるかわからない。

どうせ苦しむとわかっていても、食べ続けた。

それは兄が13歳で学園に入学するまで続いた。




7歳になった頃。

父である侯爵が、久しぶりに家へ戻ってきた。


領地を持つ父は、屋敷を空けがちだったが、

これからは本邸で過ごすらしい。


父は一度だけ、僕の部屋を訪れた。


なんの感情も宿らない瞳で、

僕を一瞥して、それだけで去っていった。


その後、僕はあの小さな部屋から出された。

使用人部屋より少しだけましな、別の部屋へ移されたのだ。


父が手配したらしい。


父の目がある間だけ、

僕の待遇は、ほんの少しだけ改善された。


だが、それを面白く思わなかったのだろう。

継母は、使用人を使って、より陰湿な嫌がらせを始めた。


顔を合わせれば、変わらず暴言と暴力。


父に見つからないように、

その嫌がらせと暴力は、何年も続いた。


――それでも。


悪いことばかりでは、なかった。


僕は部屋から出ることを許され、

本を読むことを許可された。


教えてくれる人はいなかったけれど、

どうやら僕は、記憶力が良いらしかった。


一度読めば、内容を覚えられたし、

書かれていることは、大体こなせた。


そのおかげで、

長年の暴力で傷だらけだった自分の体を、

自分で手当てできるようになった。


知識は、僕を裏切らなかった。


その頃、特に好きだった本がある。

単純な騎士物語だった。


強くなり、

姫を助け、

皆から褒められる――

そんな騎士の話。


僕は、その騎士に憧れた。


そして、騎士になることを夢見るようになった。


なぜなら――

そうすれば、誰か一人くらい、

僕という存在が生きていてもいいと、認めてくれるんじゃないか。


誰か一人くらい、

僕を、好きになってくれる人がいるんじゃないか。


そう、思ったからだ。



侯爵家では、継母と兄は一緒に食事をとるようだった。

父と僕は、別々に。


父が屋敷にいない日は、もちろん食事を抜かれることがほとんどだった。

それでも、年に一度だけ、家族で食事をする日があった。


僕が八歳の頃のことだ。


長い食卓。

父はいつも通り興味なさげで、

継母は僕など最初から存在しないかのように振る舞い、

兄は意味深で、よくわからない表情を僕に向けていた。


重苦しい空気の中で、食事は静かに進んだ。


食べ終わったあと、父は初めて僕を執務室に呼び出した。


呼ばれた僕に、父は短く言った。


「剣と魔法、どちらがいい」


意味はよくわからなかった。

けれど、僕はずっと騎士物語を読んでいた。


だから、迷わず答えた。


「……剣です」


すると、次の日から剣の授業があてがわれた。


初めてだった。

「やりたいこと」を与えられたのは。


楽しかった。

体を動かすことも、上達していく実感も。


褒められることはなかったけれど、

それでも、確かに「前に進んでいる」気がした。


けれど、それは長くは続かなかった。


基礎を終え、応用に入ろうとした頃、

父は再び屋敷を離れることになった。


父がいなくなると同時に、

剣の授業は取り上げられた。


理由を告げられることもなく、

また、以前と同じ生活に戻った。


けれど、その頃には、僕はもう知っていた。


何も与えられなくても、

奪われても、

自分で何とかする方法を。


僕は隠れて剣の鍛錬を続けた。

書庫にあった魔法の教科書を読み、

独学で魔法の練習も始めた。


その中で覚えたのが、認識齟齬の魔法だった。


あれは、とても便利だった。


自分の存在を薄くできる。

視線から外れ、気配を消せる。


家の中でも、ずいぶん動きやすくなった。


そうして十歳になった頃、

王家主催のパーティーに、僕も参加することになった。


この国では、十歳から社交が解禁される。

妾の子であっても、王家主催の場には出なければならない。


兄に比べれば、簡素すぎる衣装だった。

それでも、僕は何も言わずに身にまとった。


パーティーの最中も、

僕は認識齟齬の魔法を使い、

静かに会場を眺めていた。


その時、ふと王太子殿下が目に入った。


彼の隣には、

僕と同じくらいの年の少女がエスコートされていた。


金色の髪。

光を受けてきらきらと輝く姿。


騎士物語に出てくるお姫様みたいだ、と

そう思った。


その少女を守るように立つ王太子殿下を見て、

僕は考えた。


――あんな風になれば、

騎士になれるのだろうか。


それから僕は、

数少ない参加必須のパーティーでは、

王族を含めた貴族たちの所作や会話を、隠れて観察するようになった。

使用人たちの所作や会話さえ、僕は観察した。


言葉の選び方。

立ち方。

視線の配り方。


すべて、生き延びるために必要だと思った。


そうして迎えた、王立学園への入学。


継母は僕を忌々しげに見つめて言った。


「お前の存在が知られないようにしなさい」

「兄に尽くしなさい」


それだけを言い残して、去っていった。

剣は、取り上げられた。

どうしよう、と思った。


それでも。

僕は、学園の門をくぐった。

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