episode10
「――かくれんぼは、終わりにしましょう?」
そう告げた瞬間だった。
空気が、わずかに歪み。
倉庫の奥、積まれた木箱の影で、ふっと魔法が解ける。
そこには――
膝を抱え、倉庫の隅にうずくまる人影があった。
私は静かに歩み寄り、彼の前でしゃがみ込む。
床に膝を抱えて座り込み、できるだけ小さくなった姿。
灰がかった髪が影に溶け、青い瞳だけがこちらを見上げて――すぐに逸らされる。
私は何も言わず、彼の前にしゃがみ込んだ。
そして、そっと頭に手を置く。
びくり、と小さく肩が跳ねた。
ゆっくり顔が上がる。
泣きたいのに泣けない、そんな表情。
感情を押し殺すことに慣れすぎて、どうすればいいのかわからない目。
「……なんで、ここに来たんですか」
低く、平坦な声。
拒絶ではなく、困惑に近い響きだった。
「あなたが来ないからよ」
私は当たり前のことのように答える。
「だから、私から会いに来たの」
彼は一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせたあと、視線を伏せた。
「……ご実家に、戻られたんですよね」
唐突な言葉に、思わず首を傾げる。
「え?」
「……僕との婚約を、破棄されに行ったんじゃないですか」
あまりに静かな声で言われて、理解するのに少し時間がかかった。
「……なに、それ」
私がそう返すと、彼はぎゅっと腕を抱きしめる。
「この婚約が決まった時……侯爵夫人に、言われました」
淡々と、事実を読み上げるように。
「『お前のようなものを、公女様がそばに置いておくわけがない』
『実家に戻った時は、きっと婚約を破棄しに行った時だ』って」
一度、息を吸う。
「……だから、もう終わりなんだと思ったんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「……そんなわけ、ないでしょう」
私はできるだけ優しく言う。
「じゃあ……」
彼が顔を上げる。
「……何をしに、行ったんですか」
真剣で、不安で、それでも逃げない目。
「あなたのことを、気に入ったって言いに行っただけよ」
一瞬、時が止まったようだった。
「……え?」
完全に予想外だった、という顔。
きょとんとしたその表情に――
(――――――)
(待って、ちょっと待って)
(可愛すぎない?????)
(なにその顔???
そんな無防備な「理解できません」みたいな顔で見上げないで???)
(ああもう、所作も存在も全部が完璧すぎるんだけど???
この状況でこの純度???)
私は内心で大騒ぎしながら、必死に表情を取り繕う。
「……なんで、僕なんかを気に入るんですか」
本当に不思議そうに首を傾げるその姿に、
(だって見てよ???
この青い瞳、この控えめな声、この距離感、この――)
(――ああだめ、今は落ち着きなさいセレーヌ)
私は一度、深呼吸した。
「それはね」
そう前置きして、彼の目をまっすぐ見つめる。
「あなたが、あなただからよ」
「……僕、だから……?」
リュシアンは小さく呟いたあと、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
けれど次の瞬間、その顔が苦しげに歪む。
「……よく、わかりません」
そう言った途端、呼吸が浅くなる。
「なんで……なんで僕なんかを褒めるんですか」
「なんで、僕に優しくするんですか」
声が少しずつ早く、切羽詰まったものに変わっていく。
「……全部、初めてで」
「わからないことばっかりで……」
ぎゅっと拳を握りしめ、まるで逃げ場のない場所に追い詰められたみたいに。
「……怖いんです」
混乱と恐怖が、そのまま形になったような表情だった。
——そんな顔をしていても。
(……いや、待って)
(苦しそうなのはわかる、わかるんだけど)
(それでも、やっぱり)
(……美しい……)
内心でそう思ってしまった自分を、私は一瞬だけ責める。
けれどすぐに思い直した。
(でも、できれば)
(こんな顔じゃなくて、笑ってほしい)
私はそっと、彼の前に手を伸ばす。
「だって」
ゆっくり、逃がさないように、でも押し付けない声で言う。
「あなたを気に入ったの」
「あなたを、好きになったから」
彼の目が見開かれる。
「あなたは頑張りやさんで、いい子で」
「……だから」
少しだけ微笑んで、続けた。
「あなたに、笑ってほしいのよ」
「……っ」
リュシアンの喉が、小さく鳴る。
「……ぼ、僕を……好き……?」
そう呟いた瞬間、
耳まで一気に真っ赤に染まった。
(――――――)
(あっ、だめ)
(今のはだめ)
(可愛いとかそういう次元じゃない)
(純情……純度が高すぎる……)
(これは……世界、滅ぼせる……)
脳内で警鐘と歓喜が同時に鳴り響くのを、
私は必死に理性で押さえ込む。
(ありがとう私の強靭な精神)
(本当にありがとう)
「ねえ、リュシアン」
私はわざと少しだけ、いたずらっ子みたいな声を出す。
「あなたはどう?」
「私のこと、好き?」
リュシアンは完全に固まった。
顔は赤いまま、目を泳がせ、口を開いては閉じる。
「……ぼ、僕が……」
しばらく沈黙してから、絞り出すように言う。
「……あなたを、好きになって……いいんですか」
「そんな資格……ないと思ってました」
胸が、きゅっと締め付けられる。
「あるに決まってるじゃない」
私は即答した。
「あなたに好きになってもらえたら、嬉しいわ」
そう言って微笑むと——
リュシアンは、もう言葉を失った。
真っ赤な顔のまま、完全に黙り込んでしまう。
(――――――)
(はい来た)
(無言の照れ)
(これはもう……)
(尊さの暴力)
脳内で、再び狂喜乱舞の雄叫びが響く。
(落ち着け)
(今は落ち着けセレーヌ)
私は表情だけは完璧に保ったまま、ただ彼を見つめていた。
******
「……さて、と」
私はそう言って立ち上がり、リュシアンに向かって手を伸ばした。
「さあ、ここから出ましょう」
そう告げると、リュシアンは一瞬ほっとしたように視線を上げ、私の手を取ろうと腕を伸ばしかけ――
その動きが、途中で止まった。
彼は自分の手を、まるで初めて見るもののように凝視する。
「……ちから、が……」
掠れた声。
「……力が、入りません……」
愕然としたように呟いたその声に、私はすぐ異変に気づいた。
伸ばしかけて止まった腕。その制服の下には、包帯の輪郭が浮かんでいる。
回復魔法は使った形跡がある。
外傷自体は、致命的ではない。
けれど――
私の目には、はっきりと見えていた。
腕の周囲だけ、魔力の流れが歪んでいる。
通常の循環ではない、まるで怒っているかのような、不自然なうねり。
「……どうしよう……」
リュシアンが呟く。
「……剣が、握れなくちゃ……」
その言葉を皮切りに、感情が一気に崩れ落ちていく。
「僕に……価値なんて……」
「剣しか……ないのに……」
視線が定まらなくなり、言葉が途切れ途切れになる。
「侯爵にも……剣だけは……認めてもらったのに……」
「……僕には、これしか……」
真っ青な顔で、無事だった方の手で、動かない腕を強く握りしめる。
「どうしよう……どうしよう……」
息が荒くなる。
呼吸が浅く、速くなっていく。
――完全に、パニック状態だった。
私はすぐに彼のそばにしゃがみ込み、視線を合わせる。
「大丈夫よ」
そう言って、微笑む。
絶望に染まりきった瞳が、ゆっくりと私を映す。
「……大丈夫」
繰り返しながら、私は彼の前で、そっと手をかざした。
そして――
私にしか使えない、聖魔法を発動させる。
強い光ではない。
眩しさも、痛みもない。
ただ、ひだまりのような、柔らかな光。
それが彼の手を包み込み、私の魔力が、彼の魔力へと静かに溶けていく。
絡まり、ほぐし、なだめるように。
歪んでいた流れが、少しずつ、落ち着いていくのがわかる。
「……」
リュシアンが、恐る恐る指を動かした。
「……あ……」
もう一度。
ぎゅっと、拳を握る。
「……うご……」
震える声で、
「……動く……」
彼は自分の手を、信じられないものを見るように凝視した。
「……手が……治った……」
その瞬間。
ぽろり、と。
サファイアの瞳から、一粒、涙が零れ落ちた。
それを合図にしたかのように、
せき止められていた感情が、一気に溢れ出す。
ぽろぽろ、ぼろぼろと。
涙が止まらない。
泣き方を、知らないみたいだった。
どう拭えばいいのかも、どう息をすればいいのかもわからないまま。
私はそっと指先で、その涙をすくい――
そのまま、彼を抱きしめた。
抱きしめた、ほんの一秒後。
リュシアンは、堰を切ったように泣き出した。
声を殺すこともできず、
耐えることもできず。
苦しみを、悲しみを、
今まで押し込めてきたすべてを吐き出すように。
わんわんと、子どものように。
私は何も言わず、ただ彼を抱きしめ続けた。
ここにいていい。
泣いていい。
そう、体ごと伝えるように。
******
その日、王立学園の廊下が、いつもよりざわついていた。
「……ねえ、今の見た?」
「え? 何?」
「ほら、あそこ……セレーヌ公女様じゃないか?」
ひそひそと、しかし隠しきれない熱を帯びた声が連鎖する。
「どうしてあの方が、二年生棟に……?」
「まさか、迷われた?」
「……そんなわけないでしょう」
廊下の中央を歩くのは、制服に身を包み、美しい金髪をゆらめかせ、背筋を伸ばした一人の少女。
その足取りは迷いがなく、視線は真っ直ぐ前を向いている。
「やっぱりセレーヌ様はお美しいわ……」
「歩いているだけで、空気が変わるって本当なのね」
「ねえ、なんで二年の教室の前なんかに……?」
囁きは、驚きと好奇と、そして少しの羨望を含んで膨らんでいく。
やがて、彼女は一つの教室の前で足を止めた。
二年生・魔法騎士科。
彼女の目的地はここだった。
扉の前に立ったセレーヌは、ほんの一瞬だけ呼吸を整え、
そして、優雅に微笑んだ。
「――失礼いたします」
静かな声だった。
けれど、不思議と教室全体に通る。
視線が、一斉に集まった。
きょとん、と。
ざわり、と。
誰もが言葉を失う中、セレーヌは一歩、教室の中へ踏み出す。
「私の――」
一瞬、間を置いて。
「愛する婚約者は、どこでしょうか?」
その言葉が落ちた瞬間。
「……え?」
「……は?」
「婚約者……?」
教室は、爆発したようなざわめきに包まれた。
視線が、次々と一箇所へ集まっていく。
――教室の奥、窓際。
そこに座っていたリュシアンは、まるで時間が止まったかのように、呆然としていた。
顔色が、一瞬で抜け落ちる。
――まさか、来ないと思っていた。
――いや、来てほしいと思いつつ、思わないようにしていた。
そんな思考が交錯する前に。
セレーヌの方が、彼を見つけた。
先ほどまでの完璧な貴族の微笑ではなく、ほんの少しだけ柔らかく、可愛らしい笑顔で。
「リュシアン」
名を呼ばれ、彼の肩がびくりと震える。
「迎えに来ましたよ?」
その瞬間。
教室の空気が、完全に凍りついた。
――逃げることは、できた。
――俯いて、気づかないふりをすることも。
けれど。
リュシアンは、ゆっくりと立ち上がった。
胸の奥で、何かが――静かに、しかし確かに定まる。
彼は一歩、また一歩と前に出て、
セレーヌの前に立つ。
そして。
彼女の手を、そっと取った。
息を呑む音が、教室のあちこちから漏れる。
リュシアンは、迷いなくその甲に口づけ、ゆっくりと顔を上げる。
蒼い瞳が、セレーヌを真っ直ぐに捉えた。
「……お迎え、ありがとうございます。セレーヌ様」
その声音は、震えていなかった。
セレーヌは一瞬、目を丸くし――すぐに、満足そうに微笑む。
(――よくできました)
心の中で、そっと褒めながら。
その場にいる誰もが理解した。
――これは、偶然でも、噂でもない。
――彼は、選ばれているのだ、と。
ざわめきは、しばらく止むことはなかった。
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