第六話:生態系の崩壊と、省エネ主義者の朝食
「……静かだ」
翌朝、ヨウジが恐る恐るドアを開くと、そこには昨日までの不潔なアパートの廊下とは思えない「異様な清廉さ」が広がっていた。
一缶で家が建つという超高級プロテインの粉末は、一粒残らず消滅している。オクボ教官が高速スライディングで消えていった先にも、その姿はない。ただ、ワックスとオイルが混ざり合った「かつてオクボがいた場所」だけが、鏡のように磨き上げられていた。
だが、視線を足元に落としたヨウジは、その「掃除」の正体を知り、戦慄した。
「……マッチョ蟻だ」
本来のサイズこそ普通だが、胸筋が異常発達し、二本足で立ち上がった蟻たちが、コンクリートの破片をバリバリと噛み砕いていた。彼らはプロテインの粘着力で固めたコンクリートで、蟻塚というよりは「軍事要塞」のような筋肉質の巣を構築している。
さらに廊下の端では、近所の野良猫が、首から上が僧帽筋で埋まったマッチョ鼠に全力で追いかけ回されていた。鼠はボクサーのような軽やかなステップで猫をコーナーに追い詰め、無数のジャブを繰り出している。
「……見なかったことにしよう。生態系の食物連鎖に首を突っ込む体力はない」
ヨウジは部屋に戻り、朝食の準備に取り掛かった。
昨日の残りのカレー。一晩寝かせてドロドロになったそれを、茹でたうどんにぶっかける。
目の前には、オクボ教官が「感動のあまり置いていった」黄金の一斗缶が輝いている。一缶で家が建つほどの価値。マッチョが飲めば爆発的な魔力を生む至宝。
だが、ヨウジは一斗缶の蓋を静かに閉めた。
「……いらない。タンパク質を分解・消化して筋肉に変えるには、莫大なエネルギーが必要だ。今の俺が摂取すれば、消化の途中でエネルギー収支がマイナスになり、餓死する」
ヨウジにとって、筋肉は「燃費の悪い贅沢品」でしかない。
今、彼が求めているのは、一刻も早く脳に届く糖質と、胃に負担をかけない熱量だ。
「……いただきます」
ズズッ。
炭水化物と脂質が、五臓六腑に染み渡る。
ヨウジの脳細胞が、糖分を得て急速に再起動を始めた。
(……よし、血糖値上昇。脳内の演算速度、正常値。今日の登校経路における最適解……最短距離ではなく、『追い風を受け続け、かつ一度も階段を登らなくて済むスロープ重点ルート』を算出完了)
「ごちそうさまでした。……よし、行こう。一歩も無駄にしない登校を」
ヨウジは箸(相棒)を一本だけ手に取り、学校へと向かった。
彼の歩みは、もはや歩行というよりは「空間の隙間を滑り落ちる」ような、究極に効率化された移動術。
アパートの階段を降りると、植え込みに頭から突き刺さったまま「ヌウゥ……落差……黄金の落差……」とうわ言を漏らしているオクボ教官の脚が突き出ていたが、ヨウジは眉ひとつ動かさない。
(教官を助けるために屈むという動作は、スクワット0.5回分のエネルギーを消費する。……却下だ)
ヨウジは教官の脚を無表情に跨ぎ、涼しい顔で学院の門をくぐった。
その背中を、校門の上からレオタード姿のカーリーが見つめていた。
「……今日のあいつ、昨日よりさらに『薄い』わね。存在感が消えかかってる……!」
ヨウジの「えいっ」を巡る筋肉王国の狂騒は、本人の預かり知らないところで、さらなる科学的変態へと加速していく。




