第五話:深夜の至宝(プロテイン)強襲と、勘違いの落差理論
「はぁ……はぁ……、あと三段……。階段が……エベレストに見える……」
ヨウジは、自宅の格安ワンルームアパート『レオパレス・マッスル』の階段で膝をついていた。「ややっ」でカーリーを撒くために、空気中の水分をいじくり回してホログラムを作った代償は大きかった。現在のヨウジの体力ゲージは、点滅どころか消失寸前だ。
這うようにして三階の自室、305号室にたどり着いたヨウジだったが、そこで絶望の光景を目にする。
「……あ、あれ?」
玄関の扉を塞ぐように、街灯の光をテカテカと反射させる巨大な背中――オクボ教官が立っていた。その腕には、一国の予算が動くと噂される最高級の輝きを放つ、「金色の超高級プロテイン一斗缶」が抱えられていた。
「遅かったな、ヨウジ。待ちわびたぞ」
オクボが振り返る。その顔は、聖遺物でも扱うかのような神聖な表情をしていた。
「き、教官……その成金趣味な缶は何ですか……?」
「これか? これは王室御用達、伝説の『神造大豆』から抽出された、一滴で牛一頭をマッチョにするという超高級プロテインだ! 貴様の伝説的魔法『えいっ(穿)』の出力を高めるための、特別補給物資として持ってきた!」
オクボは、一斗缶をドォン!と廊下に置いた。その衝撃でアパート全体が震え、建付けの悪い窓ガラスがガタガタと鳴る。
「いいかヨウジ、俺は考えた。なぜ貴様があれほどの破壊力を生み出せるのか。その答えは、『落差』だ!」
「……らくさ?」
「左様! 貴様はあえて普段を『ヒョロガリ(極限の脱力)』に見せることで、魔法を放つ一瞬の『筋収縮』との差を無限大に広げている。いわば、弓を極限まで引き絞っている状態だ! ならばだ! この最高級プロテインで引き絞るための『弓(筋肉)』を強靭にすれば、脱力状態からの爆発力は国家を揺るがすレベルに跳ね上がるはずだ!!」
「……いや、僕はただ、生まれつきの虚弱体質で……」
「照れるな! さあ、この『一缶で家が建つ』と言われる極上の粉末を飲み干し、俺と共に真の『えいっ』を目指すぞ!」
「嫌です……。僕の家、床の耐荷重が100キロしかないんです……。家が建つような価値のある缶を置かれたら、床が抜けて僕の人生も抜けます……」
ヨウジは必死にドアの鍵を開け、隙間から滑り込もうとする。
しかし、オクボの丸太のような腕がドアをガシッと掴んだ。
「待て! 修行は今ここから始まるのだ! さあ、口を開けろ! プロテインを流し込んでやる! 筋肉の門を開くのだ!」
「やめて、それ絶対溶けきってない! 砂利どころか宝石の破片みたいな喉ごしがするやつだ!!」
ヨウジは最後の力を振り絞り、指先をパチンと鳴らそうとした。
だが、もう魔力も体力も底をついている。脳内から絞り出されたのは、魔法ですらない、ただの「本音」だった。
「……あ、あ、あ……『あっちいけ(排)』……」
それは魔法ですらなかった。あまりの疲労にヨウジがよろけ、教官の胸板にペタッと手を触れた瞬間――。
たまたま、アパートの廊下の古いワックスと、オクボ教官が自慢のポージングオイルでテカテカに光らせていた足元が、物理的な摩擦係数ゼロの奇跡を起こした。
「ぬあああああーーっ!?」
自分の体重と、抱えていた「黄金の一斗缶」の恐ろしい重量。
それらがヨウジの「つん」という微弱な一押しによって、ベクトルが完全に後ろへと反転。
オクボ教官は、まるでバナナの皮を踏んだギャグ漫画のキャラのように、廊下の向こう側まで高速スライディングで消えていった。
「な……ッ! 触れただけで、この俺と黄金缶の総質量を……『ベクトル操作』だと……!? おのれヨウジ、まさか『相手の価値(質量)をそのまま推進力に変換するカウンター』まで使いこなすとは……どこまで底知れないんだ……!」
遠ざかるオクボの叫び声。
「……ただの……、床の清掃不足、だよ……」
ヨウジは、静かになった廊下でようやく部屋に入り、全生命力を投入して鍵をかけた。もはや布団に戻る力すら残っていなかった。
ヨウジは玄関でそのまま力尽き、眠りについた。
翌朝、アパートの廊下には、オクボ教官が衝撃でぶちまけてしまった「ダイヤモンドのように輝く高級粉末」と、感動のあまり残していった「黄金の一斗缶」がシュールに置かれていた。
そして、その輝きに誘われて、近隣の蟻や鼠たちが「究極の進化」を遂げる準備を始めていたのである……。




