第十二話:監察官タノと「逃走の最適解」
演習場を見下ろす監察官タノの瞳に、激しい嫌悪の炎が宿った。
ヨウジの「無意識の回避」は、彼女にとって単なる効率化ではなく、この筋肉王国の理を根底から踏みにじる、ある「忌まわしき記憶」を呼び覚ますものだった。
タノは自身の右腕に刻まれた魔紋を見つめた。それは、かつて彼女が血の滲むような過酷な修練の末に、自らの筋繊維と引き換えに手に入れた「力」の証明。この国において、魔法とは肉体という供物を捧げて得る聖なる対価なのだ。
「鍛え上げ、練り上げた肉体を削り、汗を流して魔力を生む……その苦痛の対価として魔法の行使は許される」
彼女の声は、地を這うような冷たさを帯びる。
「だが奴は……。何も削らず、何も消費せず、ただ結果だけを得るなど……。そんなの、『彼奴等』のやり口と同じ。……許されない」
「彼奴等」とは――。
それは、自然な鍛錬を捨て、禁断の薬物によって不自然に膨張させた偽りの筋肉を是とする敵国、「鋼鉄薬物連邦」のことだ。
自分たちが「魂を削り、時間をかけて育てた筋肉」を神聖視するのに対し、奴らは薬物で筋肉を無理やり「増設」し、効率のみで魔法を兵器化した侵略者。その「汗を流さないショートカット思想」は、この国にとって最も忌むべき「筋肉に対する裏切り」であった。
タノは手すりを飛び越え、重力加速度を魔力で制御しながら、ヨウジの眼前に音もなく着地した。
その周囲では、あまりの威圧感に生徒たちが泡を吹いて倒れていく。
「……ヨウジ。貴様を国家反逆および脱税の疑いで、これより連行する」
タノが右手をかざすと、ヨウジの周囲の重力が一気に数十倍へと跳ね上がった。
床がミシミシと鳴り、空気が鉄塊のように固まる。
「(……うわ。なんか、すごく面倒くさそうな人が来た……。目が怖い。関わったら一ヶ月分のカロリーを尋問で消費されそうだ……)」
ヨウジは眠気を一瞬で吹き飛ばした。この事態を切り抜けるのに必要なのは、戦う力ではない。「いかに動かず、いかに速く、この場から消え去るか」という一点のみ。
「サクミさん、カコさん……。僕の後ろに」
ヨウジがボソリと呟く。カコはちんちくりんな体をヨウジの背中に隠し、サクミはヨウジの裾を掴んだ。
タノが重力の檻を完成させようとしたその瞬間、ヨウジは口を半開きにし、魂が抜けたような声を出した。
「……ええっ(驚)」
それは、ただの驚きではない。
相手が放った「自分を捕らえようとする魔力」のベクトルを、そのまま自分たちを押し出す推進力へと変換・反転させる。究極の受動的逃走のための改良型逃走魔法だった。
「なっ……!?」
タノが目を見開いたときには、ヨウジたちの姿は既にそこになかった。
爆発音も、光の筋もない。ただ、空間の隙間に吸い込まれるように、三人は「ズルッ」と滑るような音を立てて、演習場の出口へと超高速移動していた。
「逃げ……た? 私の重力を、加速の燃料にしたというの!?」
タノが振り向いたとき、演習場の扉は既に閉まっていた。
後に残されたのは、ヨウジがその場に脱ぎ捨てた「重くて邪魔な上履き」と、床に残ったマッチョ蟻たちが這い回る跡だけだった。
「……ヨウジ。どこまで『省エネ』で私を愚弄すれば気が済むの……!」
タノの怒号が演習場に響き渡る。
一方、学校の裏庭まで一瞬で移動したヨウジは、激しい息切れを……「しないように」、ゆっくりと深呼吸をしていた。
「……ふぅ。今のは……心拍数が10も上がってしまった。大損害だ……。とりあえず、今日はもう早退しましょう」
「はい、先輩! どこまでもついていきます!」
「……今の魔法の加速度。科学的に計測したかったわね」
こうしてヒョロガリ一行は、監察官の魔の手から(とりあえず)逃げ切ることに成功したのだった。




