《家族-20XX0719》
すっかり日が長くなって蒸し暑い日々が続く中、私は窓を締め切ってもなお聴こえてくる蝉の大合唱に負けじど第2音楽室でヴァイオリンを弾き続けていた。
ひと通り弾き終えて、休憩のために近くのピアノ椅子に腰をかけると、セイが私に声をかけた。
「ヒナは本当にヴァイオリン好きだよな」
「セイも弓道好きじゃん」
「将来はヴァイオリン奏者になりたいって感じか?」
「……うん、そうかも。できることなら好きなこと―ヴァイオリンを仕事にして生きていきたいな」
自分の将来なんてセイと出会うまで考えてもみなかった。世界が開けてもなおやっぱり私とヴァイオリンは切り離すことが出来ないから、ヴァイオリン奏者になることが私の今の夢だと言えるだろう。
(気持ちも固まったのだし、早くお父様にも言わなきゃ)
自分の人生を生きるんだ、って。
「よし!今日帰ったらお父様に話に行く!」
「今日!?」
柄にもなくセイは呆気に取られた声を上げた。瑞月はだろうねとでも言うように私のことを笑って見つめていた。
「善は急げ、っていうし!しり込みしないうちにね!」
私は誇らしげに二人に宣言した。これからお父様と話すというのに、不思議と声は明るかった。
「てことだから、今日は早めに帰るね!」
忙しいお父様と話せるのは日が落ちてからになるだろう。でもこの心持ちでヴァイオリンを弾いても身になる気はしなかった。
早速荷物を荷物をまとめるため、手近な場所に置いていたヴァイオリンケースに入れようとしたら、右手が一瞬凍りついたように動かなくなって弓を落としてしまった。
「あれ?」
弓が床にぶつかりカランカランと音を立てる。
もう一度手のひらを上に向けて拳を作ったり開いたりしたけれど普通に動かすことが出来た。
「自分では平気なつもりでも心の奥底では本当は怖いんじゃねぇの?」
セイは私が弓を取り落としたのを緊張のせいじゃないかと思ったみたいだ。
(やっぱ緊張してるのかな?)
「本当は怖くても行動しないと何も変わらないもん」
華道の家元に産まれたセイが今弓道に打ち込めているのは過去のセイがちゃんと自分の気持ちを家族に伝えたからだ。
私はかえってくる言葉が怖くて、お父様の前では俯いて謝罪することしか出来なかった。
「……私も頑張るから」
いつも無愛想なセイだけれど今は確かに私の方を見て微笑んだ。
「日奈莉」
聞き慣れた瑞月の声が風が吹くようにすっと私の耳に入ってくる。
「今日は遅くまでうちの家でセイといるからさ」
瑞月はいつもの笑顔で微笑んでいる。
「何かあったらいつでもおいで」
瑞月の家と私の家はかなり近い位置にある。問題なく徒歩で往復できる距離だ。
「……ありがとう。ちゃんと伝えてくるね」
笑って彼らの元へ行けるように。
『何故こんなことも出来ないんだ?』
『この程度で喜べるのか?お前は』
今でも突き刺さって抜けない言葉。私に見切りをつけたお父様は不覚ため息をついた後に言った。
『……もう好きにすればいい。お前には期待しない』
『だがその容姿だけは整えておけ。傷を作ることや怪我をすることなど以ての外だ。条件の良い取引先との婚約だけは考えておく』
私はただ俯いてごめんなさいと、それだけしかいえなかった。
――期待に応えられる娘じゃなくて、ごめんなさい。
お父様の部屋。この扉の前に立つのはいつぶりだろう。緊張でノックしようとする手が震える。でも必死に拳を握りしめて勇気を振り絞る。
(……頑張るって言ったもの)
拳で扉を叩くと鈍い音が響いた。
「お父様、日奈莉です」
「……入れ」
部屋の両脇に所狭しと敷き詰められた本の数々と古書の独特の匂い。昔の記憶と変わらない光景だ。ただ、正面に座るお父様に向かい合うように背の高い男性が立っていた。その人が私の方を振り返る。キッチリと着こなしたスーツにスクエアの眼鏡。見た目だけでもいかにも堅物だと感じ取れるその人は
「お久しぶりです、お兄様。いらっしゃっていたんですね」
「ああ。もう高校生になっていたのか」
花園京也、10歳も離れた私の兄だ。兄は昔からお父様のことを慕い、学生の頃から仕事の手伝いをしていたため、兄妹といってもまともに会話したことはない。
(お兄様は優秀だったからお父様に認めれたんでしょうね)
「それで、お前の要件は何だ」
低く響く、貫禄のあるその声。昔と何も変わらない。
お兄様が私に道を譲るように脇に逸れる。
そして私は水凪学園の理事長でもある花園京修―実の父と向かい合った。
花園家は何十代も前から続く由緒正しき名家だけれど、実業家として成功を収めたのはこの人による手腕が大きいとされている。
お父様は言わばなんでも出来る万能な人間であるため、努力しても実にならない私の気持ちなどこれっぽっちも分からないのだろう。
「お父様にお話があってまいりました」
「それは分かっている」
「では、単刀直入に申し上げます」
私は力を込めて言い放った。
「結婚のお話を破談にさせていただきたいのです」
お父様の顔が一瞬歪んだのが分かった。
「何を言っている?」
「花園の娘に産まれたというのに、知識も教養も取るに足らないお前が唯一順風満帆に生きていける道のはずだ」
「私は貴方が決めたレールの上をなぞるように生きていきたくはありません」
体が強ばっていくのを感じる。全身が薄ら寒い。それでも、
『自分の人生なんて誰かに縛られるものなんかじゃない』
『お前のヴァイオリンの音はどこでも飛んでいけそうなくらい、いつだって自由な音だったよ』
――私にあんな言葉をくれた、一番星みたいなあの人に報いるように。私は言葉を続ける。
「私はお父様のお人形じゃありません、やりたいこともある、感情だってある、ひとりの人間です」
「私の人生は私が決めます」
はっきりとお父様の目を見て言葉を紡いだ。
お父様は少しだけ驚いたように瞬きをした。
「やりたいこと、だと」
「ヴァイオリンです。私はずっとヴァイオリンと共に生きていきたい、ヴァイオリン奏者になりたいのです」
初めてお父様の方から目を逸らした。顔の近くで両手を組んでいるため表情は良く見えない。
「それは唯一そこそこできるものだったからそれなりに続けていただけじゃないのか」
思わず呆気に取られた。何を言ってるんだこの人は。
「そこそこ出来る、くらいでこんなに十何年もひとつの事を毎日毎日続けられるわけないでしょう!?」
お父様に怒りを伴った感情をぶつけるのは初めてだ。
「婚約の話をした時にそれをすぐ言わなかったのは何故だ」
「努力しても認めて貰えない自分の親に、何も期待しないと言われた後に言えると思っているんですか!?」
「努力……なんてしていたのか?」
「してたわよ!要領が良くてすぐになんでも出来るお父様とお兄様と一緒にしないで!」
そんな中、ククッと笑いを堪えるお兄様の声が響いた。
「あの日奈莉が怒鳴るとはね、歳はとってみるものだ」
お兄様は私の方を見て笑顔を浮かべている。
「要は二人とも言葉足らずで言い方が悪かったということですよ、日奈莉はヴァイオリンがやりたかったけど直接言えなかった。そして、」
お兄様はお父様の方をチラリと見やって楽しそうに言い放った。
「お父様はただ一人娘の行く末が心配だっただけですよね」
「え?」
「嫁の貰い手が見つかるか心配、ただそれだけの事が、この家であるせいで大事になってしまったんでしょう?」
嘘でしょう?長年の悩みの種だったのに?
お父様の表情を伺ったけれど、いつも通りの顰めっ面の仏頂面だ。とてもそうには見えない。
「お父様は私が花園の家に相応しくないくらい何も出来なかったから見放したのではなかったの?」
「うちには京也もいるのに、お前に家のことの何を期待するんだ」
そのままお父様は言葉を続けた。
「お前は何をやらせても京也のように上手くいかず、その割にはヘラヘラ笑っているものだから怠けているんだろうと思っていた」
「……泣いているところとか見られたらまた叱られると思っていたし……」
だから私はお父様の部屋からは見えない場所で一人で泣いていた。そしてそんな私のことをすぐに見つけに来てくれたのが瑞月だった。
「……今まで悪かったな、日奈莉」
お父様が久しぶりに私の名前を呼んだ。
「京也だって自分の意思で私の元についているんだ。お前もやりたいことがあるならば好きにすればいい」
「……ありがとう!お父様!」
心にかかっていた靄が綺麗に晴れ渡るような気分だった。
「お兄様も、ありがとう」
お兄様がいなければ、私達はまたすれ違ったままだったかもしれない。
「いいや、俺はお前に謝らなきゃいけない」
お兄様は私の頭の上に手を置いて、視線を合わせるようにしゃがんで目を合わせた。
「日奈莉が産まれてすぐお母様が亡くなられて、お前が寂しい思いをしていると分かっていたのにお前の方に振り向きもしなかった。お父様も不器用な人だと分かっていたのにフォローもせず」
「ごめんな。今度お前のヴァイオリンを聴かせてくれ」
冷たかったはずの心が暖かくなって行くのを感じる。
「私も勝手に勘違いして、大事なことも言えなくて、ごめんなさい。お父様、お兄様」
もう分かり合えないと思っていた家族と初めて分かり合えた日だった。
あの後すぐに、私は瑞月の家に向かった。運転手は出さないのか?と問いかけるお兄様に、今は走りたい気分なの!と返した。
夜にたった一人で外に出るのはいつぶりだろう。空を見上げると淡い光を放つ月ときらきらと輝く星々が夜空を彩っていた。
「……きれい」
――早く、はやく会いたいと、私は二人の元へ駆け出した。
瑞月の家に着くと、話は通っていたみたいでスムーズに瑞月の部屋に案内された。
瑞月の部屋は相変わらず何も変わらない。全体的にシンプルな部屋だけどよく分からない機械や装置、工具が辺りに無造作にちらばっているのだ。
そんな部屋に瑞月とセイがいつもと変わらない様子で私のことを待っていた。机の上にチェスの駒が転がっていて暇つぶしにボードゲームをしていたみたいだ。
「「日奈莉/ヒナ」」
二人が同時に私の名前を呼んだ。
笑って彼らの元へ行こうと決めていたのに、
「ど、どうしたんだよヒナ」
二人を見た瞬間ほっとしてしまって、私はその場で泣き出してしまった。
珍しくセイが慌てている。涙で歪んだ視界のせいでどんな顔をしているのかよく分からなかった。
すると、スっと横から出てきたハンカチが私の涙を拭った。
「いつまでも泣き虫だね、日奈莉は」
困ったように笑う瑞月の顔を見ていたら、また涙が溢れてきてしまった。




