2/蒼爽架のセクハラ殺人
/2
双色遊季といえば、四人いる俺の幼馴染の一人である。
一人は自称恋愛の貴公子こと生徒会長、九ノ瀬渚。一人は市坂の誇る全国級ラスト侍、蒼爽架。一人は遊季の双子の姉である、双色紗季。そこに遊季を加えて四人。俺を含むと合計五人が小学生時代からの付き合いを持つ幼馴染五人組だ。
ここで遊季にまつわる一つの事実を明かしておかなければならない。
遡ること十年前。小学の低学年の頃、遊季は病気がちな体質であったためによく学校を欠席していた。その為に当時の俺達にはクラスが同じでありながらも遊季と面識がない。それでも四人が既にコミュニティーを確立した後で遊季がそこに参入したのは、その四人の中に姉の紗季がいたことが最大の理由である。
“ほら、遊季もおいでよ”
ある日の紗季の言葉。いつも通り放課後になってから集合して、さて今日は何をして遊ぼうかと話していたときのことだった。紗季の後ろに隠れてひょこりと顔を出した遊季を指して紗季が言う。
“弟の遊季っていうんだけど、この子も仲間に入れて上げていいよね”
拒む理由はなく一同の返事など聞くまでもなかった。
同時に紗季と遊季を除く場の全員の頭に共通の疑問が浮かんだ瞬間でもある。
弟。唯一にして最大の疑問点がその一言に完結していた。
俺達の前に現れた遊季は紗季と瓜二つの、服装や仕草――髪は少しだけ遊季の方が短かったと記憶している――何から何までが紗季と同じのまるで鏡写し。特に琥珀色の瞳は、そこだけ切り取ればどっちがどっちだか見分けの付かないレベルでそっくりだった。両者を分け隔てるのは言葉で説明のしようがない、存在的雰囲気の違いだけ。
それでもしかし紗季の言葉の通り間違いなく、遊季は同い年の少年だった。
とはいえ。
“うん。よろしく遊季”
幼い日の彼らにとって外見など、遊季と付き合うのに何の障害にもならなかったのだが。
「どうしたの律。お腹痛い、それともお腹減った?」
「強いて言うなら後者だよ」
今朝一番の騒動で俺は朝食を抜いているからな。遊季の口に黒焦げの玉子焼きを押し込んだことが二次災害を生むとは思っていなかった。昨日挙動には気をつけようと決めたばかりだというのに、半日以内に同じ失敗を繰り返してしまった自分が愚かしい。
「……まったく。朝はちゃんと食べなきゃダメだよ。例えそれが黒焦げでも」
「あれを喰っていたなら、俺の回答は前者になっていたんだろうな」
空腹の方がいくらかマシである。あれを食して一日腹が異常をきたさないと思えるほど、俺は自分の胃袋に自信を持っていない。もっとも実際に食べてしまった遊季は部屋中を転げ回る程度で済んだのだが。二次災害とはそのことである。ちなみにまだ片付けは終わっていない。
「食卓に並べられた料理を食べきるのは、作った側に対する最低限の礼儀だと思わない?」
「食卓に並べられたものが、本当に料理だったらな」
あれは料理なんかじゃない。ただの炭だ。あんな状態になるまで加熱された玉子料理を俺は知らない。
悪辣な言葉で返すと隣から、ぬぅ、と唸る声が聞こえた。横目に窺うと、遊季は頬を膨らませて険しい表情で通学路を睨んでいる。怒らせてしまったようだ。まあ、その方が静かでいいかもしれない。
遊季と登下校を共にすることは珍しくないにしても、頻繁にあることでもない。
蒼辺りがどんな風に思っているやら知らんが、今日みたいに遊季が朝から押し掛けてくる(ましてやポイズンクッキングをやらかす)なんてことはかなり稀有なケースである。この積極性は小学生時代にはなかった。小学生の頃の遊季は、どちらかというと消極的な性格をしていた。いつも紗季にくっついていたから霞んで見えただけかもしれないが。
姉である紗季は遊季が少女的な振る舞いをするのは偏に自分の影響であると語った。欠席の多かった遊季がもっとも多くの時間を共有していたのが自分であるからだとか、そんなことが理由であるらしい。とはいえやはり、同じ環境でも遊季のような人間が出来上がるのは極稀なケースだろう。
遊季の出で立ち。
言葉や仕草、立ち振る舞いから一切矛盾のない女子の制服を着込んだ立ち姿。標準位置がそもそも短い学校指定のスカートから生える脚。華奢な肩。百五十センチ前半の身長。琥珀色の瞳は紗季と寸分違わない。遊季の変化は紗季に似てきたというよりも近づいてきているといったほうが正しいだろう。
昔からの違いといえば腰辺りまで髪を伸ばしていた紗季に対して、遊季の髪は肩口下のセミロングであること――
「ん。なに、どしたの。やっぱりお腹痛い? それとも」
「いや、遊季おまえさ、髪伸ばしてるのか?」
昨日覚えたばかりのスキル活用して矢継ぎ早に訊く。気のせいかもしれないが、背中に垂れる遊季の髪の先端が標準位置よりも低い位置にあるように思えた。
「んん、そうかな?」
上半身を捻りつつ、逃げていく自分の背中に手を回して人房髪を引っ張ってくる。それを弄びながら遊季は「ふーん」「へえー」「ほほおー」など、一体何に感心しているのか読み取れない感嘆を特別感情もなく零していて、最後には小首を傾げてしまった。
「自分ではあんまり解らないね。でも、律が言うんだったら伸びてたのかな。それが、何?」
「ちょっと気になっただけだよ。別に何ってことはない」
本当に何てことのない光景。
何てことがなさ過ぎて、遊季を紗季と見間違えてしまうような、そんな朝の通学路だった。
*
「男の間でも意見が分かれる議題だと思うが、律、おまえは女の子に『可愛さ』と『美しさ』のどっちを求める?」
教室に入った俺を出迎えた蒼が、おはようだとかなんとか、その他時頃の挨拶よりも先に一切の前置きも脈絡もなく言ってきた。挨拶の重要性を知らんのか、こいつは。
「私が思うにだな、『可愛さ』派の男は根がエロい男だと思うんだ」
「そいつはまた、随分と主観的な意見だな」
「詳しく聞きたいか?」
「いいだろう。話してみろ」
取り分け聞きたいわけではなかったが、どうせ素直にそう言っても蒼なら無視して話を始めるだろうと踏んで先を促した。無理矢理聞かされていると自覚しながら興味のない話をされるのと、一応同意の上で一方的に語られる妄言を聞き流すのとではメンタル的ヒットポイントの消費量から見てどちらが省エネかは瞭然だ。
ちなみに、校舎に入るまで同行していた遊季は別のクラスなのでこの場にはいない。遊季と別れた俺は教室後部の扉を開いた時点で蒼に絡まれた、というのがこと今に至るまでの次第である。
「うん。律、おまえにとって『可愛い』とはどういうことを指す言葉だ?」
「どう……っても。さあな、はっきりとした言葉じゃ表せないな。強いて言うなら愛くるしいとか、そういう意味じゃないのか」
「それも一つの見解だな。でもその場合の可愛い、は『子犬が可愛い』や『子供が可愛い』といったあくまで自分よりも相手を低く見た……というのは極論だが、つまりは愛玩対象への感動詞、いわば記号なんだよ」
「だったらおまえが言ってるのはどの可愛い、なんだよ」
「性的欲求を一言に凝縮した心情吐露だ」
間髪入れずに答えが帰ってくる。
「おまえアホだな」
「あれ、解りにくかったか?」
「……なんだかおまえには負けた気しかしねえよ」
なんでこいつ、頭はいいのに会話が変なところで噛み合わないんだろう。鼓膜に自分に対する中傷が入らないようにするフィルタでも付いてるんじゃないか。
「『可愛い』から連想される言葉は『はぁはぁ』だ。これは間違いなく相手に対して邪な感情を抱いているとしか思えない」
「おまえの思考回路はどんな風に設計されてんだ。俺はそれを見てみたい」
「そうか? うんまあ、律が見たいというなら、少しくらい見せてやってもいいけど」
「結構だよ!」
怖過ぎる献身だ。開いた脳の観察なんてしたくない。呆れの感情を表す比喩表現に対してもいちいち本気になってくる蒼は、どう考えても扱いづらい類いの人種である。そんな風に考えてみると、昨日の朱空末那な遊季はかなり扱い易い。なんだか奴らが恋しくなってきた。
「故に、可愛さ追求派の男はエロエロなんだ」
「なんか表現が変わってないか……? ちなみに、美しさ追求派はどんな人間なんだ?」
「インテリ気取りの隠れエロスだ」
「おまえの主観、男はみんな変態じゃねえかよ」
「……? 私は別にエロを求めることを否定してなどいない。単に男の本性を暴いてみただけだよ」
「勝手に男の本性を捏造するな!」
「なあに、隠すことはない。解き放て、律! おまえのエロスの射す方向こそがおまえの覇道だ!」
「んな覇道はねえ!」
ポニーテールを振り回して蒼が体を半回転させ、掌を窓の外に翳す。いやにカッコイイ背中が俺の前に屹立していた。マントでも着させたら歴戦の勇者にでも早変わりしそうな姿だ。
結論からして何を訴えたかったのか砂粒程度にも汲み取れない蒼による一人議会が終了すると、いつの間にやら廊下に集まってきていた野次馬達から声が上がった。爽架さまー、蒼先輩ー、蒼ちゃーん、という様々な叫び声が海岸に押し寄せる荒波のごとく俺の背中を打ち付ける。その数や実に十を超える多数。振り返って数えるのが面倒なのでたくさんとしておく。
「誰が蒼ちゃんだ!」
鬼気迫る形相で蒼が振り向く。いつ頃からだったか蒼は自称に対して女性的なよそよそしさが含まれるのを毛嫌いするようになり、最近では『爽架ちゃん』などと呼称しようものなら真剣で斬り掛からん勢いで襲ってくる。事実竹刀を振り回して暴走した前科もこいつは持っているのだ。
補足として廊下に集合した面々について説明しておくと、連中はいわゆる蒼のファンクラブに当たる存在である。全国クラスの腕前を持つ剣道少女であり、さばさばした性格や端正な容姿から蒼は学園内のスターとして君臨し、今や学年や男女を問わず(割合は女子の方が八割を占める)絶大な人気を博していた。
先の犯人を見つけ出そうと躍起になっている蒼をどうにか宥める。大方、ファン群衆の中に紛れていた本物の野次馬がふざけて叫んだのだろう。前述の通り学園内における蒼の知名度は高過ぎるといっていいほどに高い。それ故に蒼の起爆スイッチは、在校生徒全員が握っていると言ってもいいくらいなのだ。
「落ち着け、蒼」
「これが落ち着いていられるか! おのれ……こんな屈辱を受けたのは十五分前以来だ……!」
「さっきじゃねえか!」
なるほど蒼的屈辱は連鎖していたのか。累積した恥辱がこの殺気の源であるらしい。などという考察は早めに切り上げて、ここで聞いておかなければならないことがある。そいつをとっとと済ませておこう。
「離せ律! 人には戦わなければならない時があるんだ!」
「だとしてもそれは今じゃない。とりあえず落ち着け。そして」
蒼の肩を掴み、脚で引き寄せた近くの椅子に座らせる。抵抗が激しい為に半ば強引になってしまい、座らせる際衣服が大変乱れてしまったが気にしない。
駄々っ子のように手足をばたつかせる蒼の鼻先に人差し指を突き付けて制止、そしてゆっくりとその指を教室中央に向かわせて言った。
「ありゃなんだ?」
俺が指差す先にはうつ伏せに倒れる男子生徒の姿。……実は経験上彼の顛末は説明なくして大体の予想はついているのだが、念の為に確認は取っておくべきだろう。
「……女の敵。もとい学園の悪だ」
「ほう。詳しく聞こうじゃないか」
「生徒会の仕事だ……律には関係ない」
「てことは九ノ瀬だな。で、今度の名目はなんだ、治安維持か?」
「そんな感じだよ。私は言われた通りにあの男を粛正しただけだ」
その後蒼から聞き出した事の成り行きに少しだけ触れよう。
先に言っておくと惨状――男子生徒一人意識不明、机が四つ倒れて中身をぶちまけている――は全て生徒会執行部の長、つまるところの生徒会長様もとい、九ノ瀬渚が原因である。先日とある女子生徒(匿名希望)が生徒会に相談を持ち込み、それが蒼の言うところである『女の敵』、『学園の悪』の成敗に繋がったらしい。相談内容はプライバシー保護の観点から伏せられるが、断言してもいい、本当ならその女子生徒の相談がこのような結果をもたらすようなことはなかったはずだ。
九之瀬より命を受けた蒼は今朝方偶然にもターゲットを教室で発見したそうな。蒼は相談者の意思に則り話し合いに出ようとしたらしいが、相手は執拗に別の女子生徒に言い寄るばかりで聞く耳を持たなかった。この時点で相談内容が彼氏の浮気とか、付き合ってるのに他の女子に見境がない、とかそんなだろうと予想がつく。
困り果てた蒼だったが、程なくして男はちょっかいを掛けていた女子にそっぽを向かれてしまう。そこで次に男の獲物にされたのが蒼だった。蒼はことの次第を次のように語る。
「……胸を、触られた」
「……」
なんか色々端折り過ぎだろ。
「『なんだ、あんたよく見れば有名な蒼爽架さんじゃん。へえ、本物は結構可愛いんだな。どう? 俺と遊ばね? ゲヘヘヘへ』と言われた」
「最後のは嘘だろ」
「『なあ、いいだろ? ちょっとぐらい相手してくれよ、その豊満な肉体で』と続けられた」
「解ったもういい。続きは聞かなくても想像がつく」
バカな奴がいたものだ。蒼への禁止ワードを含む発言に飽きたらず身体的なコンプレックス――スタイルのよさが悩みだというのは些か世の女性達には妬ましいと思う――に文字通り触れてしまうとは。……死んでないだろうな。
「『うわっ、やべ、あんたそれ見た目よりあるんじゃ――って、おい……なにとりだしてんだよ? ちょっと待った危ないって! んなもん振り回さな――あぎゃあああああああああああ』と続く」
「だろうと思ったよ。得物はなんだ?」
「竹刀だ」
「生きてるよな?」
「……」
「おまえまさか……」
「手応えが……、あった」
「誰か救急車を!」
学園ミステリ――朝の教室に横たわる死体、とか冗談じゃ済まねえ!
俺が慌てて得物の竹刀を隠すように蒼に指示を出し、しかし凶器を抹消したとしても目撃者達が教室中に溢れ反っていることを発見する。不味い、逃げ場がない。こうなると最後の希望として被害者の生存に一縷の望みを託すしかなくなり――床に伏していた男を探して、その姿が消失していることに気が付いた。
「あ、あの……紘井くん?」
声を掛けられる。振り向くと話したこともないはずの女子が所在なさげにこちらを見ていた。話したことがないため声では解らなかったが、見覚えのある顔なのでどうやら同じクラスの女子のようだ。
「あの人だったら、さっき物凄い勢いで出て行ったよ」
「え、ああ、そっか。報告サンキュ」
胸を撫で下ろす。生きていた。安堵の息が破裂寸前にまで肺に溜まって、吐息。
「は、走る死体か!」
「違えよ。どんな学園七不思議だ」
蒼は完全に殺したと思い込んでいる。かなり動揺してるのが見てとれた。
「泣いてたよ。……号泣。ちょっと引いたかな」
「泣きながら走る死体か!」
「だから違うって」
まずは死体という設定を忘れないことには解決は望めなさそうだ。
「不味いぞ律! 奴を放置しておけば他の生徒に噛み付いてどんどん仲間を増やしていく! このままだとこの校舎は死者の城と化すぞ!」
「どこの生物災害だよ」
「……原因を作ってしまったのは私だ。奴は、私が止める」
「好きにすればいい」
「ああ。行ってくる」
「気を付けてな」
蒼は掃除用具入れに隠していた竹刀を取り出し、疾風のごとく加速して脱兎の勢いで教室を飛び出していった。ごめん、俺の手には負えない。うつ伏せで顔は見えなかったが、一度だけ見た背中を思い出して念仏を捧げる。彼の魂に救いあれ。
俺は蒼が散らかしたまま放置していった机を立て直し、中身を収納していく作業に移った。俺が蒼の暴走の処理をするのは不本意であるが、これもクラス内で定着してしまった役割だから仕方ない。なんと哀しき我が役回り。
不意に伸ばした手に誰かの指先が触れる。顔を上げる。さっきの女子だった。
「あ、ごめん」
「俺一人でやるから、座ってていいよ」
「ううん。蒼さん、わたしの為にこれひっくり返しちゃったから、手伝わなくちゃ」
どうも絡まれていた女子は彼女らしい。
「紘井くんさ、蒼さんに伝えておいてくれるかな」
片手に抱え込んだ教科書やノートの上に拾い上げた辞書を重ね、落ち着いた笑顔が言った。
「助けてくれてありがとう、て」