2/モーニング・イン・ブラックミスト
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誰かに名前を呼ばれている気がした。
そんな夢を見ていた気もする。
ぼんやりと眼に映る平面が自宅の天井だと認識に至るまでまばたき三回分。起床直後の妙に爽快な、それでいて朦朧とした思考回路をフル稼働して、俺はようやく自分が眠っていたことを自覚した。ということは今は朝か。目覚まし時計のアラームが鳴っていないから、時間はまだ陽が出て間もない頃だろう。
しかしこの時まだ俺の五感は満足に機能していなかった。
違和感に気付いた切欠は、欠伸と同時に咽返ったその瞬間。喉の奥に入り込んだ異質の気体を肺に流し込むまいと防衛反射から来た反応だった。続けざまに嗅覚が警戒サイレンを鳴らす。粘膜に絡みつく臭いが部屋中に満ちていた。そしてそれは炭素の焼ける臭いで、端的に表現するならば焦げ臭い。
それも、物凄く。
「嘘だろ……おい」
途端、急速に展開する記憶のビジョン。思い出すのは昨日の夜。眠ってしまう直前。
火の元は完全に絶ったはず。意識が眠り落ちている間に発火する要因など思い当たらない。それともなんだ。放火でもされたのか。あるいはお隣さんがまた馬鹿げた実験をやらかしたのか。いや待て。隣は今旅行中のはずだ。だとしたらさらに隣か。じゃなくて今はそれよりもまず――
タオルケットを蹴り上げて飛び起きる。簡易ベッドのスプリングが軋む音がした。
原因より先に今は逃げることが優先されるべきだ。発火箇所は――
「律ーーーっ!」
……。
…………。
誰かに名前を呼ばれてた気がした。
だから俺は。
全ての現実から逃避してもう一度眠ることを決めた。
タオルケットを被り直す。頭の上まで深く深く。
「え! あ、ちょっと、なんで寝るの! 無視!? 無視するつもり!」
うるさい。
「起きてよ律! 大変なんだって!」
やかましい。
「律ってば! 無視しないでよ! 無視は泥棒の始まりだよ!」
そうか、それははじめて聞いた。いい教訓になったところで羊を数えることにする。俺は数週間後には出荷されるだろうジンギスカン達の点呼に移った。羊が一匹、羊が二匹、羊が……
「……」
「……」
……羊が、二十七匹。
「律」
「……」
「解った。いい。律がホモだってこと校内中に言い触らしてやるんだから」
「嘘つきは泥棒の始まりです!」
堪らず声を荒げる。事実無根の噂が学校という世界の中でどれだけ威力を発揮するかをこいつは知らないのか。七十五日程度じゃ収まり切らない。しかも時間を掛けてあらぬ尾びれも付属されていくというから性質が悪い。
大音声に驚いたように遊季は眼を瞑り、それをゆっくりと開いて上目遣いに俺を見た。どうも本気で驚かせてしまったらしい。確かに、朝から出すような音量ではなかったかもしれない。
「……おはよう、遊季」
取り繕って平常を。頭にある全ての疑問や困惑を頓挫させて、俺は普段の態度に努めた。遊季の眼に弱い自分がいることを否定出来ない近頃の日々である。
「ええ? ……おはよ、律」
ぎこちなくも穏やかな笑顔が、漂う黒い煙の向こうに咲いた。
……。
黒い……煙。
「おい遊季、こりゃなんだ?」
「あ、そうだった。大変なんだよ律! 玉子焼きが焦げちゃったんだよ!」
涙目に訴える。と、同時に俺の耳に届いた重くて鈍い小規模な爆発音。部屋に流れる煙の量が倍になった。どんな玉子焼きを作ろうとしてたんだこいつは。本気で火事と勘違いしてしまうのも無理はないと思う。
「どうしよどうしよ! このままだと窒息しちゃうよ!」
「言いたいことは色々あるが……とりあえず、遊季」
沸々と湧き上がる憤怒の情に理性で制御を掛けつつも、震えるその声は地の底から這い出たような重たい響きで大気を振動させた。
「窓を、開けやがれこの野郎」
*
室内の換気を終えて一度落ち着きを迎えた朝の食卓。正確には折り畳みのテーブルに黒焦げになった玉子焼きの出来損ないを載せただけの悲惨な光景だが、そういえば少しましな画が想像されることだろう。
もはや備長炭のオブジェと言っても通じてしまいそうな状態になった物体を一瞥し、向かい側で所在なさげにしている遊季に言った。
「で、こいつはどういう状況だ。説明しろ」
「玉子焼きが焦げたんだよ」
「見りゃ解る」
「じゃあ訊かないでよ……ひっ、ご、ごめんなさい! そんな怖い顔しないで!」
現状を冗談程度に捉えていた遊季が怯えた様子で居住まいを正した。
「まず第一に、なんでおまえがここにいるんだ。俺の家だぞ、ここ」
家、といっても所詮アパートの一室に過ぎない。室数も外の廊下と直結した玄関混合のこの部屋ともう一つ物置ほどの面積しかない空間が一つあるだけだ。そんな狭い安部屋ながら、小さくて扱い難くも風呂とキッチンは設置されているから一人暮らしならさりとて不便はない。
「鍵が開いてたから」
キッチン横の唯一の出入り口である扉に眼を遣った。セキュリティ万全といわないまでも人の侵入を拒む強固な鍵が標準で備え付けられている。一年ほどの生活の中で、俺がこの扉の施錠を忘れたことはない。今だって通常の鍵に加えてチェーンまでしっかり掛かっていた。
どう考えても扉はウェルカムを示していない。
「嘘だな」
「ホントだよ!」
もし仮に、遊季のいう通り鍵が開いていたって不法侵入を許容する理由にはなり得ない。
びし、と遊季の指差す先に視点を変更する。それは俺が直前まで見ていた扉の隣、キッチンの正面に位置する壁に穿たれ、現在換気のために全開の窓だった。
「つまりおまえはあそこから入ってきたと」
「そうだよ」
「遊季」
「ん?」
「携帯取ってくれ、その辺にあるだろ」
「いいよ。何するの?」
「通報する」
「止めてえー!」
不法侵入者が飛び掛ってくるのを回避。既に受け取っていた携帯に番号を打ち込む。
さて、警察は何番だったかな。
無論冗談の域を出ない悪ふざけに過ぎないのだが、そこはそれ。遊季は全力で俺の手から携帯を奪い取ろうと奮闘中である。俺は動きを牽制する意図で突き出した手を遊季の額に当てて、しばしの間動きを拘束してその慌て振りを観察していた。
「ちょっと待った! 律、まずは話し合おうよ!」
「なにを話し合うことがある」
現行犯逮捕だ。
じたばたして腕を伸ばす遊季だが、どうもその手は目標に届きそうにない。
腕一本で完全に遊季を無力化した俺は脱力して部屋の掛け時計を確認する。二本の針が指し示す時刻は七時十分を少し越えた頃。お騒がせ小火事件もどきの後始末は思ったより時間を奪っていったらしい。既に制服を着込んでいる遊季と違って俺は洗面、食事、着替えなど全てがまだである。時間的にはそろそろ行動を起こさなければ遅刻の危険性も有り得る状況だ。
「遊季」
「ん? どうし――はぐっ!」
哀しいかな、俺と遊季ではリーチに差がある。遊季の手が俺に届かないとしても、俺の手は遊季に届いてしまう。俺は事件の副産物――原因でもある――を躊躇いなく遊季の口に押し込んだ。なに、死にはしない。と思う。……たぶん。
炭の塊を口一杯に頬張った遊季がのた打ち回る様子を横目に、俺は壁に吊るしてある制服に手を掛けた。