/えぴろーぐ
/after
一つ、この歳になって学ぶことがあった。それは人によっては一生知らないまま人生を終える者もいれば、円の面積を覚えるよりも早く学習する者だっているだろう。俺にとってその瞬間が訪れたのは十六の春だったということだ。
結論。徹夜とかはしない方がいい。これ重要。
頭がくらくらする。河原の一件の後で家に帰った頃には既に新聞配達も済まされ、ニュース番組なんかは出勤通学する誰かを見送る星座占いなんかを流していやがった。上ずった声のアナウンサーが最下位の星座を告げる頃、俺の意識は現実から乖離される寸前にあったのだが。
「おはよー! 律ー!」
二日酔いみたいな頭に響く高らかな声と共に、施錠を忘れていた部屋の扉が勢いよく開かれる。
双色遊季は、眩しい眩しい健康的なのに俺には毒にしかならない朝の日差しを引き連れてそこにいた。なにをしている。早く閉めろ溶ける。吸血鬼が日光を嫌う気持ちが少しだけ解った気がした。
「うっわぁ、すっごく眠そうだね。大丈夫?」
「……大丈夫に見えるのか?」
「うん。見えるよ、だって律だもん」
訳解らねえよ。
彼方に旅立とうとする意識をどうにか繋ぎ止め、時刻を確認。登校するにはまだ大分早い。運動部の朝練が始まろうとする時間帯だ。この分だと後一時間くらいの仮眠は取れるのだが、早朝の来訪者はそれを許してくれそうにない。
「朝ごはんまだだよね? それじゃあ僕が作ってあげるよ。僕もまだ食べてないから、いっしょに食べよっ」
「頼む。じっとしててくれ。そして黙っててくれ。…………朝飯、俺が作るから」
決定。
本日の授業、半分は睡眠。
そんな訳で簡易な朝食を作った俺は、乱雑に皿に盛り付けたそれを味わうこともなく胃袋に流し込み、ものの数分で食事を終えた。やばい、喰ったら余計に眠い。しかも体の関節という関節が痛む。このコンディションを満身創痍と言わずしてなんと言う。休んでもいいんじゃないのか、これ。
「ダメだよ」
「何故だ……」
「だって律は僕といっしょに学校に行くんだからっ」
「…………」
不思議と一蹴してやる気にはなれなかったから、仕方ない、今朝も元気に登校するとしよう。
……ふざけんな。
弁当まで作っている体力は流石に残されていなかったので、朝食に使用した食器類もそのまま放置。気が付けばデッドラインが迫っていた。休む暇もなく靴を履いて外に出る。久しぶりに朝日。目を開けてるのが非常に辛い。欠伸も止まらない。……俺、歩きながら寝ちまうんじゃないかな。
「ねえ、律」
頭上を旋回する睡魔の笑い声に混じって楽しそうな遊季の声。
「手、繋いで行こっか」
それを言ったときの遊季の笑った顔の方が、睡魔なんかよりずっと小悪魔染みていた。
踊るように舞うように、くるくる回って前に出る。
「ね? ほら」
「……遠慮しとくよ」
昨日の今日で早速誰かの手を借りるのもどうだろう。こんな状態だって通学路くらい一人で歩ける。居眠り歩行で事故を起こさない自信はないのだが。……それでも安心した。遊季も、誰かの手を引くことができるようになったのだな、と。
そんな、自分の保護者みたいな感想に苦笑する俺だった。
……意地でも辿り着いてやる。と、決意から数分後のこと。高校に到達した俺は椅子に座るなり電池が切れたようにばたりと机に突っ伏した。驚くほど簡単に意識が落ちていく。闇に溶ける感覚。放課後までに起きられたら上出来だ。
「そんなわけで、午前の授業のノートを貸してくれ」
朝のショートホームルームから四時限まですっ飛ばして、目覚めは昼休みに入ってからのことになる。ここまで熟睡したのは初めてのことだ。授業を担当する教師が誰一人俺を起こさなかったのには感謝するばかりである。
死者の蘇生を目撃したかのような表情で駆け寄ってきた蒼に、俺はそれを依頼した。
「断る」
が、何故かあっさりと拒絶される始末。
「なんでだよ」
「私が授業中頑張って映していたノートを、どうして居眠りなんてしていた奴に貸さなくてはいけないんだ。それではまるで、私の努力がとても軽いもののようじゃないか。そんなのは嫌だ」
もっともなことを仰る。
「頼む、この通りだ。ノートを貸してください。お願いします」
「急に畏まられても困るんだけどな。……まあいいよ、貸してやらんこともない」
そっと差し出されるノート四冊。貸さないと言っていた割りに、初めからそれらを持っていた蒼はやっぱり俺の知っている蒼だ。これだからこいつといるのは止められない。
礼を言ってありがたくノートを受け取ろうとすると、しかし蒼の手からそれを抜き取ることができなかった。いくら引いても抜けない。どういうつもりだ。
「実は今度の日曜、偶然にも私のスケジュールはぽっかりと開いているんだ」
「それが?」
「……だから、その」
ぐい、とノートを引く。蒼は顔を背けるようにして、
「どこかに、遊びにいかないか?」
こいつにしては珍しく聞き取りずらい声で、
「お弁当、私が作っていくから」
その言葉で、俺の日曜の予定は決定されるのであった。だって仕方ないだろう。こう見えてもこの侍少女は料理が滅茶苦茶上手いのだ。それはもう、高級料亭並みに。強い女の子は、剣の腕だけでなく料理の腕も立つ。無敵じゃねえか。
蒼に借りたノートを写す作業は生徒会室で行うことにした。
当然そこには九ノ瀬もいて、頬に絆創膏なんかを貼っている。昨日この場所で殴り合ってから今まで、まだ口を利いていない。子供染みた喧嘩の雰囲気に浸るのも悪くないが、それはやはり俺達らしくはないだろうと思う。同じことを考えたのか、話題を先に持ち出したのは九ノ瀬だった。
「おまえ、いい加減生徒会に入ったらどうなんだよ」
いい加減というなら、こいつこそだ。
何度頼まれたって俺は生徒会なんぞに名を連ねるつもりはない。
「そういうなよ。いいじゃねえか、お互いに固い友情を確かめ合ったことだし。ここらで一線を超えてみないか律?」
「おまえ、自分の言ってること紙に書いてみろ。多分体中から変な汗が染み出てくるぜ」
そんな冗談に笑い合う午後。平和過ぎる生徒会室。
厳密にいうと平和なのは俺だけで、九ノ瀬は滞納し続けた雑用(書類整理とか、そんなの)に追われている。闘争中で逃走中だ。しかしそれも自業自得。俺は親友の苦しむ姿を温かい目で見守るとしよう。どんな困難も己で乗り越えてこそ価値があるのだ。
「なあ九ノ瀬、おまえなんで生徒会長なんてやろうと思ったんだ?」
暇なので訊いてみる。ちなみに暇を潰す為に話をするのが目的ではなく、この場合は話をすることで九ノ瀬の作業を妨害することこそが暇潰しだ。そんな俺の目論みを知ってか知らずか、寛大な生徒会長殿は律儀にも顔を上げて対応してくれた。
「簡単なことじゃねえか、この学校の女子全員を俺の支配下に置く為だ。俺という存在を校内に知らしめることで餌場……健全な男女付き合いの輪を広げようと思ったわけだよ」
本気なのかそうでないのか。
どっちでもいいことだが、真相は予想がつく。何にせよ、俺はこの馬鹿な男と十年間幼馴染みとやらをやっているのだから。ちなみに九ノ瀬の目的が先の通りならば、それは結構成功を収めている。一年のとある時期にはハ又の噂すら流れたことがあったくらいだ。大蛇か。
「なあ、律。本っ当に入る気はないのかよ。おまえほどの奴を野に放っておくのは惜しい」
「意味違うからな。……何回でも言うが、俺はおまえの下で働く気なんてない。雑用が面倒ならおまえこそ会長なんて辞めちまえ。楽になれる」
「自分から引き受けた仕事を、中途半端で放り出せるかよ」
責任感が強いのか、そうでないのか。
九ノ瀬はシャーペンの芯をかちゃかちゃ言わせながら不敵に口元を吊り上げ、
「まあ、そう言ってられるのも今の内だと思えよ」
意味深なことを、予言みたいに述べた。
俺が九ノ瀬の言葉の真意を知ることになったのは放課後のことである。
生徒会室は多分まだ雑務書類の山に埋もれているだろうから、さっさと帰宅してしまおうと校舎を出た俺は、校門のところで思わぬ人物と遭遇した。誰あろう、朱空末那だ。いつかのように門に凭れ掛かって靴底でタップを刻んでいた。
「遅い! このバカ!」
「……いや、遅いとか言われても」
つうか俺を待っている理由が解らない。
「ったく、人を待たせることに関しては超一流よね、あんたって」
「お褒めに与り光栄だよ。……って、なにしやがる!?」
がっちりと腕をホールド。
「任意同行よ」
「誰の任意を得たつもりだ」
「うっさい! 黙ってついてくる!」
最終的にこうなるのか。半ば諦めて引き摺られていく俺。そこ、笑うな。憐憫の視線が四方八方から突き刺さる串刺し状態だ。これは中々に辛い。
「あたし、生徒会入ることにしたのよ」
そういえば段々足取りが旧館に向っているような気はしていたが。
「好きにすればいいだろ」
「あんたも入るの」
どうにも、冗談では収まりきらない事態が起きているらしい。九ノ瀬の言っていたのはつまりこういうことだったのか。この拉致まがいが生徒会のすることかよ。あんな男に何故信任投票が集まるのか、公正取引委員会か選挙管理委員会に贈賄でもしたんじゃないだろうな。
「嫌なの、律?」
「…………」
そんな顔をして訊かないで欲しい。
生徒会室のある休館がすぐ近くに見える。朱空は立ち止まって、荷物よろしく片手で引いていた俺を振り返り不安気な顔を見せた。……卑怯者め。
「解ったよ」
不本意ではあるが止むを得ない。朱空に夢の続きを約束したのは俺だから。……本当に、発言には気を付けないと。
ともあれ、世界は今日も廻る。立ち止まることなく季節は流れて時は過ぎていく。残酷なまでに、無情なほどに、果たしなく、忙しなく、止めどなく。さあ、今日もこの世界を満喫しよう。囲われていて閉じたこの箱庭の中で、大切な思い出と大切な人達。今はまだなくしてしまうのが怖いから、同じ場所に留まっていたいと思う。世界を吹き渡る風が夕凪に休むように。時には脚を止めてもいいと、教えてくれた笑顔に追い付くために。今は遠くても、いつか、その輝きに辿り着けると信じて。
「――よろしくな、マナ」
精一杯胸を張って、今日に強く笑っていよう。
(fin)