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6/箱庭の夢

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 例えば大切なものを大切にし続けることと、それを放棄すること。人にとって困難で苦しい選択はどっちなのだろう。ある一つの信念や理念を持ち続けること。或いは信じ続けてきた理想や夢想を捨て去ること。それはどちらも必要なことで、同じくらいに難しいことだと思う。

 けれど選ばなければならないとしたら。

 好きだったものを好きでい続けること。大切な物を大切に思い続けること。自分が自分で在り続けることは実はとても難しくて勇気のいることだ。だから人は挫折して、妥協して変わっていく。色褪せ、風化し、それでも自分であろうとするから傷つく。

 俺はどうだろう。

 双色紗季という少女が好きだった少年。自分にはない強さに憧れて、それを綺麗だと感じた心が彼にはまだ微かでも残っているだろうか。それを問われれば胸を張って肯定することはできない。

 だから俺は、十年間も一つの約束を信じ続けた彼女を素直に尊いと思う。

 今でもまだいつかの夕焼けを原風景に、忘れずに大切に想い続ける少女。

「…………なにしてんのよ」

 深淵な闇が漂う深夜。……というか既に現在時刻は早朝といった方が正しいかもしれない。空はまだ暗いし月も星も出てはいるが、遠くでは既に太陽が昇り始めている。と、いうことは。俺がここに来てから、かれこれ四分の一日ほどの時間が経過しようとしているわけだ。

 だがどうやらその甲斐はあったらしい。

「よ、待ってたぜ朱空」

 場所は河原の土手。

 朱空末那の指定座席に座って、俺はその少女が現れるときを待っていた。途中で何時間か眠っていたかもしれないが。

「待ってたじゃないわよ!」

 声を張り上げて、眉を怒らせ大股で歩いてくる。

「いつまでそんなことしてるのかと思ったら、夜中ずっと座り込んじゃって……風邪でも引いたらどうするつもりよこのバカ!」

 なんだ、ばれてたのか。

「信じられない……。なんでそうまでするの。あたしが、ここにくる保証なんてないのに。なんで『待ってた』なんて言えるのよ」

「おまえだって同じじゃねえかよ。おまえもずっと待ってるんだろ、ここで」

 それに比べれば一晩程度など待ったということすらおこがましい。

「……あたしとあんたは違うでしょ」

「そうだな、俺達は違う。おまえは待たされたんだろうけど、俺は自分で勝手に待ってたんだからな」

「あたしは、そういうことを言ってんじゃないのよ」

「そうかい。まあ、何でもいいだろ。おまえは実際にここに来た。待ってた俺は報われたんだからそれでいいよ。ありがとう、朱空。まだ、ここにいてくれて。いなくならないでいてくれて」

 心からの感謝を告げる。よかった。手遅れじゃない。

 朱空はここにいるし、俺は素直にそのことを嬉しいと思える。救えないなんて、諦めるのは早かった。紗季の言うとおり、俺はまだ大丈夫。だから動けるなら、走り続けるなら精々貫いてみせよう。こんな俺の隣にいてくれる人の為に。

「なにを言い出すのよあんたは……!」

 朱空は、街灯の下で赤くなっていた。

「べ、別にあんたに会うために来たわけじゃないわよ! 習慣だったから、散歩気分で立ち寄っただけよ!」

 何だって構わない。

「朱空、おまえ言ってたよな。昔の夢を覚えていられるかって。はっきり言って、俺は覚えてられない。多分、目が覚めてから三十分もしない内に忘れちまう。だから、おまえは凄いよ」

 大切なものをずっと大切にしていられるってことは、とても強いことだから。始まりの想いを持ち続けることは苦しい。汚れのない理想は自分を傷付ける。その痛みに耐えてきた少女が、朱空末那だった。

 朱空は自分が変わらないと言った。

 自分の世界は囲われた箱庭。閉じた箱の中で永遠に夜を繰り返す世界。終わりのない夢。明けない夜。平凡に憧れた少女の求めた幸福な日常。

 かつてこの場所で泣いていた少女がいた。

 儚くて眩しい、消えてしまいそうな少女の姿を見て、俺は咄嗟に手を伸ばした。別に特別な感情があったわけではない。その姿が、夕凪に映える少女があまりに綺麗だったから触れてみたいと思っただけ。そこには打算も目的もなくて、これを一目惚れと呼ぶのならそれも間違いではない。

 ――たすけて。

 声が聞こえた気がした。本当に少女がそれを言ったのかは解らない。

 ――誰か、たすけてよ。

 だけど確かに泣き声は聞こえていた。顔を上げずに肩を震わせる少女が同じ言葉を繰り返す。少年は……俺はその姿に戸惑ってすぐには声を掛けられなかった。まるですぐそこにいるのに、二人の間には壁があるように思えて。境界線が世界を隔てているような錯覚が臆病にした。けれど、泣いている少女は確かに救済を望んでいると、何度も反復される言葉で解ったから。

 ――どうしたの?

 意を決してそう尋ねた。だから先に声を掛けたのは本当の意味で少女の方だったのかもしれない。俺は自分とは違う世界に少女がいるみたいに感じて声が出せなかった。

 ――怖いの。

 顔を上げずに少女は言った。

 ――一人ぼっちが怖いの。あたしは、どこにいていいのか解らないのが怖い。

 怖い怖いと震える小さな姿。

 ――あたしはここにいるのに、誰も見てくれない。話も聞いてもらえないし、遊んでももらえない。一人は怖いよ。せっかく、外に出てきたのに……どこにも、あたしの居場所が見つからないよ……。

 俺にはそのとき、少女が何を言っているのかよく解らなかった。自分の居場所が解らない。それが怖い。そればかり何度も泣きながら口にする少女に何と声を掛けたらいいだろう。どうすれば顔を上げてくれるのか、それを考えて。

 ――大丈夫だよ。

 思い出した。自分が泣くのを止めた日のことを。自分を救ってくれたその言葉を真似る。

 ――ここにいるから。君は一人じゃないから。

 言ってから恥ずかしくなる。自分の言葉ではないそれを口にすることには若干の抵抗と羞恥が含まれていた。

 ――なんていうか……よく解らないけど、一人ぼっちなんてことはねえよ。

 言いたいことはあるのに上手く言葉にして伝えられない。歯痒い気持ちで俺は言った。

 ――いっしょに行こうぜ。一人なんだったら俺達がいてやるから、だからさ、もう泣くなよ。

 果たして、少女はゆっくりと顔を上げた。一体どれくらいの間そうしていたのか、大きな瞳は赤く充血しかかっている。だというのに、俺は涙で濡れて赤くなった目の少女がどうしようもなく綺麗に見えた。夕焼けに赤く染められる肌も、涙で濁ることもない黒い瞳も。この瞬間を忘れたくなかった。いつまでも続けばいいと願った。

 ――本当に?

 小さく鼻を啜る。

 ――本当に、いっしょにいてくれるの?

 その表情を覚えている。

 泣き疲れて赤くなり始めた目も、涙に濡れた頬も。この瞬間全ては茜色に染められて。

 少女は、何故かとても安堵したような表情をしていた。欣喜を抱いて、まるで誰かに救われたように幸せそうな。世界を見詰める瞳に取り込まれそうになりながら、その瞬間を忘れない為に一度瞼を閉じた。

 手を差し出して、少女の体を引き上げる。行こう、みんなが待つ場所に。

 手を繋いで走った。少年は少女の手を握り、夕暮れに染まった河原の土手を駆けていく。確かに通じ合う体温は、こうして二人が同じ場所にいることの証明だった。

 今、この世界は二人だけのもの。

 黄昏を吹き抜ける風も、流れていく薄い雲も、赤い空を突き抜ける白い飛行機雲も追い越して。一番星よりも明るく、夕焼けよりも綺麗で淡い、それは一瞬の輝き。全てが相まって、今を尊いと感じてしまったから。

 走る早さで涙は、乾くと思っていた。そうすれば彼女が笑ってくれると信じた。手を握る力を強くすると、応えるように少女もさらに強い力で握り返してくれる。

 もしも願いが叶うなら、

 どうか――この一瞬が永遠でありますように。

 この願いが、二人同じであることを夕凪に望んだ。

「朱空おまえ、俺達は違う世界にいるんだって言ってたよな。そうかもしれない。結局人間なんてみんな自分の世界に閉じ籠って生きてるんだ。壁で囲って蓋をして。平和な箱庭の完成だ」

 世はなべてこともなし。平和で平穏な自分一人の世界。専用の箱庭。

「でもさ、そんなんじゃつまらないだろ。閉鎖するだけで誰とも関わらないなんて孤独は、悲しいだけだ。そんなものは平和でも平穏でもなくてただの虚無じゃねえか」

「……なにが、言いたいのよ」

「出てこいよ、朱空。おまえも箱庭から」

「それができるなら苦労しないのよ。あたしはあんたとは違う。あたしは自分の箱庭から出るのが怖いのよ! 外の世界を知らないから、大き過ぎる世界に置き去りにされるのが怖いの……!」

 憤っているのか、怯えているのか。朱空は、まるであの日を再生するように怖いと連呼する。違うことはその表情が泣き顔ではないこと。強がって憤慨する少女の表情。朱空は腕で宙を薙ぎ、叫ぶように怒声を響かせる。

「あたしは、何にもできないのよ……! 箱庭から逃げ出すこともできないのに、その癖、また外に出たいなんて思ってて。本当は約束なんて気にしてなかった。それがあるから世界でも孤独じゃないってしがみついてただけ。また会いたいって思いながら諦めてた。……十年前の日があたしの夢の始まり。それが全てなの。二度目の夢は、これでお仕舞い。お願い、律。今ならまだ、あたしはこの夢を大切に思えるから……目が覚めた後も想い出にして好きなままでいられるから。だからもう、これ以上は止めてよ。ずっとここにいたいなんて、思わせないでよ……!」

 朱空は、強がりの仮面を外そうとしなかった。泣きたいのを我慢しているのが容易に見て取れる。肩は小刻みに振動を続け、けれどその顔を俯くことなくこちらを見据えている。

 その真っ直ぐな瞳に決意した。

「断る。おまえの夢でも、もうそこには色んなものを巻き込んでるんだよ。勝手に終わらせるな」

 そう言って俺は、有無を言わさず朱空の手を取った。突然の出来事に動揺しているのは明らか。面喰らったように口をぽかんと開く朱空を引っ張って、土手を駆け降りる。さながらその姿は、あの夕凪にいたいつかの少年と少女のよう。

「離しなさいよ! もういいから! 全部諦めるから……! あたしは箱庭の中で一人だけでいい! あんたなんかにいっしょにいて欲しくないのよ……!」

 廻る夢。

 この今は朱空にとって夢だという。叶うはずもない、求め焦がれて憧れる幸福な平穏の世界。箱庭少女は眠っている。寂しい箱庭の中で一人、夜が明けるのを待って。

「お願いだから……! これ以上止めてよ! ……嫌だよ。これ以上はもう嫌だよ……! こんな、こんなの……なくなっちゃうのに。夢の続きは見れないから、完結させないとダメなのに……! まだ、終わって欲しくないって。もっと(ココ)にいたいって。思っちゃうから……!」

 必死に振りほどこうと腕を暴れさせる朱空。それを離さないように強く握り締める。スピードを落とさず全力で走った。


「――律と、いっしょにいたいって、思っちゃうから……!」


 夢の終わりが悲しいなら、終わらせなければいい。俺はただ、彼女が見るこの夢がせめて人並みに幸福であって欲しいと願うから、こんな形で終わらせるわけにはいかなかった。

 そうだ、終わらせたくない。また明日と言った俺を待ち続けてくれた少女の十年間が、その長い夢が報われず、目覚めた後に消える泡沫に変わってしまう前に言っておかないと。彼女の箱庭が――孤独な夢で汚されないように。せめて目が覚めるまでは。

「思えばいいじゃねえか。これが夢だって言うなら、目が覚めたときそこにいてやる。おまえを一人にしないから。絶対だ。箱庭の中から、おまえを連れ出しに行く」

「……無理だよ、そんなの」

「無理じゃねえよ」

「無理だよ……! あたしは、律とは違うのよ! あたしにはこの箱庭しかないの!」

 頑なに否定する癖に、朱空はもうその手を離そうとはしていなかった。その繋がりが、イマ二人が同じ場所にいる証。通じ合う温もりは本物だから、これが夢であるはずなんてない。箱庭少女の見る夢が、その願いが確かにここにあったから、

「――ごめんな、ずっと待たせてて」

 俺は、ようやくその言葉を口にした。

「え……?」

 手を引いて走っている以上、前を行くのは俺である。だから朱空がどのような顔をしてそれを受け止めたのかは解らない。声色から察するに唖然としているだろう。それでいいし、その方がいい。直ぐに意味を気取られてはこの先が気恥ずかしくなる。

 急停止して平地で立ち止まる。少々ハードな運動に上がる呼吸、加速する鼓動。吐き出す息の白さに驚いた。

 水面が黄金に似た朝焼けに輝く。黎明の空の下で振り返る。俺は呼吸を整えて、向き合った朱空に言う。もう迷いなどなかった。

「一人きりだなんてことはないんだよ。おまえはもう、ここにいるんだ。それが夢だというなら、俺が覚まさせてやる。――夢の終わったその先で、同じ現実で迎えてやる」

 だからもう、

「泣かなくていいんだよ、朱空。おまえは一人じゃないから」

 朝日に落ちる大粒の雫。それを拾ってやることができるのは、今この場では俺以外にはいない。なら俺がそれをしないと。ずっと夢を見ていた箱庭少女が――幻想の夜に彷徨わないように、明ける朝を笑って迎えられるように――。

「……いいの? 信じても。もう、あたしは待てないよ」

「もう十分に待っただろ。終わりだよ。永遠の夢なんてない」

 空はとっくに晴れていた。黄金が地平線から世界を染め上げる。

 その光に後押しされているように歩き出した。

 小さな歩幅はやがて大きくなっていき、黒髪が靡くほどにその体が加速する。

「……ないんだから」

 たん、と踏み切った。

 翻るから体。俺は瞬間的に何が起こったのか理解が遅れるまま、こめかみに衝撃を覚える。横殴りの暴風雨みたいな回し蹴りが直撃していた。なんのつもりだこの野郎。ここはそんな場面じゃねえだろ。そう思いながら踏み止まり、流星群みたいに閃く苦情を投げつけようとして、

「――――絶対……ありがとうだなんて言って上げないんだからっ……!」

 その、暁よりもずっと綺麗な箱庭少女の笑顔に、何も言えず閉口して苦笑する俺がいた。

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