6/二人の色
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陽が傾き始めて久しい夕刻の終わりに、俺はその場所に辿り着いた。まだ夕方と呼べる時間で助かったと思う。流石に夜になってからこんな場所に来たいなんて思わない。そんな悪ふざけは小学生で卒業したつもりだ。
並び立つ墓石が西陽に照らされて赤く光沢を放つ。つまるところ俺は現在墓地なんぞにやってきていた。
平日の夕暮れと言うこともあり、またシーズン的に見ても人気がほとんど皆無なのは当然だろう。虫の声もなければ風の音もない。夜の前の静寂が広がっていた。そして、俺はその後ろ姿に目を止める。この場に居合わせるのは二人だけ。
俺と、双色遊季だった。
「本当はね、僕は寂しかっただけなんだ。律を恨むことなんて意味がないんだってことぐらい解ってた」
声をかけるまでもなく俺が後ろにいることを遊季が察する。姉、双色紗季の墓石を前に屈み込んで、こちらを振り返らない。
「だけど誰かのせいにしないと耐えられなかったんだ……。僕は、お姉ちゃんを失ったことをどうしても認めたくなかったから。せめて律にはずっと覚えていて欲しいと思った。お姉ちゃんが好きになった律にだけは、お姉ちゃんのことを忘れて欲しくなかった」
だから。
「僕は、双色紗季になろうと思った。律がいつまでもお姉ちゃんの存在を忘れないように。ささやかな復讐のつもりで、呪いにでもなった気分で。紗季お姉ちゃんになることを、僕は選んだ。お姉ちゃんの想いが生き続けられるように――律を好きになるように、律に好きになってもらえるように。それだけがお姉ちゃんの報われる道だと思ったから」
淡々と溢す。
かさりと遊季の髪が揺れた。紗季になろうとした、そのまだ彼女には届かない程度の長髪。
「だけど、ダメなんだよね、それじゃあ。僕はお姉ちゃんじゃないし、お姉ちゃんにはなれない。その気持ちを背負うことで少しは近付けるかと思ってた。でもそれは逆効果で、僕の中の双色紗季は軽薄になっていくだけだった。……だって、おかしいよね。でも仕方ないんだ本当のことだから」
一呼吸の間を置いて、
「お姉ちゃんのキモチだと思ってた。律を好きなのは紗季お姉ちゃんだって。なのに、なのにどうして僕は――」
その続きを、遊季は言わなかった。ゆっくりと立ち上がる。落日を背にして振り返った遊季は笑っていて、その表情がいつかの少女と重なった。琥珀色の瞳。二人に共通した色。鏡写しであって異ならない、姉弟の繋がり。
「……ごめんね。はじめから八つ当たりだったんだよ、こんなのは。本当に忘れようとしてたのは僕の方だったんだ。それが怖かった。僕の中でお姉ちゃんがいなくなっちゃったら、僕は一人ぼっちだから。同じ想いを持つことでお姉ちゃんになれると思ってたけれど、ダメだった。そのことが余計に僕からお姉ちゃんを遠ざけて、余計に、怖くなった」
誰かが誰かの代わりになんてなることはできない。遊季は遊季であって紗季ではないのだから、紗季に近付けば近付くほどに遠くなるのは当然だった。彼女に憧れて彼女になろうとしてもそれは、憧憬が作り出した偽りの自分。誰かの贋作で、空虚で無価値な偶像でしかない。けれどその在り方を誰が否定できるだろう。自分にはない強さが綺麗だった。美しいと思ったから。手が届かないと解っていても憧れた。
叶わない夢だとしても、それを追いかける過程は決して価値のないことじゃないはずだから。走り続ければいつか、答えは必ず手に入ると信じ続けていたから。見失いかけていたけれど、歪な理想を持ち続けた。
何度破綻してもまた、始まりの記憶を礎にして立ち上がれるなら。立ち止まっても良かったんだ。
そのことを俺は、教えて貰った。
もう十分に休んだから――そろそろまた、走り出すときだ。
「俺は、紗季が好きだったよ。本当にそれだけは間違いなく。けれど、確かにそれは過去のことなんだ。今の俺がまだあの日と同じ想いを持っているかっていったら、そんなことはない」
どんなものも時間の流れで色褪せ、風化していく。なくならないものなんてない。だからこそ、その一瞬を消してしまわないよう大事にするんだ。俺の後悔は紗季に想いを伝えられなかったこと。俺を好きだと言ってくれた彼女への答えを置き去りにしてきたことが――ただ一つだけの心残り。
今また同じように紗季を好きになることはきっとできない。それが、後悔。間違いだった。
「でも悔やんだってしかたのないことだとも思ってる。俺にできることはいつまでもそれを引き摺って生きていくんじゃなくて、大切だった想い出を背負って前に進むことなんだ。紗季が好きだった記憶も。紗季を失った悲しみも全部。事実だから、目を背けず前に進む。そうすることが紗季に対してできる、せめてもの償いだと俺は信じてる」
いつまでも同じ場所にはいられない。廻り廻ってまた会えるなら、仮にそのことを望むなら、走り続けなくてはそれが訪れることはない。始まりの場所に還るのは、またいつか遠い日。輪廻の果てであろうと邂逅が許されるなら走り続けよう。いつか必ず戻ってくるために。そうして改めて拾っていこう。蔑ろにしてきた想いや傷痕を一つ一つ大切に。
その道標が今。
確かな足跡を刻んで、歩き出す。
「律は、強いね。僕はそんな風に考えられないよ。すぐ誰かに依存して手を引いてもらうことばっかり考えちゃうんだ。……嗚呼、そっか。僕はお姉ちゃんになりたかったんじゃないんだ。お姉ちゃんがまだ僕の中にいるんだって思うことを、拠り所にしていたかっただけなんだね」
双色遊季にとって双色紗季は自らの反面。
足りないものを補う、鏡写しの自分自身。
遊季は確かに紗季に依存していた部分があっただろう。その遊季が紗季になろうとしたのは、紗季のことを忘れたくなかったからと言った。だけど、そう言った遊季本人が一番よく解っていたはずだ。遊季では紗季の代わりなど勤まるはずがない。他の誰であってもそれは同じだが、遊季では特に。遊季と紗季は反面同士なのだから。
紗季が遊季を補い、遊季が紗季を補う。その在り方を、一人で体現することなんでできない。
「……でも」
遊季の声が震えている。琥珀色の瞳が溢れ出しそうな涙を塞き止め、拳を固く握り、遊季は叫ぶ。
「どうすればいいのか解らないよ! お姉ちゃんがいないと、僕はダメなんだよ……! なのに……なのに……! 僕の中からお姉ちゃんはどんどん薄れていっちゃうんだよ……! 嫌なのに。大好きなのに。忘れたくないのに。……だから、僕は律に自分と同じことを強要してた。戒めなんて言って、本当はただ律に縋ってただけだった。……ごめんね、我侭言って。でも僕は、そうしないと僕は――」
破綻してしまうから。
そんなこと、謝られるようなことじゃない。
「……怖くて怖くて。震えて泣きたくて。紗季お姉ちゃんの想いと面影で律を縛ってた。……だけど律も、お姉ちゃんのこと、忘れかけてたから。ねえ律本当はね、あの日、河原には僕もいたんだよ。お姉ちゃんの月命日のあの日の夜にさ」
その告白には、正直驚いた。だがその裏腹で納得のいっている自分もいる。
一週間前。俺が河原で朱空と会った日。
星空の下で騒いでいた姿を、遊季が見ていたとしたら。あの投書の異常性にも理解が利く。朱空末那に近づくな。そんな悪辣なメッセージを寄越してまで俺と朱空を遠ざけようとした理由が、俺が紗季よりも朱空を優先したのだと思ったというものなら納得がいく。
そう、原因は俺だ。
被害者面なんてしてはならない。俺は、誰にとっても加害者なんだ。
遊季から紗季という拠り所を奪ったのも俺であったなら、朱空から世界を奪ったのも俺。全部、償えることじゃなくて、挙句の果てには逃げ出そうとまでした。実際、蒼や九ノ瀬がいなければ迷わず逃避を選んでいただろう。
だがそれじゃあいけない。
罪を犯したのなら相応の何かで償わないと。それが、自己満足でも構わない。
「俺が、拠り所になる」
遊季の瞳を見据えて、
「紗季の代わりになんてなれないけど、それでも、俺がおまえの支えになるから。だから、もう紗季の背中を追いかけるのは止めろ。認めなくちゃいけないんだ。紗季は、前にはいない。後ろにしかいないんだ。ちゃんと前を見て、いっしょに行こう」
「……解らないよ。見えないよ何も。どこに行けばいいのかなんて、解らないよ」
「だったら俺が連れてってやる。どこに辿り着くかなんて解らないけど、そこには必ず俺がいてやる」
それに、蒼と九ノ瀬も。同じ場所でまた、笑っていられるから。
「僕は、弱いよ。お姉ちゃんみたいに、みんなを笑わせて上げられないよ」
「気にするな。俺達はおまえがそこにいればそれでいいよ」
「直ぐに泣くよ。すぐに逸れちゃうよ。すぐに迷子になって、みんなに迷惑掛けてばっかりだよ」
「だったらもう手を離すな。ずっといっしょにいればいい。――おまえの弱さも、何もかも全部含めて。俺達は双色遊季が好きだから、誰も見捨てたりしない」
「僕は……いいの、律? 僕は、お姉ちゃんじゃないよ。律が悲しいとき、励まして上げられないよ?」
「知ってる。おまえは遊季だ。だから、大切なんだよ」
「……律、僕は。僕は……」
頬を伝う、その雫。
飛び散る光の雫。夕陽が反射して煌く涙。
「傍にいたいよ……! みんなといっしょにいたいよ! ……ごめん。ごめんね、律。こんな、我侭ばっかりの僕なのに。いっぱい、苦しませちゃったのに……。それでも、傍にいてくれるなら――」
子供のように泣きじゃくる顔は、憑き物が落ちたようで偽るものも装うものもない。これが双色遊季の弱さ。その弱さも愛しいと思う。仲のいい姉弟。いつか二人が同じ顔で笑えるように。紗季のように、強く笑っていられるまで。ここにいて、隣で同じときを過ごしたい。
右の瞳から流れていた涙が、左からも溢れ出す。
感情の顕れ。双色遊季が溜め込んでいたものが落ちていく。それは大切な思い出であったり、未練であったり、憧憬だったり、恋情だったりするかもしれない。ただ一つ解ることは、その涙がきっと遊季を強くしてくれるだろうということ。
風に木々がざわめく声を上げ、
「……ありがとう、律」
世界の喧騒の中で、その声はまるで、遊季ではないみたいだった。
涙を流しながら微笑むその姿が想い出の景色と重なる。夕焼け。世界はもう直ぐ夜。宵闇に沈む橙色を従え、それはまるで季節が移り変わるように自然と表れた。足取りを確かに、小さな体が歩み寄る。
「ごめんね。ずっと苦しませちゃって」
「…………遊、季?」
確信のない声で名前を呼ぶと、か細い指が唇に触れた。何も言わなくていい、そんな意思表示。涙の滴る片目を閉じて、残る琥珀色が言葉ではなく理屈ではなく、静かに語る。
「安心した。強くなったんだね、律。これでもう一人でだってどこにでも行けるね」
強く優しく微笑んで。その顔が、ある少年が憧れた少女の表情を湛える。
「初めて会ったとき。律は凄く歪だった。触れてしまったら壊れてしまいそうなくらい、脆くて弱いのに。意地っ張りで、強がりで。道も解らないのに先走るような男の子だった。一人でどこかに行ってしまおうとするばかりで、先を急ぐばかりで」
でも今は、それでいいんだよ。
涙に濡れた笑顔。
「立ち止まらないで。躓くこともあると思うけど、転んでも隣にはみんながいるから。爽架も渚も、遊季もいるよ。迷わなくてもいいから、前に進んで。みんな――真っ直ぐなあなたが好きだから」
夢の中にいるようだと思った。それぐらい、その笑顔は綺麗だったから。語る琥珀色はやはり彼女のイロ。眩しくて憧れた輝きはその瞬間、確かに。
そこにいるのは、彼女と同じものだった。
もう二度と、その貌を見ることはないと思っていた。胸の中にしまって、未練を断ち切ったつもりでいたというのに。いざそれを前にすることで、どこか自分の中にあった何かが弾ける。
思い出す、最後の光景。
紗季が最後に伝えようとしてくれた言葉。形にならなかったそれが、どうしても思い出せなかった紗季の意思が不意に脳裏に過ぎる。
「優し過ぎるあなたが壊れてしまわないように、辛いときはここにいるから思い出して」
強く微笑む少女の姿が瞼の裏に浮かんだ。
「――――忘れないで」
強く肩を寄せる。俺がもしも今泣いているのなら、そんな顔は見られたくなかった。
「忘れないで。わたしがここにいたこと。わたしが、律を好きだったこと。ずっと覚えていて」
そうすれば必ずまた、会えるから。
想いは廻り廻って同じ場所に還る。二つの季節は循環し、世界を彩る。
風が吹き止み、俺は二つの瞳を見据える。けれど、そこにあるのは瞬間前にあった色とは違っていて、
「……大丈夫だから。僕はもう、大丈夫だよ」
夢から覚めたように――双色遊季が言った。
「僕はもう大丈夫。お姉ちゃんみたいに強くはないけど、きっと。――ありがとう。大好きだよ、律」