6/ごめんね。バイバイ
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何もなかった日常生活をだらだら語り描写するのも気力の無駄遣いにしかならないだろうから、心の不毛を回避するためにも今日一日のことは慎んで割愛しようと思う。午前の授業では幾度となく睡魔の誘惑に屈しかけた俺も放課後になれば流石に安定した状態の意識を保つことができていた。
教室を出ようとして脚を止める。が、やはり外に出て廊下の壁に凭れた。
携帯をポケットから取り出してコール。不本意にも顔を見るのが憚られたその人物の名前はアドレス帳の一番頭に記されていた。選択。数回の呼び出し音を聴いてからもう少ししてから掛け直すべきかと考え始めたとき、
『もしもし?』
ご丁寧なことに、朱空はお決まりの文句で通話に応じてくれた。
『何の用なのよ。話があるなら直接すればいいじゃない』
そうなんだが。なんとも如何とし難い感情がとぐろを巻いて中枢神経に居座り、俺にこの行動を強要してきたのだ。勘弁してくれ。
『……ん、まあ、いいけどさ。で、なんの用? 冒頭によっては即通話を切ることもあるから出だしには気を付けなさいよ』
「か――」
『切っていい?』
「せめて一文節くらいは聞けよ!」
機械音声に変換された笑い声がけらけらと携帯電話越しに聞こえてくる。年上を馬鹿にするのはよくない。昨今の高一女子には先輩を敬う意思が付属されていないのだろうか。こいつ、俺にタメ口だし呼び捨てしてるし。
『あっはは。律をからかうのって楽しいよね』
「……覚えてろよ、朱空」
朱空の趣味が、俺に不利益をもたらすもの定まっていなければいいと願う。俺は罵倒を快く受けとるタフなメンタルなど持ってないし、聞き流し続ける寛大な心も培われてやしない。
『解った。覚えとく』
そんな素直に切り返されると困る。自分の発言に羞恥が芽生える瞬間だった。
一つ下の相手に電話でいいようにあしらわれている俺がいた。
『で、話って?』
いきなり仕切り直すから驚きだ。朱空にとっては戯れは戯れで、本題は本題。その区別が一線で完全につけられているのだ。主導権を握られているのにはどうも調子が狂うが、指摘するのもまた時間を無駄にするだけなので流れに従う。端的な用件を必要最低限に満たないほどの短文で告げた。
「鍵閉めないで出てっただろ、おまえ」
『うん』
不法侵入を許容させられる理由を作った張本人はたった二つの音で自白を済ませ、釈明を始める。
『だってしょうがないでしょ。あんたの部屋の鍵って一つしかないでしょ。持って帰るわけにはいかないじゃない。だから許してよ』
郵便受けに入れておくとか、手はいくらでもあったんじゃないのか。
『うっさいわねえ! 鍵閉めるなんて、そこまで頭回んないわよ、疲れてたんだから! このバカ!』
「逆ギレかよ!」
しかもついさっき自分が言ったことが言い訳だって認めてるようなもんだろ、その発言は。
朱空の咆哮が続く。
『いいじゃない鍵ぐらい気にしなくても! 男ならケチケチしないの。ていうか盗られて困るものなんてないでしょ、あんたには』
今朝方命を奪われかけたのだが。生命の危機とはこんな風に一人の油断や妥協が招くのだ。それも気紛れに他人に降りかかってくるのだから飛び切り性質が悪い。
ふと前を歩いていった二人組を目で追って、俺は自分の現在地が学校の校舎内で、時間帯が放課後であることを思い出す。帰る気配もなく通話する同級生に訝しみの視線を送って歩き去って行く女子二人の姿が角を折って消えたのを見送ると、急激にこの場から離れたい衝動に駆られた。
つい声を大にして話をしてしまった気がする。公共の場で。……穴があったら入りたいとはきっと今みたいな心境なのだろう。顔で茶を沸かすという諺があるが、俺は現在それに似た状態だ。かなり恥ずかしい。
周囲を密かに確認する。俺に向けられる衆目はこのとき幸いにもほとんどなかった。少し意識過剰になっていたかもしれない。しかし一度気になってしまうとなかなか気分を転換できないのが人間の性だ。俺も例外ではないので、この場は辞すことを選ばせてもらうとする。
ではさて、どこに行くべきか。人が寄り付かないところがいい。それでいて静かな場所。条件から検索をかけてヒットする学内のスポットは一ヶ所だけだ。言うまでもない。そこは生徒だけでなく教師も滅多に現れない名所。
生徒会室に行こう。九ノ瀬ならいても気にならないだろうしな。
目的地を定めて意識を携帯に回帰させる。長らく放っておいた通話は朱空の怒声から再開された。
『ねえ、さっきから聞いてるの?』
比較的大人し目。
『その程度のことでいちいち電話掛けてこないでよね。まあでも、今日は特別に許してあげるわ。あたしもあんたに言いたいことがあったし。直接会う手間が省けたわ』
緩やかに低温化したその声が告げる。
『言ってなかったけどね、あたし学校止めることにしたんだ』
呼吸も同然に自然と、今日の天気を訪ねられたから答えたような軽い口調がそれを言って、俺はあわゆく聞き流してしまうところだった。
『なんていうかね、嫌になったのよ全部。……何をするにしても今のあたしにとってそれは自分から逃げてることにしかならないから、何をやったってダメ。あたしは自分の世界から逃げ続けてるだけだから、そんなんじゃあなんにも成し得ないって解った。だからね、帰ろうと思うんだ。自分のいるべき世界に。あたしの居場所は、あの箱にはなのよ』
壁に周囲を封鎖されて世界から断絶された空間。中身は空っぽで空虚な造り物みたいな世界、箱庭。
俺にはまだこのとき、朱空の言っていることの意味が解らないでいた。
『前にした話だけどね、少し訂正があるって気付いた。あたしの世界は囲われていて、外と繋がっているのは空だけだと思ってたけど――本当はそれも虚構だって解ったわ。あたしがいたのは閉じられた箱だったのよ。それまで空だと思ってたものは、実は天井で、あたしは何一つ外の世界を知らなかった。……逃げられるはずなんてなかったのよ。いくら屋敷から出てきたって、あたしが辿ってきた空は箱庭の天井の延長なんだから。この世界で、律とあたしが見るものは違うものなの。初めから同じ場所にいなかった。……いられるはずがなかった』
何一つとして自分は世界を知っていなかったと、少女は語る。同じ空。どれだけの距離を隔てようとも、それが有る限り同じ世界にいられると信じて毎日見上げていた空。その空が偽物であると言った彼女。
箱庭少女は、その世界に一人だけ。
箱の中の閉じた世界で一人だけ。
脱け出したとしても心がまだ残留しているから逃げ切ず、どこに行ったって自身の世界からは逃れられない。それは心に描く風景がいつも個人の原点として存在するから。
けれど、だからといって簡単に認めていいのか。
短い間でしかなかったとしても、俺が朱空と過ごした時間は全て虚構でしかなかったと認められるのか。同じものを見て、同じものを聞いて、同じものに触れて、同じものを感じた。その全てが異なっていたなんて、あるはずがない。
君は確かにここにいたのだから。――俺が、その証明になれるなら。
「今どこだ?」
歩く速度が知らず上がる。返事のないわずかな空白にさえもどかしさを感じて、
「どこにいるんだよ朱空……!」
今度は焦燥した声で同じ質問を繰り返す。
『……生徒会室』
俺の口調に鬼気迫る勢いがあったのか、ぼそりとした朱空の声が質問の答えを呟いた。都合のいいことに目標地点の変更は必要がない。元より生徒会室へ向けていた歩み。急げばすぐに到着できる。
『ねえ……律。律はさ、昔見た夢をいつまでも覚えていられる?』
「……何の話だよ」
こんなときにまで。歩調が競歩のそれに変わる。
『あたしが初めて見た夢は、とても幸福な夢だったわ。十年くらい前に見た、夕焼けの夢。目が覚めてから今日まで、一日だって忘れたことなんてない。今のあたしはその夢から始まった』
競歩から遂に疾走へ。旧校舎への渡り廊下を駆け抜ける。ここからなら既に生徒会室までは三分とかからない。一度だけ大きく呼吸して、腕を振って走り出した。
『これが二度目。二度目の夢。あたしの世界は止まってる。こうしてあたしが夢を見ている間、箱庭はずっと明けない夜を続けてる。……これは、あたしの夢なのよ。箱庭の中で眠ってるあたしが夢想した世界。箱庭の外に憧れて明けない夜を過ごし続ける箱庭少女の見る――遠く叶うはずのない幸福な夢。この夢の中ではね、あたしは』
一息で階段を駆け上がる。踊り場で躓き転びかけた。傾ぐ姿勢を、壁に手を突くことでどうにか持ち直す。なんだって、よりにもよって最上階になんてあるんだよ生徒会室は……!
『この夢の中だとあたしは一人じゃないって思えた』
朱空の声などもう聞こえていなかった。耳を貸している暇があれば脚を動かしていた。今ここで朱空を失えば、また俺は大切なものをなくすことを繰り返してしまう。それだけは嫌だった。ただ速く。少しでも大きな歩幅で。一刻も早くそこに辿り着きたい一心で走る。
最上階に辿り着く。ここから生徒会室までは廊下一本。全力で走れば十秒もかからない。
迷うことなど何もなかった。疲労を訴える脚を叱咤して最後のスパートに全力を注ぎ込む。
『ありがとう律。あんたのお陰で、今度の夢もそこそこ楽しかったよ』
走ってきた勢いをそのまま利用して扉を開ける。
大音声が静まり返る廊下を突き抜けていき、残響を残して消えた。
果たして。
生徒会室には誰も、いなかった。
「あの……馬鹿野郎……!」
瞬時に状況を理解する。こんなときにつまらない嘘なんて吐きやがって。どうして最後まで俺をからかうようなことをしやがるんだよ。こんなときくらい、素直に演出してくれてもいいんじゃねえのかよ。
呼吸が一瞬途切れた。柔軟もしないで無茶苦茶な走り方をしてきた代償にわずかな気の緩みで膝が震える。たたらを踏んで三歩前進し、机に手をついた。その風圧で舞い上がる一枚の用紙。ひらりと舞って足元に落ちたそれを不意に目で追い、そこに書かれているメッセージを発見した。
――『ごめんね。バイバイ』。
そんな、言葉。
絶対に言わない癖に。
机の上に他の用紙はない。置かれていたのはその一枚だけであったらしい。わざわざこんなものを書き残して、朱空は出て行った。俺に自分が生徒会室にいることを教えれば必ず、俺がここにやって来る予測はできただろう。故意に擦れ違いになるように。これだけを残して朱空はそうそうに立ち去っていたのか。
けれど、まだそんなに遠くまでは行けていないはずだ。
このメッセージが書かれたのはおそらく放課後のついさっき。朱空は実際にここにいた。すぐに追いかければ間に合う。思考と実行のラグはほとんどなかった。部屋を飛び出す。行く先は定かではないが今はただ走り出すことだけが頭にあった。急がなければ、永遠にまたそれは失われてしまうと心が叫んでいて一心不乱に。
しかし。
「っと――なにしてんだよ律。危ねえな、そんなに急いでどうしたんだ?」
扉を開いたそこで、不在していた生徒会長九ノ瀬渚に鉢合わせした。