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5/双色紗季

 今更なんですが、プロローグは必ず書き直すことを宣誓します。

 /5




 同じ顔の姉弟。

 双色紗季と双色遊季。

 二人には共通点が多過ぎた。

 同じ顔立ち。同じ背丈。同じ艶の肌。同じ声。同じ立ち姿。そして同じ色の瞳。性格など内面的な部分を除いてならば、紗季にあって遊季にないものを探すことは難しく、また遊季にあって紗季にないものを探すことも同じく困難だった。しかし内面は差異が目立ち、まるでその在り方は互いが互いを補っているようでもあったと思う。

 だから紗季にとって遊季は彼女の反面。

 だから遊季にとって紗季は彼の反面。

 二人は鏡合わせの半面。

 全てが同じ。似ているのではなくて、同じ。

 二人が持って生まれた病もまた、同じ。違ったことは二つ。それが発症したタイミングとその先にあった結末。

 幼い頃から病に苦しんでいた遊季とは違い、紗季にその症状が現れたのは小学校を卒業してからのことだった。期をてらっていたように。遊季と入れ代わりで紗季が倒れたのが四年前。双色紗季が中学に登校した回数を数えると、その数字は学年との反比例を示す。三年次には遂にそれは月単位なら手の指で足りるものとなり、ある日を境に増えることが決してなくなった。

 俺が紗季の最期に立ち会えたのは幸運であって、そして紗季の意思に依るものである。

 まともな会話ができる時間など一日の内で数時間もないというのに。それが最期になると本人は知らなかったのだろう。

“ごめんね、律”

 命を繋ぎ止める力のない息と共に紗季の吐き出す声。短い発言の後に咳き込む姿が目に痛い。俺はそれでも紗季から目を逸らしてはいけない気がして、その手を握ることもできないのに、ただベッドの横に立って話を聞いていた。

“わたし、こんなで。みんなに迷惑かけて”

 そんなことはないと否定すると、紗季は荒い呼吸もままならないというのに笑顔を浮かべる。

“……まだ少しだけ、心残りだな。遊季のことも、それから、律の、ことも”

 そっと差し出される白い指先。薄いシーツでさえも今の紗季には重たいらしく、彼女の手は渾身の力をして震えながらどうにか這い出した。

 細く流麗な指が俺の目の下から頬をなぞる。指先は、もう既に冷たかった。というよりもそこには、生きているものの温もりが感じられなかったという方が正しい。

“泣いちゃダメ。せっかく、強くなったのに。律は、弱いんだから、泣いたら、壊れちゃう……よ”

“……紗季”

 名前を、呼んだ。

 俺にはそうすることしか、できなかった。

“でももう、だいじょうぶ……だよね。律は、きっと……大丈夫だから”

“紗季……ちょっと待て”

 手が、ぽとりと落ちる。神経が遮断されたみたいにあっさりと、紐の切れた人形を思わせる呆気なさで落下する手首を俺は急いで掴む。脈動を感じられない。

“ありがとう、律。わたしは、律や、みんなといて……幸せ、でした”

“……待っててば紗季”

 まだ伝えなきゃならないことが、伝えたいことがたくさんあるのに。

 まだまだ返しきれない恩が山ほど残ってるのに。

 話したいことも聞きたい言葉も見たい景色も知りたい世界も――まだ一生かかったって足りないくらいに残っているのに。

“大丈夫だよ。律は、大丈夫だから。泣いちゃ、ダメ。辛いときは、笑っていて。律のとなりには、いつも、みんながいるから。……でもごめんね、そこに、わたしはいられそうにない”

 強く手を握る。痛いんじゃないかと思っても握力を緩めることはできなかった。この手をここで離してしまったら、紗季とはそれきりになってしまう気がして、二度と届かない存在になるように感じたから。

 大きな音がした。病室の扉が開いたらしい。部屋の外に出ていた誰か――おそらく遊季だ――が我慢できずに飛び込んできたのだろう。なにかを叫んでいるが、聞き取れない。その声よりも紗季の言葉を聞かないといけないと心が訴えていた。

“ひとりで全部背負ったらダメだよ……律。もう昔みたいに、ひとりぼっちで泣かないで。今はもう、落とした涙を拾ってくれる人が、いるんだから……”

 そう言って。

 笑った紗季の目が細くなる。

 そして、もう開かなかった。

“紗季……おい、紗季……! まだ……まだ駄目なんだよ!”

 いっそう強く力を籠めて手を握る。一秒でいい、紗季にもう一度だけ目を開いて欲しかった。伝えなければならない想いを言葉にする為に、紗季に言えなかった返事をする為に――

“…………、……。…………。――、――”

 叫ぶ祈りが届いたのか、紗季の唇が動く。

 そのとき。

 紗季の伝えたかった言葉が何だったのか、俺は上手く聞き取れなかった。あるいは聞こえていたのに認識できなかっただけかもしれない。今は何よりも優先させる想いだけが頭にあった。

“よく聞け紗季! 俺はおまえが――”

 けれど俺は結局それを口にできなかった。寸前で紗季の笑顔が言葉を遮る。


“――――忘れないで”


 そして最期。

 誰よりも強く笑っていた少女はそれだけを願って、閉じた目をこの後二度と開くことはなかった。――俺が双色紗季という少女に想いを告げることは永遠にない。



 …




 ワンコールの後に通話ボタンを押す。応答の定型句はどちらも口にしなかった。

『……なによ』

 朱空の声は低く憤りを通り越して、もはや呆れの域に達していた。

『……あんたさ、あたしのことバカにしてるわけ? 何が『また明日』よ』

 そう言われるのも無理はない。約束を取り付けておいて、俺はそれを果たすことができなかったのだから。あの河原に向おうという気が全く起きず、今はただ何もかもを投げ捨てて不貞寝してしまいたい気分だった。

 雨の下で思う。

 今度ばかりはどうにもならない気がする。

 遊季は俺にとっての戒め。それは俺自身も解っていたことなのに。いざそれを遊季に言われてしまうと、この様だ。何を言っても所詮口から出る言葉は強がりな虚勢で、そんなもの、弱いだけの心が壊れてしまわないようにと自らを庇う行為でしかなかった。俺は、紗季のように強くはない。

 いつか荒んでいた心を救ってくれた少女。

 その強さに憧れた。

 誰かを助けられる優しさが綺麗だったから、俺はその少女に魅せられた。

 けれど今はもう。

 彼女はいない。

「悪い……朱空。約束、守れそうにない」

 春の終わりに、雨下の呼吸は白い濁りに変わる。

 雨が前髪を滴って睫毛に落ちた。目に入る雫を痛いと感じる。感情は沈み切って機能停止寸前だというのに、痛覚はきっちり活動しているようだ。雨に濡れる冷たさも寒さも。辛いと感じることはなくても、全て痛みになって体を苛んだ。

「ごめんな。本当に……ごめん」

『……バカ』

「俺は約束なんてしちゃいけない人間だったんだよ。他人を優先することなんて、俺にはできない」

 ――泣いちゃダメ。律は弱いから。

 紗季の消えかける笑顔を思い出す。本来なら、それさえ許されないというのに。

『バカ……。バカ、バカバカバカバカバカバカバカバカ――バカァ!』

 罵声を受け取る感情も今は、何の動揺も発しない。

『なによそれ……! 勝手なこと言ってんじゃないわよ! あんたが言ったことでしょ、責任取りなさいよバカ!』

「悪い。……本当に、ごめん」

 謝罪。

 俺はそれをすることしかできない。

 言葉で罪が消えるなら、世界は救済に満ちている。もし仮にここがそんな世界だったとしても、俺が背負った罪悪は決して消えることがないけれど。紗季はもういない。贖罪することも謝罪することも叶わないから。今はまだ声の届く朱空には、謝っておきたかった。

『…………待ってたのに』

 悲痛に凍える声が、

『ずっと……待ってたのに……!』

 泣いてるみたいに震えていた。

 雨天。ぴしゃりと足元から音がする。立ち止まった俺は信じられない心地で――この瞬間に人間としての機能が蘇ったように――有り得ない現状を想定した。

「朱空……おまえもしかして」

 有り得ないと叫ぶ心は、やはり自分を庇う為なのだろう。

「まだ、そこにいるのか……?」

『…………』

 答える声が、なかった。

 ばしゃり。

 ズボンの裾が濡れる。

 水溜りを踏んで跳ねた雨水が浸食する不快感も無視して通話を切り走り出した。

 冗談だろ。雨脚は決して緩やかではない。気の早い夕立を思わせる激しい降雨の下で、今もまだ、そこにいるとしたら。有り得ないことだと、笑い飛ばすことができない。否定しようとすれば逆に鮮明に浮かぶ、雨に濡れた朱空の姿。俺が何年も待たせ続ける少女。雨の霧に隠れて儚く消えかける彼女が、箱庭少女の姿が瞼に浮かぶ。

 想像を断ち切りたくて走った。

 現実の景色にそれを否定して欲しくて。

 程なくして河原に辿りつく。

 上がった呼吸を整える暇も与えられぬまま、想像が現実に変わる瞬間がそこに待っていた。

 朱空末那は傘を差さずに土手に座り、絶えず波紋を生み出す水面に視線を落とす。黒髪が張り付いて横顔は窺うことができない。その小さな姿に歩み寄り、声を掛けたのは俺だった。

「……なんでだよ」

「傘、忘れたのよ。こんなだったら置き傘でもしてればよかったわ」

「そんなこと聞いてねえよ」

 雨の音だけが沈黙に流れる。

 互いに吐き出す息が白い。凍える声に朱空が俺よりも長時間雨の下に晒されていたということを実感して、何を言っていいのか解らない。俺がもし傘を持っていたなら、その影に朱空を入れてやることができたのだろうが。そんなことなど罪滅ぼしにもならなければ今更手遅れもいいところだ。なによりも仮定でしかない。現実は差し伸べる傘もなく、同じ様に雨に打たれていることしか俺にはできないのだ。

 ややあって。

「解った気がするのよ。こんなことには意味なんてないんだって。本当は解ってた。十年も前にした約束なんだから、今更ここに来たって会えるはずがないってことぐらい」

 そんなことはないと言いたい。だが俺にはそれを否定する権利などなかった。

「でも信じていたいじゃない。待ち続ければ、信じ続ければ願いは叶うんだって。祈り続ければ夢は形になるんだって……! ……でも、そうね。だとしてもあたしは間違ってたのかもしれない。もう一度会いたいって気持ちを言い訳にして、箱庭から逃げ出す理由にしたあたしの行為は、逃避でしかないから。そんなの、間違ってるよね」

 ふらりと立ち上がった朱空の頬を伝っていたのは雨なのかそれ以外なのか。俺に解るのは今こいつが無理に笑っていることだけだった。

「だけど……二度と会えないと思うから」

 雨が少女の体を打つ。

 朱空は言葉を区切って笑顔を作り直し、

「いつかと同じ想いを忘れないように、ずっと大切にし続けることが償いだって信じてる」

 儚く笑って、瞳を濁す。

 雨と見間違えることなど有り得ない。今度こそはっきりと解る――朱空末那は確かに泣いていた。

 償いと少女は言った。

 ただの一度だけその場所に行けなかったことが罪であると。

 雨の中で涙を堪えながら、十年前の面影を待ち続けることが罪滅ぼしだと。

 背負う必要のない冤罪を自らに科して。

 まただ。

 俺が、答えを出さなかったから。

 すぐにでも全て話せば解決していたかもしれない。俺があの日の少年だと明かせばそれで済んでいたことなのに。何もかもを救おうとして、挙げ句の果てに最優先にしたのが自分だった。そうして誰が救えたのだろう。誰が悲しまずに済んだのだろう。

 誰も救えていやしない。

 傷が増えただけ。涙が流れただけ。絶望が深まっただけ。想い出が遠くへ離れただけ。

 身に余る望みだった。

 誰も悲しまない世界なんてない。この狭い箱庭の中にさえ絶望は溢れ返っていて、その全てを俺一人が背負うことなどできるはずがなかったのだ。誰かに悲しんで欲しくない。誰が傷付くのを見ると、自分が傷付くから。

 ――泣いちゃ、ダメ。

 ……そう言った紗季に、謝らなきゃな。

「…………律?」

 ごめん。

 俺はそんなに強くない。

 紗季みたいに強く笑うことなんて、俺にはできるはずがなかったんだ。

「……悪い朱空」

 互いに雨に濡れた体。

 肩を掴んで朱空を強引に引き寄せる。思ったよりも小さい。それでいて暖かい。その温もりがいつかの少女を彷彿させて、最後。

「ちょっとだけ、泣かせてくれ」

 辛いのはきっと朱空の方だって解っていたけれど。泣かずにはいられなかった。

 救われた誰かがいて、救われなかった誰かがいた。かつて紗季が俺にくれたものはなんだったのだろう。それが解ればきっと、誰も悲しませずに済んでいたのに。せめて手の届く範囲。声の泳ぎきれる距離の中でなら誰も涙する必要など、なかった。

 俺にはできないことだから憧れただけ。手の届かない美しさが愛しいから、真似をしてみたいと思っただけ。偽善は何も為しえず、痛みになって元の場所に還る。思い上がった報復が、これだというのなら。

 本当に、この箱庭に救いはない。

 涙は自然と溢れ出す。解ったことが一つ。雨は冷たいのに、涙は熱い。

「……帰ろう、律」

 腕の中で朱空がそう言った。

 いつまでもこうしてはいられない。雨も降っているし、このままだと風邪を引いてしまう。朱空が提案したのは、勿論そんな理由からではないだろうが。確かに帰るべきだ。泣くのなら家の中がいい。俺が初めて悲しさを知って泣いたのは、あの家だから。

 家まで送ると進言すると、朱空は首を横に振って拒否した。どういうわけか左右に一度ずつ振れた首が元の位置に戻ることはなく、俺は朱空の顔の右側面と向き合う形になった。横目がちらりとこちらを見、

「いい。あたしは、家に帰っても誰もいないから」

 帰ろうと言ったのはおまえじゃないか。そう反論しようとして、

「律の家がいい」

 朱空は、そんなとんでもないことを言いやがった。

「俺の家にだって誰もいねえよ」

「…………がいる、もん」

 俯きながら小さく首を振って。

 雨に飲まれて消えそうな声が。

「……律が、いるもん」

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