1/「大嫌い」
1√the world in closed box
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夕焼けの空に青が溶けていく。ただその様子をぼんやりと眺めていた。
とでも言えば、空の変化を楽しむ雅な印象があっていいかもしれない。
しかしより現実に迫った表現をするなら、この時の俺はただ途方に暮れていたと言った方が正しいだろう。まさか職員室に行っている内に他の生徒が全員帰宅しているとは思わなかった。何が億劫かといえば、最後に教室に残された人間の宿命として扉に施錠をし、その鍵を職員室に返却しなければならないことだ。短時間に二度も同じ場所に足を運ばなければならないなど、面倒でなくて何であろう。
そんなわけで。
人気の絶えた教室で一人脱力しながら、近くの机に腰掛けて空を眺めてみたというのがことの次第にして真相だった。
数十分前の自分に何故荷物を持っていかなかったのかと文句を突きつけてやりたいが、それも叶わぬ願いであり俺は愚痴を零す代わりに溜息を吐き出した。
しばし人気の絶えた教室の雰囲気を味わい、腰を上げる。
冷たい風を吹き入れる窓を閉め――飛行機雲発見――続いて黒板横に吊るされた鍵を取りに向かう。
教室の扉が開いたのはそれと同時だった。
「なんだ律、こんなところにいたのか」
そう言って、いつもの飄々とした表情で蒼が立っていた。
「こんなところでも一応俺達の通ってる教室だ。いて悪いかよ」
「放課後の教室だぞ。こんなところで語弊はない」
腕組して蒼が歩き出す。
「それともおまえは、放課後まで教室に残っているほど真面目な生徒なのか?」
一本に括った長髪が侍を思わせる立ち姿。身長は別段高いというわけではないが、凛とした顔立ちや切れ長の瞳がどうにも近寄り難い威圧感を醸し出している。そこへ来て部活では剣道部の主将を務め、全国大会出場を成し遂げるほどの腕前を持っているというからとんでもない。化物か。
白い顔は、今は夕日に染められて朱が混じっていた。
「降参。おまえが正しい」
こういう時はさっさと退くのが肝心だ。
「おまえ、本当にあっさり負けを認めるんだな」
「そうすることが最善だって知ってるからな」
今のやり取りに勝ち負けの概念が存在しているのかどうかは、今は気にしないことにした。
「ん?」
突然なにかに気がついたように蒼が首を振って周囲を見渡す。侍のようなポニーテールがひょこりひょこりと揺れる様子が、愛嬌があるというかなんというか。非常にコメントの難しい姿だった。
最後に俺の背後を覗き込んでから、ふむ、と勝手に何かを納得したように鼻を鳴らして、
「今日は遊季と一緒じゃないんだな」
「まあな。別に二十四時間いっしょにいるわけじゃないよ、俺達も」
「当然だ。寝る時までいっしょじゃ、友人として一言言ってやらねばらない」
おっと。
そういう切り返しで来るのか。遊季のことは蒼も知っているので、こいつがなにを指摘しているのかはっきりと解りかねるが、だとしても俺の返答は一つに限定されている。言葉を選ぶ必要もなければ慌てる必要もない。ただ質問に対して必然で決められた科白を返せばいいのだから。
「あいつは俺にとっての戒めみたいなものだ。それ以上のことはない」
「友人をそんな風に言うのは頂けないな……。まあ、いい。話を戻そう。……あー、おまえが皮肉れた勘違いをするからややこしくなった。いいか、私が『遊季といっしょじゃないのか』と言ったのはそんなことを揶揄したわけじゃない」
蒼が言葉を区切る。沈黙の間に俺に自分の意思を読み取れと訴えているらしいがしかし、仁王立ちして腰に手を当てた蒼の姿は持ち前の鋭い目付きや圧倒感と相俟って拷問官みたいだった。本人は自覚していないだろうが、こうなると常人は蛇に睨まれた蛙状態に陥り逆に口が利けなくなるので有効とは言えない。
もっとも、長いこと幼馴染みをやっている俺には関係ないが。
「解ってるよ。生憎と今日はこの後からバイトなんだ。遊季には悪いが一人で行ってもらった」
「そうか」
呆気なく蒼は頷いた。すると直ぐに呆れたようなため息を吐き出して、
「しかし律、この学校はアルバイト禁止だぞ。仮にも校則には厳しいことで知られているというのに、そんな学内で、あまつさえ生徒会副会長の前でその発言とは……さては取り締まられたいのか?」
確かに。この学校は校則に厳しい。染髪は禁止されているし、制服も下手な改造を加えれば買い直しを強制される。だがそれはあくまで禁止というだけであり、ある程度なら破ったからどうということはない。
服装や容姿については毎週校門前で点検が実施され、熱心な現生徒会長が自ら検査官を勤めている。その生徒会長様というのがとんだ女誑しで、実際のところ服装点検の本当の目的は『学年を問わずより多くの女子に自分を認識してもらい、かつ自身も学内の女子を取り零しなく把握する』というものらしい。
「……なにをやってるんだろうな、生徒会は」
「ん? なんの話だ?」
「なんでもないよ」
本当はかなりなんでもあるのだが。
服装点検に限らずその他の生徒会業務の実情を知るのは当事者と俺だけであり、俺は口止めを受けているので真実を軽々に口外するわけにはいかない。それに相手は蒼である。真面目な性格のこいつにそんなことを話してしまえば、生徒会室に巣食う女の敵を粛正しかねない。いや、確実にやるだろうこいつなら。
「それはそれで面白そうか」
つい口をついてしまった言葉に蒼が首を傾げる。俺の心中が読み取れず怪訝な表情を見せていたかと思うと次の瞬間には、そういえば、などと口にし、
「面白いと言えば、この間興味深いことを聞いたのだが」
何てことを言い出した。
基本的に蒼は周囲の女子とずれた部分がある。高校二年の少女にとって興味のあること、といえば身近なところなら迷信ともつかない都市伝説や生徒間の恋愛事情などなのだろうが、蒼の場合は違う。
蒼はそういった一般枠の面白さには興味がなく、こいつが興味深いことと称するならそれは真性の『面白いこと』なのだ。当然気になってしまう。
「どんな?」
内容を促す俺に、蒼は表情一つ変化させずに言った。
「うん。童貞という生物は、女偏の漢字を見たり聞いたりするだけで興奮するらしいな」
訂正。
蒼爽架。
この女の感性は根本的に一般枠から飛び出していた。
「試してみてもいいか?」
「つまりおまえは、俺が童貞だと考えているわけだな……」
「違ったか? まあなんにしろ、試してみれば解る」
「例えそうであったとしても、そんなことで興奮なんてしねえよ」
「それじゃあ行くぞ」
「だから――」
「大嫌い」
「――興奮しねえよ!」
不意に大音声を上げてしまう。いや、だって、いくらなんでも『大嫌い』なんて言葉のチョイスはないだろう。しかも単純に『嫌い』ではなく強調して『大嫌い』だ。逆ならあり得るかもしれないが、仮に蒼の持ち出した迷信が真実だったとしても、これで効果があるのは一部の自虐嗜好者だけだ。
「おお」
蒼は目を見開き、しかし俺の声に驚いたのではないらしく、
「どうやらこの話は真実だったらしいな」
などと感心している。
……もはや突っ込む気が失せていた。ダメだこいつ、救いようがない。
うんうん頷いている蒼の姿はそれはそれで見る奴が見れば需要があるのかもしれず、俗にいうギャップがそこには垣間見えた。体育会系でありながら成績もいい蒼だが実は結構天然なのだ。言い換えるなら、単なる変人ともいえないくはないが。
「……ところで」
無気力な声で俺が切り出した。
「おまえこそ、教室に何の用だ。忘れ物でもしたか?」
最初のやり取りから引用した皮肉を含んだ質問だったが、蒼はそれに気付かない様子で――あるいは気付いていて流されたか――ん、と思い出したような声を漏らした。
「うん、そうだった。律、おまえを探してたんだよ」
「俺を?」
と一瞬驚きつつも直ぐに用件に察しが付く。
「……まさか、あいつか」
「生徒会長様だ」
「やっぱり、九ノ瀬か」
「頼みたいことがあるそうだ」
「断る」
即答。
案の定蒼が眉を寄せて睨むようにしてきた。
その表情に恐れをなしたわけではないが、直ぐに弁解を入れる。
「また面倒事を押し付けるつもりだろう。悪いが、そんな暇があれば遊季と帰ってるよ」
同意を求めると、蒼は存外あっさりとこちらの言い分を受け入れた。
「それも……そうだな。うん、その通りだ。すまなかったな」
どころか表情に愁いを見せて所在なさ気にしている。
謝るほどのことでもない。変な部分で責任感や罪悪感を感じてしまうのは蒼の長所であり短所であると思う。まあ、そういう性格が評価されて副会長に当選したわけでもあるのだが。今のところはプラスに働いているようなので指摘してやるほどでもない。
「それじゃ、俺はそろそろ帰らせてもらうよ」
「解った。では鍵は私が返しておこう」
生徒会室は職員室とは別の校舎にある。九ノ瀬の伝令で来たのなら蒼はこれから生徒会室に戻るのだろうし、もし仮にそうせず部活に向かったとしても剣道場は位置的により遠くなる。どちらにしたところで、職員室に寄って行くには単純にエントランスへ向かう俺の方が手間が小さい。
「いいのか?」
「構わない。時間を取らせてしまったしな。それくらいの手間は手間とは思わないよ」
心底親切なことを爽やかな笑顔に乗せて言われると、その行為を無下に扱うのは申し訳ない。
俺は短く礼を言ってから教室を出、背中で聞いた別れの言葉に片手を挙げて返事をした。