5/双色遊季
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雨はいつ降り出すのだろうと俺が窓の外を気に掛け始めたのは、蒼の暴走があった昼休みの終わり頃からである。天気予報は見ていないので降水確率がどれほどのものか解らないが、降り出してしまったら傘がないので非常に困る。
放課後になっていよいよ厚くなった灰色が泣き出す寸前。
事が済むまで持ち堪えてくれることを切実に願う。
本日の俺には果たさなければならない課題が二つほどあるのだ。
その一つは朱空に俺が十年前の少年だということを明かすこと。今も尚少女をあの場所に縛り付ける約束を果たさねばならない。これ以上はやはり、いつまでも放っておくわけにはいかないだろう。箱庭少女が真の意味で世界を得るためには、その義務は怠ってはならない。
そしてもう一つ。
遊季にはっきりと俺の意思を伝えることが必要だ。それをしなければ、それを引き摺ったままでは朱空に真実を打ち明けることなどできない。置き去りにしてきた柵を解くことでしか、俺も遊季も前には進めないから。
紗季の面影から遊季を切り離さないと、俺も遊季もいつか必ず潰れる。それだけは確かな事実。何もかもを中途半端にしてきた逃避の代償を、全ての取り返しがつかなくなってしまう前に払わなければ――機会は今しかない。
決意して俺は遊季の教室に向かう。待ち合わせの約束はなし。遊季がいる確証はなかったが、それでも俺はそこに行き先を定めて脚を運んだ。事前に連絡を入れるなりすればよかったのかもしれない。後になって思いながらも、なら何故そうしなかったのかと問われれば即答できる。
そう。
この期に及んで俺はまだ迷っていた。
待ち合わせをして、遊季と話す未来を固定するのが怖かったから、あえてこんな不確かな方法を選んだ。
だというのに。
運命の悪戯とでもいうべきか。
目的地の到達を前に俺は、階段の踊り場にて遊季と対面を果たしてしまった。
「…………」
沈黙が声になって言葉にならない漣が両者の間に流れる。昇降口と踊り場。二人の位置関係から、俺は遊季を見上げる形で会話に挑むこととなった。普段とは逆の高低に戸惑いはないが、こちらを見下ろす遊季の目には背中に寒いものを感じる。
見詰め合いながら睨み合うように。その張り詰めた空気の中に一輪笑顔が咲き――先に口を開いたのは遊季だった。
「どうしたの律? もしかしてわたしに会いに来てくれた?」
遊季の言葉が、紗季の言葉を紡ぐ。
「ああ。話がある、おまえにだ――遊季」
紗季の笑顔の中で。遊季の表情が微かに揺らいだ。
「……へえ。今日はお姉ちゃんと思ってくれないんだ。意外と冷たいんだね。それとも……もしかして怒ってるのかな? そっかー。僕は律に嫌われちゃったんだね」
琥珀色の瞳が、その奥で得体の知れない感情を滲ませ始める。紗季と同じ色の目。今もここに残る失われた彼女のイロ。その目にだけは泣いて欲しくないと、傷付けたくないと、そう思う心は本当なのか、俺には解らない。けれど一つだけ持ってきた答えはある。遊季に対してではなく紗季に対して、紗季からではなく遊季から問われたそれに、俺は言う。
「俺は紗季が好きだった」
いつか、記憶の中で彼女との想い出が風化してやがては遠く朧な残像になろうとも、その想いだけは忘れず、これから先何年の時が過ぎようとも誇って口にできるようにと誓う。紘井律が双色紗季を好きでいたこと。それだけは見失わないと心に決めて、永遠に背負っていく。
本当に大切だから。手が届かなくても見据え続ける。前に進めばそれだけ遠ざかるいつかの想い日を振り返ったとき、そこに笑顔の少女を見付けるためにも。決して嘘にしてはいけない想いをずっと抱いていよう。
誰かの為にではなく。
俺自身の為に。
「でも、それはもう過去のことなんだ。進もう遊季。振り返ってばかりいてもしかたないだろ。俺も絶対に忘れない。双色紗季って子が好きだったことを俺はこの先ずっと忘れないでいる。だからもう次に進むんだ」
振り返れば。
思い返せば。
その向こう側で紗季は笑っているかもしれない。けれどそれではいけないんだ。いつまでも過去にしがみついて生きていくことなんてできない。俺達が振り返るばかりで目を背ける未来は、過去から進むことのできなくなった紗季が見たかった夢の先なのだから。
起きたことを変えることはできない。どれだけ願っても嘆こうとも泣き叫ぼうとも。紗季が、どこを捜しても今は想い出にしかいないのなら、かつてのその笑顔を知る者がそれを背負って生きて行くことでしか彼女の報われる道はない。後悔だけでは救えないから――俺はこの想いも記憶も背負うと決めた。
たとえ耐え切れない重さや痛みや悲しみであったとしても。
ここには悲しみに共感して泣き、喜びを分かち合って笑い合える仲間がいるから。
立ち止まらないことが、紗季に対してできる償いだと俺は信じている。
片足を階段に踏み出したとき、遊季の声が呟くように零した。
「……律に取って、お姉ちゃんは――双色紗季はもう過去なんだね」
言って。
少女の瞳が。
琥珀色の、紗季と同じイロの目が。
有りっ丈の絶望と憎悪と怨嗟を宿した眼光が、俺に落とされた。
「解ったよ。律はそうやって、お姉ちゃんを置いてけぼりにするんだ。好きだったことも、大切に思ってたことも何もかも想い出の中に残して先に進むんだね」
仄めかすのではなく明確な敵意と嫌悪を乗せた遊季の声。侮蔑さえ含んだ眼差しで俺を見下ろす姿。その目は今にも泣き出してしまうなのに、それでいて揺るがない一つの信念のもと激情を静かに圧し殺している。まるで期を待つように。
「好きだった……過去形だよね。てことはさ、今はもう好きじゃないの? 律の中の双色紗季はその程度の存在なんだ」
「違う。俺は――」
「違わないよ」
冷淡な声が俺の言葉を遮る。人気のない薄暗い廊下に反響した声が不気味に低く残響を残して耳鳴りに変わった。
「なにが違うって言うの? 結局、律の中でお姉ちゃんは終わった存在なんでしょ。もう二度と会えないし話せないし感じられないし求められないし笑えないし泣けないし怒れないし悲しめないし喜べない――そんな、ただ忘れていくだけの存在なんでしょ」
違う。
違うんだ。
俺は――、しかし繰り返すのはそこまで。その続きが見当たらない。自分が何を否定しているのか、否定したくているのか。いいや、そうじゃなかった。俺は否定したいのではなくて否定されたくないだけだ。紗季を好きでいた、その気持ちが間違いないでなかったと思いたいだけなんだ。
「ねえ律。何度も訊いたよね。律は本当に双色紗季のことが好きなの? 本当に、嘘でも建前でもなくて本心から。唯一の存在として認めてくれてるの?」
「俺は……」
解らない。
何で。どうしてだろう。こうならない為に答えは見付けてきた筈なのに、何故俺はまた大前提から新しい疑問を見つけ出してしまうのだろう。紗季を好きかどうかなんて、そんな簡単な質問に対しての回答が、そこだけ綺麗に消ゴムで消されたみたいに見当たらない。
「……答えてよ」
静謐に震える声。涙声に似た音が遂に感情を決壊させた。
「答えてよ律!」
大人しかった語調が跳ね上がって、ヒステリックを起こしたような叫びはこのとき確かに濡れていた。
「どうしてはっきり言ってくれないの? どうして、曖昧にしか答えてくれないの? たった一度嘘でもいいから、正面から言ってよ……! 律は、お姉ちゃんが好きなんでしょ!? だったらそれを律の言葉で……お姉ちゃんに伝えて欲しいのに――!」
掠れていく声は壊れてしまいそうな自分を守るため。これ以上を口にすればきっと、涙の放流を堪えきれない。そんなこと俺にだって解る。
「……違うんだよ、遊季」
そうだ、違う。
俺は、俺が想いを伝えなければならないのは遊季じゃなくて紗季だから。この心を形にすることは決してない。紗季自身に言えなかった言葉。それをここで遊季に告げたとしても、所詮は紛い物。本物のキモチは過去に置いたままで、今この瞬間の俺の中には存在しないんだ。紗季の前で、二度と口にできなかったその言葉を俺はどうしても自分の心だと認識できずにいた。だから俺に言えるのはそれだけだった。紗季のことを好きでいたという、信じていたい過去の想いしか俺には――
「おまえじゃないんだ。おまえは、紗季じゃないだろ」
「…………」
「もう紗季の真似は止めろ。そんなことをしたって何にもならないし、悲しみを先延ばしにするだけじゃなにも変わらない。紗季がもういないことを受け止めて、俺達は進まなくちゃいけないんだ、遊季」
遊季は黙って俯いていた。垂れた前髪に隠れて顔は見えない。
今度こそ俺は、階段を登り始める。目指すのは遊季の隣。かつて紗季がそうしてくれたように、次は俺が彼女の弟を導く番だ。
「行こう遊季」
呼び掛ける。
紗季の影を持つ少年。延びた髪はまだ姉には及ばない。今はそれだけが表面上にある二人の違いで、彼女が彼女であり彼が彼である証。
俺は、双色紗季が好きだった。その想いを反芻する。
そして、この結末に一抹の不信を抱くと同時にそれが、その声が聞こえた。
「行くって、どこに……?」
遊季の顔が上がる。俺は咄嗟に脚を止めて階段の半分手前で立ち止まった。
驚いたわけではない。
俺が感じたものを言葉にするならば、それは純粋な恐怖だった。
凍てつくような冷たい瞳が、これまで奥に滲ませつつも隠していた感情を自重なく湛えている。暗く深く重く冷たく苦しい。十年もいっしょにいて、こんな目をした遊季を俺は見たことがなかった。同じ目を持つ紗季でさえも、これに似た色だって浮かべたことがない。
「また、朱空末那のところ?」
醒めた口調が淡々と繰り出す言葉から俺はある予想を感じ取る。そして嫌な予想はやはり外れてくれなどせず、コンマの間を置かず、脳裏に浮かんだ仮説を否定する暇をくれないまま現実に変わった。
遊季は無表情に、けれどこの上なく残酷で冷酷な瞳を鈍く輝かせ、
「『朱空末那に近づくな』――僕の投書、届いてなかったのかな?」
至極あっさりと、そんなことを、言った。
「遊季……おまえ」
「あ、その反応だとちゃんと届いてたんだ。よかった。安心したよ。もっとも、メッセージだけ届いても僕の本意は伝わってなかったみたいだけど。生徒の要望を叶えるための目安箱なのに、まさか無視されるなんてなー。でも、ま……律は生徒会役員じゃないし。あんまり効果的な手じゃなかったかな」
「……なんのつもりだ?」
「あれれ? 驚いてるみたいだね律。だけど本当は予想もできてたんじゃないかな。あれを見たなら、律や渚はきっと疑問に思うはずだよ。内密に執行される生徒会の業務がなぜ一般生徒に知られているのか、て。投書の内容と状況から消去法にかけると、投書主候補はいなくなる。――でも律は違ったはずだよ。だって、律は僕に話しちゃってるんだからさ」
生徒会室で初めにあの投書を見せられたとき、俺が遊季の言う通りそれをしたのが遊季だという仮説に至ったのは事実だ。だが認めたくなかった。それをしたのが双色遊季だと認めたくないから、すぐに思考から排除したのだ。それが今になって、本人の自白をもって否定しようのない事実に変わり、これではもう認めざるを得ない。
「疑わしきは罰せず、って奴かな。そういう甘いところは変わらないね。まあこれは僕のミスだから何も言わないよ。あれが僕の仕業だと律に解ってもらおうと思ったら、名前でも書いておかなきゃいけなかったよね。律は優しいから、友達を疑ったりしないもん」
疑わないのではなくて、俺には友人を疑えるほどの強さがないだけだ。
「どうしてかって? そんなの決まってるでしょ。全部律が悪いんだよ。律が、お姉ちゃんとの約束を守らないから。朱空末那にばっかり構ってるから、いけないんだよ。――好きだって言ったよね。ならお姉ちゃんだけを見てなきゃいけないよ。お姉ちゃんだけを好きでないといけないし、お姉ちゃんだけを想ってないといけない。律にはその義務があるの」
遊季は。
一度だけ断末魔に絶望を覗かせる瞳で笑い、俺を見下ろした。そのどこまでも呪詛に濁った琥珀色から目を逸らすことができず、俺は遊季の表情全てから直接それを聞く。静かに煮えた怨嗟が、身を焼くような錯覚と共に降りかかる。
「答えて上げるよ。どうして僕がここまでするのか。……そうだねえ、その為にはまず一つ確認しておかないとダメなことがあるかな。答えてね、律。昨日の続きみたいなものだから簡単だよ。で、最終問題――いい? 訊くよ」
有無を言うより先立って、その問いは遊季の口から言葉となる。もしも俺が待ったをかけることに成功したなら、耳を塞いで一目散に逃げ出したい。遊季の笑顔を怖いと思ったのは、これが初めてだった。同時に、この瞬間目の前にいる相手が遊季なのか紗季なのか以前に、そのどちらにも感じられなかったことなんて。
「じゃあ訊くよ。覚えてる? 僕が、双色遊季が――」
聞かなければよかった。みっともなく大声を出して走り去れば、あるいはそれも叶えられたかもしれない。
遊季は言った。
謳うように嘆くように苛むように呪うように。絶望の底から沸き上がる声が、
「――僕が、お姉ちゃんを好きだったこと。覚えてる……律?」
心の奥を抉るように、そんなことを極当たり前のことみたいに言葉と成した。
「……困ったことにね、僕は家族として紗季お姉ちゃんが好きだったわけじゃないんだよ。だけどそんなのおかしいでしょ。姉弟なのに、そんなのはおかしいよ。だから僕はきっとお姉ちゃんに憧れてるだけだと思った。お姉ちゃんみたいになりたいと、そう願ってるんだろうって思うことにした。でもね、いつまでも嘘は吐けないでしょ。ましてや自分になんて」
だから。
だから双色遊季は。
「認めることにしたんだよ。僕は、お姉ちゃんが好きなんだって」
それが禁忌だとしても、間違ってはいないと信じたから。
「……だけど遅かったんだよ。その頃にはもう遅かった。お姉ちゃんは僕だけのお姉ちゃんじゃなくなってた。律がいて、渚がいて、爽架がいて、僕がいる。みんながいる世界がもう出来上がっていた。そしてお姉ちゃんはその世界の中で、律を好きになった」
五人の世界。
五人の箱庭。
少女は少年に恋をして、それを、少年は眺めていた。
「もちろん少しはショックだったけど、それでも嬉しいって思えた。お姉ちゃんが律のことを好きになっちゃっても、僕の想いが余計に届かなくなっちゃっても、嬉しかったんだ。本当だよ。律だったから、良かったって思えたんだよ。律にならお姉ちゃんを盗られてもいいって、思ってた」
なのに――
「律は、最後までお姉ちゃんの想いに答えなかった。最後の最後まで双色紗季のキモチに気付かないで――お姉ちゃんが無理して笑ってることにも気づかずに。ただの一回だって、好きだって一言を言わなかった。僕が言いたくても言えないことを言わなくて、僕が欲しくても決して手に入れられないものを見送った」
それが。
そのことが決して――
「許せなかった。律、本当のことを言うとね、僕はずっと律を恨んでいたんだよ。この十年間、僕は律を憎み続けた。涙を殺して想いを殺して」
かつん、と音がした。遊季が階段を降りてくる。一歩ごとに足音を響かせて。琥珀色の目は寸分のずれもなく紘井律を映して。
俺と同じ段に降りてきた遊季はそこで脚を止めた。呆然と立ち尽くしてさっきまで遊季のいた場所を見上げる俺の耳に顔を寄せて、息の吹きかかる距離に近付いた唇が囁きを洩らす。その声には、およそ感情と呼べる温度が一切欠如していた。
「これはね、復讐なんだよ。ささやかで小さな、僕の復讐」
遊季の顔が離れていく。その言葉で俺は水をかけられたように我を取り戻し、直ぐ隣に立つ遊季に体を向けた。
双色紗季の瞳。双色遊季の瞳。同じイロの輝きが混濁する。
「僕から永遠にお姉ちゃんを奪った律への、復讐。自己満足でしかないのは解ってるけど、だけどそれをしないわけにはいかない。叶わなかったお姉ちゃんの想いは僕が引き継いで、ずっと生き続ける。律が自分の罪を忘れないように、戒めとして共にあり続けるよ」
俺がなにも言えないのを見て、遊季は満足そうに微笑む。だが、いつもと変わらぬ笑顔の消えた後にあったのはいつもとまるで異なる、寂しさを湛えた悲しい陰り。その裏にあるものを汲み取ろうとする間に、遊季は残りの階段を降り始めた。
「だって仕方ないよ。お姉ちゃんが好きになったのは律なんだもん。僕は、その想いを背負うことでお姉ちゃんといっしょにいることを願った。たとえ双色紗季はいなくなっても、この想いだけはお姉ちゃんが残した想いだから」
踊り場に立つ。遊季はそこで立ち止まって、こちらを見上げた。
その、泣き出してしまいそうな無表情に、
「おまえは……そんなことでいいのかよ」
答えなんて解っていたのに、それを訊いてしまった。
「そうして紗季の代わりになるなんて、できるはずがないだろ。どんなに憧れても、どれだけ大切に思っていてもおまえは遊季なんだ。代われるわけがない。誰かの代用なんて、誰にもできやしない! おまえが俺を恨んでいるならそれで構わない。でもそれじゃあおまえは……双色遊季はこれから先どうなったって救われないだろ!」
「……うるさいよ律」
感情の脈動が声を震わせて、奥歯を噛み締めながら、遊季は言葉をそこで区切る。華奢な双肩が震えていた。拳は固く握られ、歯を食い縛りながら俯く様子はまるで痛みに耐えているようにも見えた。
もしもそれが比喩ではないとしたら。遊季を襲う痛みは、俺が与えた物に相違ない。俺がなにもしなかったから。なにも知らなかったから。遊季も紗季も傷付けた。
「解ってるよ! 解ってるんだよ……! 僕は何をしたってお姉ちゃんには慣れないし、どんなことがあってもお姉ちゃんはもういない。そんなの解ってる。でもそれじゃあどうすればいいの……僕は、どうすればいいの……?」
叫び声は、
「僕が好きなのはお姉ちゃんなのに……! そのお姉ちゃんを奪った律が許せないはずなのに……! ……なのに、何で。何で僕は、律が――」
「……遊、季」
叫び声は既に泣き声に変わって頬を濡らしていた。
遊季の瞳から透明の雫が溢れ出し、頬を伝う。抑えていた感情がここにきて止めどなく堰を切る。それでもその目は俺を見て、糾弾の眼差しが破綻した偽善を咎めた。
俺は、なにがしたかったんだろう。いつか大切な人の流した涙に触れて、それを悲しいと感じたから守りたいと思った。自分の前でだけは、自分の知る誰にも涙して欲しくないと願ったのに。――その想いを、夢を、願いを結局、自分自身の手で壊してしまった。
何故、遊季は泣いている。
何故、俺はそれを未然に防ぐことができなかった。
なによりも嫌だったはずだ。その瞳から涙が落ちるのだけは見たくないと、そう思っていた。それが自分を守ることでしかないとしても。どんなことになっても絶対に見失わないと誓った、願いだったはずじゃないのか。
俺はまた。
同じことを繰り返して――同じものを失おうとしている。紗季の心が解らなかったように、遊季の心も解らず、自分を救うことさえできない。
「……解ってるよ。こんなことに意味がないことくらい。誰も救われないって、気付いてるよ。……でもこうしてないと、僕の中のお姉ちゃんがいなくなっちゃうから。だって、律を好きだって気持ちは――」
涙を流しながら優しく、いつかの紗季がよく浮かべていたような笑顔を見せて、
「……ずっと、あの頃が続けばよかったのにね。そしたら誰も悲しまなかったのに。僕も、お姉ちゃんと律が好きなままでいられたのに」
叶わぬ望みを遥か彼方の遠い日の記憶に眺望して、最後、一筋の雫が流れ落ちた。双色遊季のぎこちない、姉によく似た微笑みが告げた。
「……こんなことなら、こんなに悲しいなら――初めから誰も好きにならなきゃよかった」