5/昼休みの一閃
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生徒会室の扉を開いた俺は、そのままの状態で硬直していた。
自己の認識できる範囲外の現象を目の当たりにしてしまった故に、脳が現状を理解しきれずパンクしてしまったのか。まばたきさえも忘れて俺は眼前の光景を目視する。穏やかな昼の日差しが差し込む生徒会室の白い床や壁と――何故か蒼に片手を取られ、完全に関節を決められた状態で膝を折る九ノ瀬の姿が白昼夢のようにそこにあった。
蒼の剣幕はまさに殺人鬼のそれ。右足で九ノ瀬の背を踏みつけながら押さえ付け、首筋に竹刀を突きつけている。一触即発にして鎧袖一触の図。全国の猛者達を病院送りにしてきた蒼爽架の突きが今か今かと獲物の肉を貫く瞬間を待っていた。
「り……律……」
搾り出された九ノ瀬の声。
涙目がマジのヤバさを俺に訴える。
「助け……てくれ」
ごきり。嫌な声で九ノ瀬の関節が鳴いた。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
耳を劈く悲鳴。
聞いている俺も鳥肌が立つほどに危ない音がしていたからな。蒼の奴、本当に外したかもしれない。呼吸も同然に殺気を吐き出すスプラッター蒼の前に、人の命など玩具も同然。関節の一つや二つ、外すどころか砕くことさえ厭わないだろう。
「渚、私の質問に対する答え以外で言葉を発して良いと誰が許可した? それから」
鬼の形相が、俺に矛先を変更した。
「律、おまえは今私に対して失礼な独白を語っていたのではないか?」
「い、いやだなあ、蒼さん。そんなことないじゃないですかー……」
沈黙。
恐怖の前では露骨に虚言が浮き彫りになる。俺は棒読み口調と引き攣った笑顔を返答にして、遅まきながらその行動が自殺行為であることに気付く。蒼の正義感が常軌を逸しているならば、嘘を憎む心もまた異常。防衛本能が咄嗟に働いたことが、自分の首を絞める結果になってしまった。
「私の目を見ろ」
低い声音。言われた通りに蒼の黒目に焦点を合わせる。
「心眼というものを知っているか律? ――私の目は虚実を見抜く」
蒼の目。
その奥。
弛まぬ剣の修練により頂点を得た少女が手にした叡智の極致。その瞳は人の内側に巣食う全てを見透かす。故に彼女は百戦錬磨。対峙する者の心意を読み取ることで敵の繰り出す剣を先読みする蒼にとっては、心の歪たる嘘を見抜くことなど容易い。幾多の死線を越えてきた常勝の瞳がその圧力で俺を拘束して動きを制限し――
「歯を食い縛れ」
――気がついたら蒼が目の前にいて、竹刀を上段に構えていた。
「メェェェエエエエン――――!」
疾風を纏う竹刀が閃く。
振り下ろされる一閃はこのままの軌道ならば俺の脳天を直撃し、間違いなく頭蓋を砕くだろう。
面有り一本だ。
いや待て。
一本……じゃねえ!
反射神経を全て注ぎ込み全力で回避に臨む。体を捻りながら床を蹴る。飛び退いた後なら倒れても構わない。今この一撃を躱すことが出来ればそれでいい。数秒先の運命ではなく、目前に迫る死を回避しろ。
それは一瞬だった。
旋風を残して落ちた竹刀が俺の頭の横を過ぎていく。風を裂く音が絶対的な死の予感と明確な敗北の未来を幻視させた。そしてそれは、俺が一秒でも判断を遅らせば幻ではなく現実となっていた光景。
紙一重で命を繋いだのは僥倖。右半身で床に倒れ込んだ俺は火急に体勢を立て直す。
が、それも既に遅い。
聞こえてきた音は一つだけ。それさえも彼女の前では遅過ぎた。
床を踏み切る小気味のいい綺麗な音の後。
蒼の体がモーションの一切を殺して俺の前へ移動する。
否、俺が蒼を視認したときには全てが完了していた。ただの一歩で間合いを詰める、瞬間移動を思わせる流れるような脚運び。身動きが取れないなんてものじゃない。気付いたら蒼がそこにいた。まるで初めからそこに存在していたように。世界が停止したと錯覚を覚えるほどに。
膝を立てる。背後は扉。逃げ道は正面しかない。だがその正面には蒼がいて既に構えを取っている。中段。竹刀の柄を握った右腕を肘から引き付け、竹刀の先をこちらに向けている。
一秒未満。
物理法則を無視したみたいに、流星染みた刺突が放たれる。
風を起こし、巻き上げ、引き裂き、斬り開いて空間を穿つ。稲妻のような一刀が振るわれた後には何も残らず、必勝を誓う剣先は狂いなく俺へと向かっていた。唸りを上げる魔の槍。蒼の狙いは正中線。喰らえば即死は確実。
しかし甘い。
確かに蒼は剣道というスポーツでは他の追随を許さぬ飛び抜けた最強さだ。だがそれはあくまでルールの上に剣を振るう道場の中でだけ。ここは生徒会室。武士道も騎士道も反則もなにもない。
蒼が持つ最強の刺突はけれど、弱点とはいえないが衝け込む隙くらいはある。突きは点である故に力を持つ。一点に力を収束して放たれるからこそ強力なのだ。裏を返せば、それ自体の攻撃範囲は極めて低いということ。さらに何よりも軌道が直線。手練れであればあるほどに、強力ならそれだけ始点と終点の鋒にブレがないのだ。蒼の突きは強過ぎるが為に俺には届かない。
「嘗めんなよ……蒼!」
右腕から放たれる突きを避ける。難しくはなかった。これが剣道の試合だったなら防具を付けていたりで動きが制限され、こうはいかなかったはずだろう。実際蒼はこの突きで全国の強敵を何人も地に伏させてきた。俺が躱せたのは単に反則を犯した故。
必殺の突きを躱して、勝機が訪れる。攻撃の後で蒼の腕は確実に伸び切っている。竹刀は武器として機能しない。――ならば、これは最大の勝機だ。
いくら強くても蒼は同い年の少女。身長も俺の方が高く、単純な腕力でも俺が上回っている。竹刀を持つ右手を抑え、得物を奪い取る――!
「残念だったな律」
蒼の声が頭上から落ちてくる。それだけで俺は自らの失態を悟った。
誤算はない。
ただ誤解が存在した。
自分でもそれを理解していたはずなのに、先入観が背中を押して最後。蒼の張った罠に飛び込むことになったのだ。
そう、ここは道場ではない。
竹刀を持った蒼の、右腕を掴んでからようやく気付く。
突きを放つ瞬間の蒼は――竹刀を右手一本で扱っていた。剣道ではなくて、純粋な剣術。片手で竹刀を突き出し、空いた左手が攻撃後の隙を突いて懐に飛び込んだ俺の胸ぐらに伸びる。あっさりと捕獲。
「私の勝ちだな」
勝ち誇るのではなく、それは最後通告。これ以上の抵抗には暴力の制裁を与えるという警告だ。
だが状況は五分。いや、というよりも右手が自由な俺の方が有利ですらある。胸元を掴んでいても蒼が竹刀を振るえないことに変わりない。互いが互いの攻撃圏内にいながら身動きを取れず、一方は片腕を自由に動かせる。
どう考えても俺の勝ちだ。
「……そうか。どうやら状況が飲み込めないらしいな。律、剣道三倍段を知っているか?」
「なんだよそれ……」
「私もよく知らない」
「何が言いてえんだよおまえは!」
「細かいことはいいだろ……簡潔に纏めるなら――」
ぐらりと、体の重心が揺らいだ。重力に逆らい、体が浮き上がる感覚。
……ていうか、これは。
「――ようするに、剣を持った私は、剣を使わなくてもそれだけで普段の三倍強い。みたいに思っておけ」
踵が床を離れる。
気付いたときには遅い。俺は蒼の片腕によって完全に吊られていた。さらに蒼は掴まれている右腕を引き手にして俺の体を引き寄せる。反転したその背で俺を担ぎ上げ――
「背負い投げかよ……!」
強引に、投げた。
ここにきて柔道って。剣道関係ねえよ。
為す術なく盛大に全ての衝撃を背中で受ける。肺が爆発したんじゃないかと思った。手加減など微塵もありゃしない。剣の道も柔の道も蒼にとっては殺人に繋がっているのか。
「さてと律。聞きたいことがある。答えて貰おうか」
ゆらりと上がった竹刀の切っ先が俺を指す。
「それともまだ抗うか? これ以上は私も手加減できないぞ」
「……よくいうな」
今の背負いに手心が加えられていたなんて到底思えない。だが蒼が本気になっていたなら俺もこれぐらいじゃ済んでいないだろうとも思う。
俺はゆっくりと両手を上げた。
「降参。俺の敗けだ」
「よし。だったら答えて貰おうか。渚はどうしても話そうとしないのでな。律、おまえは私に拷問を行わせるようなことはしないでくれ」
そこでやっと蒼の表情が緩む。
吐息してブレザーのポケットに手を入れ、取り出した用紙を俺に晒して言った。
緩和した表情がそれを尋ねる一瞬で再び強張る。
「これはなんだ、どういうことだ?」
……凡そ予想は付いていたのだが、やはりそういうことだったか。
たすけて、と。朱空末那のメッセージが並ぶ無機質な文面が暖簾みたいに俺の顔の前に垂れ下がっていた。
これで大体の状況は把握できた。どういう経緯かは知らないが、例の投書が蒼に露見してしまったというのが簡潔な説明になるだろう。蒼がこの手の投書を見逃すはずなどなく、ましてや学内に助けを求める生徒がいるとなれば余計に。だが九ノ瀬や俺はそのことを蒼に話さなかった。蒼の怒りを買ったのはそのことが原因と考えてまず間違いない。
俺はバレないように魂が抜けたみたいに突っ伏す生徒会長(放心状態の九ノ瀬を律儀にも蒼は椅子に座らせていた)を盗み見る。アイコンタクトを図れる様子ではない。
九ノ瀬に期待するのは止めて、俺は状況整理を独自に開始した。解らないことと、必要な情報。それは蒼がどこまで知っているか、だ。言い換えれば九ノ瀬がどこまで喋ったかである。生徒会ではこの投書を悪戯として処理をした。投書主が朱空だということを知っているのはおそらく俺のみ。しかし確証はなくて、朱空が俺の請け負った案件について情報を得た際、九ノ瀬もまた朱空から告白を受けているかもしれない。
どうする。
全て話してしまうべきなのか?
「それは」
逡巡も一声の間。
「ただの悪戯だよ」
もしも蒼がことの詳細を既知にしていたらどうしよう。その恐れが今になって背筋を這い上がる。
蒼は眉をひそめて俺の目を覗き込んだ。なんのつもりだ。心眼とか言う奴か?
「悪戯……か。本当に悪戯なのか、律。これはほんとのほんとに悪の戯れでしかないのだな?」
その表現はよく解らないけど頷いておく。
じぃ、と顔を近づけ蒼が目を合わせてくる。息がかかるほどの至近距離。幼馴染みといっても高校二年の男女だぞ、気にならない……んだろうな蒼は。ちなみに俺も気にならない。
「解った。それじゃ律を信じることにしよう。この案件は悪戯で解決、っと」
心眼とやらはどうしたのか。蒼は俺の説明に納得した。まあ、俺も別に嘘を吐いたわけではないので、ならば見抜かれる虚言も元よりない。
軽快なバックステップで蒼が距離を取る。侍ポニーテールがひょこりひょこり揺れた。
「蒼、これ、どういうことか解るか?」
少し気になって訊いてみる。本人に直接尋ねても答えてくれやしないだろうからな。
竹刀袋に得物を仕舞う手を止めた蒼。しかし動作を中断しても会話に集中するつもりはないらしく、目は合わせてこない。竹刀袋の中にカンペでも入っているような格好で蒼が言う。
「これが悪戯だと言うなら解らないな。律の意見を立てはしたけれど、本当のところ私にはこれが悪戯なんかには思えないんだ」
そう言って。
真摯な瞳が久方振りを思わせる区間で俺に向けられた。