5/箱庭少女
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思えば、朱空末那がそこにいる理由を俺は疑問に思ったことがなかった。
何度脚を運んでも必ず朱空と遭遇すること。同じ場所に座って何をしているのか。毎日そこで何を想うのか。その全て、何一つ、俺は不信感を抱かず顔を合わせ言葉を交わした。本来ならそんなことが真っ先に気に掛かるはずなのに。
夕陽の中で、月の下で。
朱空がなにを想ってそうしているのか、そのことがまず何よりの疑問であって然るべきだったのだ。
「ここからが昨日の話の続きなんだけどね」
それが前置き。
遠くに霞む落日の朱色を眺めながら、そのときだけ俺を見上げる黒い瞳。
「約束なのよ。そう思ってるのはあたしだけかもしれないんだけど。……ううん。そんなのは建前。これはあたしの自分勝手な贖罪で、自己満足にしかならない戒め。屋敷を出てあたしがしたかったことってのは、つまりそんなことなのよ」
自分勝手な贖罪。
自己満足。
自分の中から零れた感情でありながらも、そうして自分が手に入れるものは虚しさだけ。似たような部分が俺にもあるから、語る朱空の表情が空っぽなわけが解った気がした。
双色紗季という少女が願ったこと。
俺が好きだった少女が抱いた願い。
幼い頃に正義に憧れた俺が自らの理想を失ったのは、紗季の想いに応えることができなかったからだ。何もかもを救いたいと願っていたわけではない。誰も彼もが幸せであって欲しいなどと思っていたわけではない。俺はただ、自分の手の届く範囲の中で――自分の大切な人が悲しむ姿を見たくなかっただけのに。
それだけの幸福さえ、叶えることができなかったから。
歪んでしまった理想でもそれを持ち続けることが紗季への答えになると信じ続けていた。
「もう十年も前の約束だって言ったよね」
朱空が自嘲気味に笑う。
今ここにある現実も自分自身も、語る言葉の全てが虚構であるかのように。
それは幻想を思わせる赤い世界の中で。
風の吹かない時間の中で。
言葉は哀しい歌のように、声は儚く黄昏に消える嘆きのように。
「――子供の頃、あたしの知ってる世界は小さくて囲われた空だった」
少女の告白は、泣いてるように濡れていた。
「十年前のある日、自分の知らない世界が気になって家を抜け出したのよ。屋敷はバカみたいに大きくて、いくら人がいっぱいいても見付からないように抜け出すのは簡単だったわ。そもそも誰もあたしのことなんて見てなかったからね。何をしたって、そこにいることさえ認めてもらえないのと同じだったから。思った通り、あたしは屋敷の外に出られた。そしたら――この世界は思っていたよりもずっと大きくて広かった。街も、人も、毎日見上げていた空さえも見たことがないもののような気がして驚いた」
子供の知っている世界は酷く矮小で、曖昧な認識に過ぎない。
例えばそれは御伽噺の本の中だったり、テレビに映し出される異郷の景色だったり。なんにしろ現実に目にしたことがない世界を『どこかにあるもの』として知っているだけで、だからこそ本物に触れて驚愕するのは、当然といえば当然だろう。
朱空はそうでなくても、それまで屋敷の中で世界から隔離されていたのだから尚更。
車窓を流れる空と、実際に自分で見上げる空は同じものでも違うものに思えるはずだ。
「だけど、驚きの次にあたしが感じたのは恐れだった。自分の知らない世界の中で、まるで自分だけが取り残されているような感覚が怖かった。自分でも理由の解らない震えが、どうしても止められなかった」
自分の知らない世界。
急激に広がった世界。
それが人に与えるのは、自分の世界の拡張による喜びと同時に僅かな疎外感。
「歩き疲れて座り込んだ。それで考えた。どうして自分は震えているんだろう。なにがそんなに怖いんだろう、って。考えるまでもないほど……答えは簡単だった。膝を抱えて震えながら、あたしはそれを認めるしかなくて泣き出したい気持ちになりながら実感したわ」
少しの間が沈黙を作る。
そうして、瞬いた瞳がこちらを見据えて言った。
「――あたしは、一人だった」
暗い影を落とす声。
憂鬱の色が翳りを見せた表情が、不意に記憶に訴えかけてくる。
まるで、その表情をどこかで見たような、そんな衝動が意識を襲った。
思い出せと。誰かが叫んでいる。
記憶のアルバムは表紙が鉄で出来ているみたいに重く持ち上がらない。
「目を閉じて、いっそこのまま何も見ないままでいようかと思った。次に目を開けたときに、当たり前に存在している世界が怖かったの」
何かが引っ掛かって駆け巡る。
朱空の話が進むに連れて明確な形に変わっていく嘗ての風景が思い出そうとすると離れていく。
「その時だったわ。男の子が声を掛けてきた。どうしたの? って。夢を見てるのかと思いながら顔を上げたら、不思議と目を開けるのは怖くなかった。そこに誰かがいるって思えたことが、それだけのことがあたしには嬉しくて。今まで小さかった自分だけの世界が、その時初めて外の大きな世界と繋がった気がして」
思い出すのは、遠い夕暮れ。
今日と同じ夕凪の、茜色の空。
霞んだ記憶の先にいる一人の少女。白い顔を夕焼けに染めて、涙を零しながら微笑む姿。
消えかける記憶を繋ぎ止めて思い出す。
「手を引かれて走った。不思議と、その背中についていくのが嬉しくて、握り返してくれる手が暖かくて泣きたくなった。それでも涙は出てこなくて、これが、幸福なんだって思えたの。――その子に引っ張られて、あたしはそのとき本当の意味で箱庭を抜け出せた。……嗚呼、これが世界なんだって。もしかしたら、世界はあたしが思っているよりずっと綺麗なんじゃないかって、そう思った」
ぎこちない笑顔を少女が浮かべる。
遠い過去。夕焼けを背中にして同じ景色を見ていた気がする。それがいつだったか。思い出そうとすれば遠退いて行く朱色の世界を手繰り寄せ、そしてようやくそれが形を成して記憶に顕現した。
夕焼けの記憶。濡れた笑顔。大きな瞳。一度だけ吹いた、夜の始まりの蒼い風。
忘れていたのではなく、思い出せなかった。
重ねた時の中で他の記憶が邪魔をし、そこに辿り着くのを妨げていたずっと昔の想い出。色褪せた心の奥の風景。埃を被って色の薄れた、始まりのページを彩る夕焼けを瞼の裏に焼き付けて、
「そうか。……やっと思い出した」
口に出してみると、それはすんなりと受け入れることができた。
二人の始まりの空。埋もれていた欠片を繋ぎ合わせて思い出す。
――また明日。
無邪気な声が聞こえてくる。泥だらけの少年の姿が夕焼けを背にしてそこにあった。
思えばそうだった。全てはあの日、十年前。時の流れの陰に隠れていた遠い夕暮れの景色。
「『また明日』ってね、言ってくれたのよ。お互いに名前も知らないのに、明日もまた同じ場所で会おうって約束をしてくれたの。叶わない願いだってことは解ってた。あたしはこれからまた屋敷に――そうね、あんたの言葉で言うなら箱庭に帰らなくちゃいけない。そしたら、もう次はいつ外に出られるか解らなかった。いくらなんでも半日も屋敷にいなかったんだもん。誰かが気付いてるに決まってるでしょ。案の定迎の車が直ぐに来たわ。いつもの車からいつもと同じ人が出てきて、何もなかったみたいな顔してドアを開けてくれるの。車が動き出してから、窓の外を見て考えてた。あの男の子は明日もここに来るのかなって。そう思ったら、屋敷に帰るのが急に嫌になったわ。あの箱庭に戻れば、あたしはその日手に入れた大事なものを失う気がして怖かった。それになにより約束があったから。……彼がどんな風に思ってるかは解らなかったし、今から考えればそんなに大したことじゃなかったと思う。だけどどうしても、彼に会ってお礼を言いたかったの」
朱空はやはり俺を見ていない。想い出を語る口調はいつからか、想い出に語る口調に変わっていた。
「あたしが知ってた世界は、箱庭から見上げる空だけだった。小さくて囲われた、一人ぼっちの箱庭。だけどその日、あたしは彼と出会って――もっと大きな世界を手に入れた」
少しだけ覇気を取り戻した強い語気。
「彼や、彼の友達といっしょに遊んで笑って――それだけの繋がりがあたしには何より大切な宝物になった。その記憶が元風景。箱庭から出ることを決めた瞬間の想い出なの」
朱空は後ろに手を突いて姿勢を崩す。表情も氷解していて、笑っていなくても無表情でもなくて不機嫌な様子もない。まだ回想を続けているのか、目は焦点が合わずに空に向けられていた。
風が吹いていた。
夜の訪れを告げる微風が夕凪に幕を引く。
「だから、約束が守れなかった自分が許せない。もう一度会うことは出来ないかもしれないけど……きっとそんなのは叶わない願いだけれど、これはあたしに出来るせめてもの償いなの。この場所で、彼がくれたものを忘れないように」
――十年前の面影を探して、二度と現れない誰かを待ち続ける、そんな永遠に果たされない約束が彼女をその場所に拘束する。
話が終わっても朱空はまだ落日を眺めていた。まだ続きがある雰囲気ではない。後はただ残された余韻だけが場を満たすのみ。どれだけ月日が経とうとも変わらない、その夕暮れの空に想いを馳せる少女の姿を、俺はこのとき尊いと思ってしまった。
再会を諦めていても捨てきれない想いを抱いて、いつかその約束が果たされる日をひたすらに待つのみ。
朱空は少年に感謝していると言った。自分に箱庭の外を与えてくれた誰かに礼を言いたいと願っている。
確かに、少年は一時的にでも少女に世界を実感させることができたかもしれない。箱庭の外にある世界を見せることができたかもしれない。だがそんなのは偶然だ。箱庭から抜け出したのはあくまで少女の意思であり、少年の関与は二次的なものに過ぎず――その行為さえ本質は偽善だったのだから。
あの日。
仲のいい、まるで家族も同然の五人で河原を駆け回っていた少年は不意に今にも泣き出しそうな顔で空を見上げる少女を見つけた。
少年は少女のことなんて知らなかったけれど、彼は涙が堰を切りそうな彼女の瞳を無視することはできなくて――自分の前で誰かが泣いていることが我慢できなかったから、少女に声をかけた。それは少女を救いたいという願いなどではなく――自らを守るために他人の救済を装った偽物の正義感。
結果はどうだ。
あれから十年の過ぎた現在。箱庭から脱け出した朱空は、それでもまだ世界に縛られているじゃないか。
少年のしたことは、少女に世界を与えるなんてものじゃない。
こんなこと――箱庭の外の、別の箱庭に少女を幽閉しただけだ。
「叶わないなんてことはねえよ」
俺は、朱空に倣って彼方の空を見据えながら言った。赤い太陽は半分以上地平線に沈み、背後に迫る夜が少しだけ視界に入る。
「もう会えないなんてことはない。俺が、おまえが待ってる奴をここに連れてくる。約束だ朱空。明日絶対に、その約束を果たさせてやる」
「……なに言ってんのよバカ」
出来るわけがない。俺を見上げる黒い眼光が敵意さえ感じさせる鋭さで憤る。
十年も前の約束だ。相手を見つけ出すなんてのは普通なら不可能だろう。朱空にしてみれば俺が言っていることは自分への嘲笑に聞こえているかもしれない。いつもの朱空ならすぐに立ち上がって殴りかかってくるだろう。俺が言ってるのはそんなことだ。
他人の記憶だけを頼りに想い出を再現する夢物語。そんな魔法。
ああ構わないさ。
簡単なことじゃないか。
正義の味方。
少年の壊れた夢。
空想の中の願い。
俺には誰かを幸せにすることなどできないけれど、それで十分だ。偽善で構わない。俺が行うのは朱空の望みを叶えることではなくて――俺自身が置き去りにしてきた契りを果たすこと。
また明日。彼女を縛るその約束から少女を解放するために――俺がいつか無責任に交わしてしまった約束を果たすために。
「……解った。あんたのこと、信じて上げる」
迷いなく言い放った俺を睨みながら朱空。
「どうせ、明日もここにはくるわけだし。あんたの戯言も……まあ、覚えといて上げるわ。精々笑えるオチを用意しておいてよね」
その心配はない。笑えるオチならもう十年も前から用意されているのだから。
誰が書いたシナリオなのかは知らないが、最高に滑稽で劣悪で杜撰であって御都合主義な戯曲だ。
ちっとも笑えやしない悲劇のような喜劇。巡り巡った因果の行き着く夕凪に奏でる最終楽章。
幕を引くのは幕を開けた人間の務め。
十年前に開演を告げた少年。長い長い物語を終演に導く義務を負うのは――他の誰でもなくて、紘井律という俺自身だ。
今なら思い出せる。俺にしてみれば普段と変わらず遊び回った一日だったから印象に薄かったけれど、確かに朱空に声をかけたのは俺で間違いない。風に吹かれて壊れてしまいそうに脆い瞳から涙が流れるのが嫌で、どうしても放っておけなかった。おそらく俺と同じで九ノ瀬達だって覚えていないだろう。それくらいに何でもない一日だと思っていた。
まさか何気なく口にした別れの言葉が十年の歳月を越えて少年を戒める呪いになっていたなんて、夢にも思わず。俺は朱空をずっと待たせていたのだ。
俺が数日前のあの夕暮れに、面識などないと思っていた朱空に声をかけるなんて愚の骨頂をしでかしたのはどこかその風景に見覚えがあったからというなら頷ける。
いくら覚えていなくても、想い出は記憶と世界に残されているのだから。この五人の想い出が染み付いた河原に、そのページは確かに刻まれていた。
「……今日はもう帰る。なんだか疲れちゃったわ」
言うが早いか朱空が立ち上がって歩き出す。
その、少女の去って行く背中を見ながら俺は思う。
終わらせよう。
朱空を箱庭から解放する責務が俺にはある。箱庭少女を、いつかの夕凪の世界に閉じ込めてしまった罪を償わなければならない。俺があの日の少年だということを告げ、そして今度こそ本当に、朱空に箱庭の外を見せてやろう。
しかしその前に一つ。俺が清算すべきはもう一つ残っている。
「朱空」
呼びかけに応じて朱空末那が歩みを止める。振り向いた仏頂面は最後の夕陽に半面を照らさせれていた。
明日の優先事項。わだかまりの中に沈殿するそれを先に片付ける為の猶予を俺は取り付ける。
「また明日な」
さしあたっては。
双色遊季に答えを持っていかなければならない。昨日俺が言葉に出来ず、逃げ続けてきたことに決着をつけよう。
夜の足音を聞きながら俺は、夕焼けの名残に消える箱庭少女の一瞥を返事として受け取った。