5/朱空末那
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そして翌日。
朱空の「また明日」は放課後のことだったらしく、昼休みやその他の休み時間に奴が俺の前に現れることはなかった。しかも終業の後教室で十分ほど待ってみたが、呼びに来る気配もない。一年の時間割が本日二年よりも一限少ないのか、それとも俺から出向けという意味なのか。
しかしよく考えてみれば朱空が場所を指定しなかったのは、それが指定する必要がないと判断したからかもしれず、もしそうだとしたら俺がどこに行くべきかは考えるまでもない。朱空末那の所在地はいつでも決まっている。あの女はいつだってダンジョンの指定位置に鎮座するボスキャラのごとく、自分の居場所を確保していたのだから。そこで会わなかったためしがない。
夕陽の指す場所で。
茜色に染まる世界で。
五人の思い出が残留するあの河原で。
朱空はいつでも彼方の空を眺めていた。
その数分後の事になる。
結果からいうと俺の推論は途方もなく外れる結果となり、解答から遠く離れた的を射抜くことになった。
驚いたのはそこに朱空がいたことではない。あの傲慢で高慢で高飛車な小娘が殊勝なまでにしかもスタンダードに――校門などという常識と照らし合わせて是とされる場所で、まるで誰かを待っているかのような行動をとっていたことが俺にはノストラダムスの予言並みに信じられなかった。
ぱたぱたコンクリートを打つ靴の裏が高速でビートを刻む。
腕組みをして門に凭れかかる表情は果てしなく憤怒に構えていて、爆弾処理班も逃げ出したくなるだろうほど、それは今にも爆発しそうなくらいに膨れ上がっていた。かくいう俺も驚駭して思わず立ち尽くしてしまったのだが。
これはあれか。
俺が、悪いのか……?
そう思ったとき、間が悪いことに朱空の右目が俺を映す。
タタタタタ、と一定のリズムを刻んでいた律動が停止した。俺は心臓が止まるかと思った。
初めに動いたのは首で、次に全身。朱空が大股で歩き出す。怒りの表情で口を固く結びながら目では批難の罵詈を連呼し、
「おっ――そい!」
胸倉を掴まれた俺は顔を背け、右の鼓膜だけでその雷鳴染みた憤慨の咆哮を聞いた。脳を貫通して大気を激震させた槍の一声を受けて、聴覚が麻痺した程度で済んだのが奇跡みたいだ。無事な証拠に黒板を爪で引っ掻いたときみたいな音がしっかり聞こえている。
「遅い遅い遅い遅い! どれだけ待たせるつもりよこのバカ!」
襟元を引き千切らん勢いで体を揺らさせる。
「弁解があるなら聞くだけ聞いてあげるわよ! なんとかいいなさい!」
「俺――は、今――授、業が――」
脳がぐわんぐわん揺さ振られて舌が回らない。
朱空の手首を掴んで強引に引き剥がし、目が回るのを額を摘まんで堪えつつ舌鋒を繰り出す。
「……俺は今授業が終わったところだ」
「言い訳なんて最低ね!」
「マジで聞くだけかよ!」
罪の所在が本当に俺なのか誰か教えてくれ。もしもそうなら俺がどうすればいいのかも補足しろ。
聞けば、朱空は一時間もここで俺を待っていたらしい。教室で立てた仮説の一つが当たっていたわけだ。一年の時間割と二年の時間割を重ねると週に二回ほど授業数にずれがある。都合の悪いことにそれが今日だったのだ。
俺は弁明の中で朱空を賺し、どうにか会話ができる状態にまで安定させた。前にも似たようなことをして似たようなことを考えた記憶があるが、結果だけは違うものになってくれていることを祈る。
「……まあいいわ。待ち惚けは慣れてるから。その代わり貸しだからね」
祈りは天に届いた。
慣れてると思える要素は一片たりとも感じられなかったが。この貸しとやらがいつどんなタイミングで廻り帰ってくるのかは解らないが、この場を鎮めることにはどうにか成功したらしかった。
「じゃあ行くわよ」
「どこに?」
「決まってんでしょ。河原よ」
そりゃあそうだろう。しかしだとしたら何故校門で待っている必要があったのか。どうせならいつもみたいに先客として土手に着座していればよかったのに。
それを口に出すと朱空は、
「別にいいじゃない。どこで待っててもあんたには関係ないでしょ」
厳密には関係している気がするのだが。
朱空が声を荒げる。
「いいから。あんたに拒否権はないのよ。ほらぼさっとしてないで行くわよ」
颯爽と髪を翻す。その小さな背中が群れを先導する肉食獣を俺に思い出させ、黒の一瞥に促されて俺は遅れながらも朱空を追った。いつかのように後ろにつく。すると五歩の間に俺は朱空に並んでしまった。原因は考えるまでもなく俺の隣の女が歩調を緩めたからで、そうと解っていてまた一歩身を引くのも無粋である。
朱空は何も言わなかったので俺も黙っていた。
語ることがあるとすればそれは朱空にあって、そのときは今じゃない。
河原に到着するまでの会話は結局なかった。
落日に赤い世界は今日も変わらず夜へと進行する途中の静寂。長く延びた影が夕陽とともに赤と黒のコントラストを生み出す。
「話があるんだろ。昨日の続き」
そろそろ黙っているのにも飽きたと、口火を切ったのは俺の方だった。本題を急ぐ理由はなかったが、これ以上沈黙の空気に耐えられなくなったのだろう。別に浮わついた展開を期待していたわけではない。朱空の表情は河原に近づくに連れて徐々に、憤怒とは違う暗い感情を燻らせ始めていたのだから。
「そうね」
朱空が振り返る。
「それじゃあ……何から話そうかな。希望を聞いてあげるわ律、何から聞きたい?」
「何からって……」
続きはまた明日と宣言したのはおまえではないか。希望もなにもない。俺は半分朱空の意思でここに脚を運んだ。この後の展開に口を出すつもりはないので、適当な段取りで話を済ませてくれればいい。
「自己主張のない男ねえ。昨日は聞いてもないこと一方的に話してきたくせに」
「昨日は昨日で、今日は今日だ」
明日には明日の風が吹く。俺だって年に一度くらいは頭の調子が狂う日があるのだ。
切欠さえあれば。
人間なんて存在は簡単に壊れてしまう。
「あっそ。そんじゃ、まず先に謝っておこうかな」
射光の影で、俺はそれを言ったときの朱空がどんな顔をしていたのか見ることができなかった。加えて言うなら、ただでさえ窺い難い状況であったにも関わらず目標があっさり視界から離脱したことも原因の一つである。
小走りに、少女の体が逃げていく。
手を伸ばしても届かない距離に立ってから一度振り返り、さらに四歩後退する。
苦笑い。朱空が声を出さずに笑う。謝るとか言う割りには茶目っ気などまるでない。似合わない仕草だった。酷く歪で笑っているのに泣いているような、それはおそらく自分を偽ることをしてこなかった少女がはじめて見せた偽物の感情だったからその矛盾がそうさせたのだろう。
朱空が取り出したのは一枚の、見覚えのある紙切れ。それを手早く折り畳んで、完成形が直ぐにその翼を広げた。朱空が作ったのは紙飛行機。長方形の紙から産み出された細い造型のそれを、軽い手首のスナップで飛ばす。
「ごめんね律、それ、あたしなんだ」
風が吹いてなくてよかった。素材が薄っぺらい紙であるこの飛行機は、そよ風にさえ流されてどこかに行ってしまうだろうからな。届いたと言ってもそれは夕凪が果たした奇跡に近い現象だったように思える。
この意図が読み取れないほど俺も鈍感ではない。
俺は出来立ての飛行機をばらして中に書かれた文字を拝読した。
「……おまえだったのか」
たすけて。
いつか生徒会室で見たのと同じ文字が紙面に躍る。散々俺を振り回した無責任な四文字が今またこうして眼下に姿を表した。
「あんたが捜してたはぐれ者……ていうか、それはあんたの勘違いなんだけど……それ、あたしなんだ」
「なんで知ってるんだ。俺がこれの投書主を捜してるって。言ってなかったはずだろそんなこと」
「今日の昼休みに生徒会長……渚に聞いたのよ」
「会長様が守秘義務を放棄したってのか」
「昼ご飯いっしょに食べよって誘ったら洗いざらい吐いてくれたわよ。すっごくちょろかった」
リアルに想像できてしまう。俺には隠密行動を指示しておいてご自分は飯の肴に。生徒会長の特権を最大に生かしていやがる。それとも悪戯として片をつけたから、もう秘密にする必要もないと判断したのか。軽薄な行動であることに違いはない。
「どういうつもりだ、こんな悪戯」
「だから謝ってるじゃない」
俺には謝るのではなく居直っているようにしか見えない。胸を張って踏ん反り返りながら手は腰だからな。
朱空に謝罪の意思があるのかないのかは一度問題から外すとして、そうなると一つ解らないことがある。それは俺が九ノ瀬に案件を押し付けられた昼休みの朱空の言動だった。なぜ生徒会室に朱空が現れたのかは例の投書の為として、それを隠す為に吐いた嘘が解らない。
人を捜している。
朱空の依頼は咄嗟に口を衝いたただの言い訳でしかないというのだろうか。
その後に続く、策とやらも。
俺の助力を執拗に拒否したのも元々依頼が嘘っぱちだったならば納得がいく。
「勢いで言っちゃったのは本当だけど、でも全部が嘘ってわけじゃないわよ」
黒髪が揺れる。風の吹いていない河原に座り込む朱空。
その姿がいつかの少女と重なった。
朱空は初めて見たときと同じ寂寥の感で滲む遠い瞳を夕陽に向ける。
「捜してたわけじゃない。でも会いたいと思ってるのは嘘じゃないのよ。だからあたしはこうして――」
泣き出しそうな横顔が、黄昏に浮かべた思い出を見上げるように。
「――ずっと、ここで待ってるのよ。二度と会えないかもしれなくても、それが約束だから」