4/箱の中の偽善
/3
「ねえ、大丈夫あんた?」
どれくらいの間そうしていたのか、人の声を聞いたのがずいぶん久しぶりに感じた。
辺りはもう陽が落ちた後らしく頭の上からは街灯の明かりが注いでいる。どうやらそれなりに長いこと自失状態に陥っていたらしい。今何時だ。星や月、道を行き交う人気のなさから推測してあまり早い時間とは考えられないが。
「ちょっと聞いてんの? 人が心配して上げてるのに無視とはいい度胸ね」
顔をほぼ真上に向ける。膨れ面の朱空がいた。
「いたのか朱空」
「……名前」
頬がさらに膨らむ。朱空は主語も述語もない、単語のみの発言をして、
「なーまーえ!」
理不尽に怒髪した。
「あたしを名字で呼ぶなって言ってんでしょ! 嫌いなのよ。いい? 今度からちゃんとルールは守ること!」
「断る。俺にも俺の主義があるんだよ、朱空。いつからいたんだ?」
「……さっきからよ。なに、悪い?」
「誰も悪いなんて言ってないだろ」
「夜の散歩してたら道の端っこに回収され忘れられた粗大ごみを見かけたから近付いてみたら、あんたが座り込んでたってわけ」
「そうか」
納得しかけて、
「……誰が粗大ごみだよ」
「一応つっこむのね」
どっちがボケたのかよく解らないやり取りが展開された。
夜の散歩。朱空はそう言った。なら夕方のあれこれは目撃されていないだろう。あれはあまり人に見られていて気持ちのいいものじゃない。俺自身の記憶からも削ぎ落としたいと思うくらいだ。柄にもなく凹んでやがる自分が気に入らない。
「なんかあったの?」
「なにも。あー、今日最終回のドラマ見逃した」
「こんな時期に最終回ってなによ」
「だったら第一話」
「その時点で嘘だってバレバレよ。なんかあったんでしょ。バカでも凹むようなこと。隠してもダメなんだから」
どうしてこう、この小娘は人の傷口に塩を塗り込むばかりか、麻酔なしで心臓を切り開いた上でずかずか心の中をスパイクで踏み荒らすのか。ちなみに心臓を開けば心が見えるのかは俺にも解らない。どちらかといえば頭の方が適切なのだろうか。
などと適当なことを言いながら適当なことを考えて、外では朱空を、内では自分を誤魔化そうとしてみる。今はなんでもいいから気を紛らせたかった。
とすん、と軽い音がして隣を見る。そうするのがまるで当たり前みたいな顔をして、朱空が脚を伸ばして斜面に腰を下ろしていた。
「どうでもいいけど、隣であんたが辛気臭い顔してるとあたしまで気が滅入ってくるのよ。なにかあったなら聞いて上げるから話しなさい。それが嫌ならそんな顔しない。ほら、どっちがいいの?」
俺には何故自分が朱空の怒りを買っているのかさっぱり解らない。それに俺が取る行動の選択肢に帰宅が含まれていないのはどういうことだ。俺が退散すれば解決するじゃねえか。それかおまえがどっか行けばいい。
「ダメよ。だってここはあたしの特等席って決まってるんだもん」
「誰がいつそんなことを決めたんだ」
「あたしが今この瞬間決定したのよ」
ようするに移動する気はないわけだな、おまえは。
街灯が照らす範囲はそれほど広くない。光の中に人間二人が体を納めようものなら肩が触れ合うくらいには身を寄せ合わなくてはならなくて、それにも朱空は躊躇いなく寄り添ってくる。なにがしたいのだこいつは。人肌が恋しくなる病気にでも罹ったのか?
俺は空を見ていた。朱空もおそらくそうしていただろう。
平坦な調子の声が隣から聞こえた。
「夕方のこと気にしてるの?」
遠慮など露ほどにも見せやしない。憚りない口調で朱空が訊いてくる。
「ずっといたんじゃねえか。何が夜の散歩だ」
「気を遣って見付からないように隠れてたのよ。お取り込み中みたいだったから盗聴だけして、様子見してたのよ。相手の女が帰ってったのに、あんたってばそのままぼーっとして、最後には座り込んじゃってさ。出て行ける空気でもなかったからとりあえず帰ったわ。で、時間経ってから来てみたら、あんたがまだバカみたいに座ってたってわけ」
俺は、色々とぶつけてやりたい文句の弾幕を振り払って嘆息した。がっつりこっちの事情を解っていながら再三俺の口からそれを言わせようとしていたのなら、こいつは悪魔そのものだ。
「別れ話って雰囲気じゃなかったわよね?」
「そんなんじゃねえよ。それにおまえには関係ない。つうか聞いてたんじゃないのか」
「遠くからだもん。はっきりとは聞き取れないわよ。雰囲気が尋常じゃないことと、あんたが叫んでたのくらいは解ったけどね」
あのときの俺はそれほどに大きな声を出していたのか。朱空の他にギャラリーがいなかったことを切に願う。
「それにあたしがあんた達を見付けたときにはかなり話が進んじゃった後みたいだったし。二人とも周りのことなんて頭に入ってない感じで、そこだけ別の空間みたいで近寄り難かったのよ」
大っぴらに開放した屋外で知らぬ間に境界線を引いていたなら、それはもう相当だったのだろう。当事者の俺が他人事のように推量で語るのもおかしな話だが、逆にことの中心にいたからこそ客観的な事実の予測が難しい。台風の目はいつも晴れているから、周囲の被害規模は解らないのだ。もっとも今度の場合、その中心に手榴弾が投げ込まれたような結果になっているのだが。
「約束とか言ってたでしょ。あんたが何かの約束破って喧嘩にでもなったの?」
「そんな簡単なことならよかったんだけどな」
約束を破ったのかどうかすら、俺には解らないのだから。
俺が紗季と交わした約束。
紗季が最後に言った言葉。
それはただ一つの望みを、忘れないで、と彼女は哭いた。
「朱空、おまえ夢ってあるか?」
唐突に俺はそう切り出した。
「なにそれ、どこの熱血教師になったつもりよ。……そういうのはないかな。それがなに?」
「俺はさ、昔、正義の味方になりたかったんだよ」
「バカなの?」
「そうかもしれない」
ホンモノの痛い奴を見るで朱空。俺は自嘲して返した。
ある少年の物語。
よくある話かもしれないが、少年の家庭は両親の仲があまりよくなかった。毎日口喧嘩が絶えないだとか父親が暴力を振るうだとか、そんな解り易い不仲ではない。その家族にはそれさえなく、彼らはただただ互いに無関心だけ。
彼が知っているのはいつも無表情の父と母。家の中には会話がなく、テレビでも点いていない限り静まり返っているのが常。子供だった少年まで、真似をして息を潜める始末。呼吸をすることさえ苦しくて、家の中は監獄か何かみたいだった。
普通の家族を知っている人間が見ればそれは間違いなく異常だっただろう。その家の住人は生きているのではなくただ漠然とそこに存在しているだけで、生活してるというよりも毎日規則的な活動を繰り返しているだけだったのだから。
まるで箱庭。
意思のない人形が、囲われた世界の中を動き回っているだけの作り物。
少年が五歳になる頃には、その家族は極自然に崩壊していた。崩壊といってもそれまであった何かが壊れたりしたのではなくて、もともと、何もなかったのだから崩壊というのも間違っているかもしれない。それでも彼らが家族としてあった理由となる柱みたいなものが、ある日突然折れてしまったのだ。
それは本当に自然に、子供の彼にも解るくらいにそれは当たり前で――少年は悲しいと感じることさえ許されなかった。失うことを、当然のように受け入れることしかできなかった。
一つだった家族が二つに割れて、少年は母親に連れられてそれまで自分のいた箱庭を出た。切欠というならそれがそうなのだろう。新しく住む家――安物のボロアパートだ――が見付かったその日の夜。母親は少年に言った。
――ごめんね。
少年にはなぜ母親が謝っているのかも解らなければ、どうして泣いているのかも解らない。そのとき彼にあったのは自分が母親に話しかけられたのだという驚きだけで、それ以上のことは考えてはいけない気がした。
母親は声を殺して泣いている。
感情さえ忘れかけていた少年にも、涙の意味は理解できたから。
それが哀しいことだとは解ってしまった。
――どうして泣いてるの?
少年が尋ね、母親は答えずに彼の背中に手を回す。いつかもっと小さかった頃に感じた温もりが直ぐ傍にあって、それは小さく震えていた。母親に抱き締められてようやく気付く。今、母を泣かせているのは自分なのだと。幼い心は震える体に触れて理解した。
どうして。
どうして、泣いてるの? お母さん。
先に泣いていたのは。
自分だというのに。
その理由が解らなくて涙が止まらない。
自分を抱き締める人の嗚咽がこんなに苦しいなんて、知らなかったから。
人の想いがこんなにも温かいなんて、忘れていたから。
それが自分の忘れていた大切なものだったから、思い出せたことが嬉しくて泣いていたのか。その大切なものを既に半分失ってしまったことが悲しかったのか。彼には解らなかったけれど、この思いだけはずっと忘れないようにと心に決めた。
いつかこの日が傷痕になったとしても。
――今は痛みさえ愛しいと思えたから。
それがはじまり。
次の日から母親は毎日少年に話しかけたし、少年も毎日笑って返事をした。まるで親子みたいだと、少しだけ幸せを感じながら。二人は本当の親子だというのに。
あの日母が泣いたのは、自分の家族を失ったからだと少年は思った。同時に、彼からも同じものを奪ってしまったから。どれだけ空虚な世界でもそこは虚構ではなかったのだから、失って悲しくないわけなどなかったのだ。
だから少年は小さな誓いを立てた。
母を泣かせてしまった自分に十字架を背負わせるように、小さな胸に不相応な大きさの願いを懐いた。
――この家族は、自分が守るから。
母と自分の新しい世界を、二人だけになってしまった家族を守ると決めたこと。それが少年の原初の夢。ちっぽけで理想まみれの幼稚な夢が少年にとっての全てになった。
「――正義の味方なんて大それたものじゃなかったんだ。母親一人だけのつもりが、気付けば俺は俺の周りで誰かが悲しむのが嫌になってた。それも誰かの為なんかじゃなくて、誰かに悲しまれるのが嫌だから、俺は俺自身の為にそれを願った」
特に自分の近くにいた人間には。
「……あんたが生徒会の手伝いしてるのってそれが理由なの?」
「さあな。忘れたよそんなこと。俺も九ノ瀬も気付けば今みたいな関係になってただけだ。恩返しってんなら、それは一生できなくなっちまったからな」
恩があったというならそれは紗季にだからな。
なんにしてもあの四人は俺にとって大切な存在だし、感謝もしてる。あの頃連中がいなければ俺はきっと潰れていたと思う。なんにしても家族が半壊しあまつさえ失った直後にその重さを知った子供だったのだから、拠り所がなければもたなかっただろう。
初めに気付いて話を聞いてくれたのが紗季で、それだけのことがあの頃、俺にとって最大の救いだった。もしかしたら俺の押し付けみたいな正義感が家族の枠だけに留まらなかったのは紗季に憧れたからかもしれない。
朱空は歯痒い表情をしていた。どこにぶつけていいやら解らない葛藤を抱えていて、それがどんな感情に当たるのか解らず表現できないといった感じである。
どこかで変なスイッチが入ってしまった俺が続きを語ろうとして、朱空がそれを制した。
「もういい解った。それ以上は必要ない。聞くだけ時間が無駄だわ」
「……」
「もう、いいから。ちょっと頭冷やしなさい。あんたどっかおかしいわよ。バカに拍車がかかってる」
やおら朱空が立ち上がり、どこに行くのかと俺は目で追ってみる。朱空はどこ行くではなく一歩後ろに下がって半転するとまた膝を曲げた。背中が重なり合う。あの野郎、人を椅子の背凭れかなにかと考えているのだろうか遠慮も躊躇もなしに体重を傾けてきやがる。決して重くはなくても、いいようのない違和感がどうしても生じる。
「後ろ向いてて上げるから、今なら泣いてもいいわよ」
茶化すように馬鹿にするように――どこまでも不器用な優しさを含んだ声がそう告げる。
「馬鹿言うなよ」
余計なお世話だ。
「あんた今はどうしてるの?」
「高校に上がってからは一人暮らししてる。母親が再婚することになったんだよ。相手は一応俺の正式な親父で、つまり前の旦那だ。俺は今更昔の家に戻りたいなんて思わなかったから、一人でこっちに残った」
母親の話だと三つ下の妹がいるそうだが、これだけ長い間顔を合わせていなければ兄妹なんて意識はあってないようなものだろう。名字が同じで血が繋がっていても、通っているのはそこまで。これまでの時間が作った空白を埋めることなんてできない。
たとえ家族でも。
ならば友人なら尚更に。
俺と、俺や他の連中が過ごした日々に紗季がいなくて、空いてしまった穴はどんなことがあっても埋められやしないのだ。遊季がどうしてあんな真似をしたのかは俺には解らないが、あいつはそれによって空白を埋めようとしたのかもしれない。
双色遊季にとって双色紗季は姉というだけに留まらず、自分の分身にも似た存在だった。
紗季がいなくなったことは遊季にとって、自分が半分欠けたのと同じ意味を持つ。
「そっか。あんた、家族とか友達とか、そんなのを優先して生きている人間なわけね」
寂寞の声が、
「……あたしには、そういうのよく解らないかな」
星に呟くように朱空はそう吐露した。
「あたしの家――朱空は地元では大き目の旧家なのよ。このビル社会に信じられないような武家屋敷が家でさ。本当、バカみたいに大きな家よ」
俺は遊季の言葉を思い出す。いいとこのお嬢様。お嬢様とかの柄では間違いなくないけれど、いいとこの出であることは当たっていたらしい。人は見かけに依らないと言うが……いや、朱空の場合だと見てくれではなく挙動だろうか? どちらにしても俺が面食らったことに変わりはない。
「大きな屋敷で、人もたくさんいた。けれどあたしはその中の誰が自分の親なのか解らないままだったわ。小学校と中学校はいつも使用人みたいなのが車で送り迎えにやってきて、家に帰ったら用意されてるご飯を食べるの。誰一人あたしに構ってくれやしない。悪い意味で完全放任。だけどね、その反面であたしが屋敷から出ることは厳しく禁止されてた。あたしが知る外の景色は、庭から見上げる空と、車の中から見える世界だけ。あたしね、そんな風に十五年も育てられたの」
あっけらかんと捲し立てるように朱空は言い切る。俺は、発言のターンが自分に回ってきたことを自覚しつつもなんとコメントしていいやら困惑するばかりで口を開けずにいた。
朱空はさらりと言っているが、こいつが育った環境は明らかに異常だ。そんなこと俺にだって解る。朱空はずっと囲われた世界の中で過ごしたという。誰と言葉を交えるわけでもなく。誰に愛情を向けられることもなく。完全な無関心の支配に束縛されて。
俺が世界を奪われた人間だとしたら、
朱空は世界に奪われた人間。
囲われたセカイと箱庭少女。
「今もそんな生活をしてるのか?」
「高校に入るときに家を出たわ。というよりも逃げ出したって言った方が正確ね。……ああ、逃げたなんて言っても脱獄みたいなことイメージしないでよ。これでも了承は取ったんだから。二つ返事だったわよ」
背中合わせに聞こえる声。朱空がどんな顔をして話しているのか無性に気になる。
そうか、と相槌を打ちながら俺は朱空がやたらに自らへの呼称を名前にしろと強要してくる理由を理解していた。朱空にとって名前は、唯一にして無二である世界との繋がりで個人の証明――おそらく朱空の両親がこいつに与えた最初で最後の愛情だっただろうから。
「本家の血筋なんだけど、男じゃないと家督は継げないらしいのよ。あたしはそんなもんに興味はなかったけど、あのままずっと家に縛られてるのが嫌だった。どうしても外に出ないといけない理由だってあったしね」
俺には朱空の家が下した決定の背景など読めない。朱空は自分が家を出ることはイコールで厄介払いだと考えているみたいだが本当にそうだろうか。朱空はまだ朱空の名前を使っている。つまり破門や勘当を受けたわけではない……と思う。俺には旧家のシステムなんて解らないからな。断言はできない。朱空家は朱空末那という人間を開放したつもりなんじゃなだろうか。巨大な箱庭の中から外の世界へ。
彼女がそれを望んだからこそ。
世界を与えた。
……なんてのは流石に綺麗事で解釈し過ぎかもしれない。朱空の言う通りただ単に世襲になれなかった娘が必要でなかったという説も十分有り得る。どちらが正解かなんて、考えたって俺には解りやしない。
「だからあんたのことが解らない。あたしは自分より他人が大切だなんて思ったことないし、そんな風に考えるなんてことなんてのもこの先きっとない。あたしにとって家族はただ同じ屋敷で暮らしてる他人に過ぎなくて、学校の友達なんてのも……相手がどう思ってるかは知らないけど作らないでいたつもり」
あたしは違うものだからね。幻聴を疑うほどに聞き取りにくい声で朱空は自虐的にそんなことを口にした。文字通り、住む世界が違うと。その言葉は多分、そう言ったつもりだろう。
例えるならばかぐや姫。いつか失ってしまうと解っているから初めから近付けない。距離を隔てていなければ触れてしまうから遠ざける。手に入れたものの暖かさを知ってしまったら、手放したときに悲しいから手に入れない。別れるくらいなら出会わない。それができないから必要以上に近付かなかった。
ふと疑問が浮かぶ。朱空の言う『しなければならないこと』とは何なのだろう。
よくよく考えれば矛盾しているではないか。今までの話からだと、朱空は高校に入るまで屋敷の外の世界とはほとんど繋がりがなかったはずだ。外の世界に残すものが何もないように毎日箱庭に戻る日々を繰り返していたというなら。
しなければならないこと。それが他者に課せられたものでないとしたら朱空は、世界に未練を残していることになる。そしてそれは家を出る決意をさせるほどに、朱空の中での最優先事項。
思い当たる節がある。
「余計なこと、考えてるでしょ?」
後ろに目が付いてやがるのかこの小娘。それも千里眼とか心眼とかの類いだ。なんで表情も見てないのに俺の胸中が透かせるのだろうか。拍動か心拍がモールス信号にでもなって伝わっているのかもしれない。
「その『しなければならないこと』てのは、おまえが捜してる誰かに関係してるのか?」
あるいはそいつを捜し出すことがそうなのか。
真偽がどうなのか、その答えは期待していなかった。
「残念でした。それは違うわよ」
にもかかわらず、朱空は存外あっさりと口を割った。
「まったく関係ないわけじゃないんだけどね。……あたしもあんたと同じでね、約束ってのがあるのよ。もう十年も前の約束だけど」
十年前、としたら朱空は俺の一つ年下だから当時五歳だ。そんな古い約束とやらを殊勝にも記憶していて今からでもそれを行動原理にしていられるなんて。俺が思うより朱空は義理堅い奴らしい。十年も前の約束なんて、相手は覚えてもいないだろうのに。
いや待て。
五歳だと? そんな頃にどんな約束をしたのかなんてことは知らないが、そもそも約束なんて成立するのか。
朱空家が外交に閉鎖的な家系なのは間違いない。加えて齢五つなんて子供なら、一般家庭であっても放置はしない年頃だ。外出の際には送り迎えが車で行われていたというし、だったら家の外の誰かと約束を交わすシュチュエーションなどない。十年が経って尚も自らに影響を及ぼすほどに強力な契りを、ただでさえ他人を避けていた朱空が交わすだろうか。
若さ故の過ち、とは五歳児にも当てられる言葉であるのかを俺が考えていると、突然背中にかかっていた負荷が消失した。解ったことが一つ。朱空が俺に体重をかけていたのと同じように、俺もまた朱空に凭れる形になって負担を軽減ないし相殺していたらしい。なので同一直線上から同大の力が消えて、慣性により俺は仰向けに体を反らすことになった。
「今日はここまで。あんたも落ち着いたみたいだし、いつまでも悄気てないでさっさと家帰りなさい」
後輩に言われることではないな。
いつぞやのように背中を見せる朱空。振り返らず、
「続きはまた明日」