4/二つの季節
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蒼が俺に伝言を伝えるよりも先。本日の俺は別件でもう一つの呼び出しを受けていた。
ことの始まりは自宅の扉の隙間に挟まった一通の封書で、なんだろう最近紙切れに俺の生活は支配されているのではないか、と思いつつ二つ折りの用紙を広げる。そこには放課後校門にて俺を待つといった旨のメッセージが書かれていて、一見したところ内容自体は何の変鉄もない。問題は文末を括った差出人の名前だ。
三回見直したが三回とも同じ内容と名義であり、封書を差し込んだ人物は――双色紗季を名乗っていた。目安箱に投書するよりはまともな手法といえるだろう。しかしいくら俺の住む安アパートといえども部屋の前に郵便受けくらいは設けられている。ドアの隙間に挟むなんてことをしたのは、俺が新聞を取っていないため週に一度ほどしか中身の確認を行わないのである意味正しい方法なのかもしれないが。
放課後までこのことは誰にも話しちゃいない。九ノ瀬には言ってみたが、どうせ本気にはしていないだろう。俺だって信じられないくらいだ。
担任がホームルーム終了を告げるや、俺は蒼がやってきて談笑を始めようとしたりする前に教室を飛び出した。手紙には時間指定までなかったので、だらだらしていると頃合を逃してしまうかもしれない。待たせるよりも待つ方がいいはずだ。
そして五分も経たない内に俺は唯一指定のあった校門に思惑通り先回りすることに成功した。
以上が本日、今に至るまでの顛末である。
待たせるより待つ方がいいとは言ったが、それも待ち時間が十分やそこらの場合だけだ。俺は振り返って校舎の時計を見る。時刻から察するに全てのクラスが既にホームルームを終えている頃だった。放課後というなら今こそ完全な放課後だ。
帰宅する生徒の波がピークを過ぎて静けさを取り戻した校門前。聞こえてくるのは遠くから響く運動部の掛け声や吹奏楽部のオーケストラ。
こちらに向かう生徒の姿は今のところない。そのことを確認した俺は嘆息することもなしに待ち惚けを放棄して家路につくことを決した。
「あー、律!」
背後からの声に脚を止めて振り返ると、俺がそれまで背もたれにしていた壁からひょこりと顔だけを出した少女の姿が見当たった。その少女は驚愕の表情をして俺を見、飛び跳ねるような勢いで駆け寄ってくる。
手紙の意を、俺は間違って汲み取っていたらしい。校門とだけ指定された場所は、門の内側を指していたということか。通りで待っていても来ないはずだ。お互いが既に到着している相手を持っていたのだから。
「ごめんごめん! 外で待っててくれたんだっ。気付かなかったよ。あはは、何かおかしいね。あれ、どうしたの? ……なーんか浮かない顔してるね。大丈夫?」
訝しむ声と表情が、くすり、と零れた笑顔に霧散する。
「ほら、テストっ」
ささ、と背中をとられる。その意図を読み取る前に俺の視界が覆われた。何の真似だこれは。
「さて、わたしは誰でしょうか?」
「……」
そんなこと、考えるまでもない。
さっきまで見ていたのだから、間違えるはずがない。
俺は言った。
「…………紗季」
その名前を提出した。
「正解っ」
開放される視界。夕陽が目に痛い。
細めた視界に笑顔の紗季が戻ってくる。
「よかった。律のこと怒らせちゃったかと思ったよ。でも待たせちゃったのは変わりないから……ごめんね?」
悪びれる様子の欠片もなく手を合わせる。
「ねえ、なにか言ったら? さっきからずっと黙ってるけど。……やっぱり怒ってるの?」
「怒ってない」
「嘘だ。怒ってるでしょ」
「怒ってねえって」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあキスして」
「なんでそうなるんだよ!」
どこのバカップルだ。ちなみに忘れてはいけないことにここは学校唯一の出入り口である。外客や中から出て行く生徒達も皆無ではない。擦れ違うたびに浴びせられる視線が質量を持って突き刺さる感覚を俺は絶賛体感中だった。何の罰ゲームだよ。
「なんだ。してくれないのか。……律の甲斐性なし」
古臭い。
毎日通う高校の真ん前は、甲斐性も根性もない。というより常識や理性があると評価されるのが正当のはずだ。
「いいけどね、律はそんなだってことくらい昔から解ってたことだもん」
拗ねた風に口を尖らせる紗季。
「仕方ないなぁ……律が気にするなら場所を変えよっか。人気のないところならいいよね?」
「どこにしたってよくない」
「冗談冗談っ。顔赤くなってるよ? あは、やーらしい」
心底楽しそうに笑う紗季と、対照的に沈んでいく俺。
釈明に聞こえるかもしれないが顔が赤いというのは真正面から夕陽が差しているからだ。
双色紗季。俺の幼馴染にして――初恋の相手でもある。というよりも恩人に近いかもしれない。誰かを好きになったことがなりから、それがそういうことなのかも解らないので便宜上そんな風にずっと思っていた。何にしても普通より好感を持っていたことには違いない。
「じゃあ、行こっか」
油断している隙に手首を掴まれる。走り出した紗季に合わせて歩幅を広げてついていかなければならない。なので必然、俺も走ることを強制されていることになる。いまいち状況が飲み込めなかったが、振り払おうとしても紗季の手が俺の手首を離す気配はないのでとりあえず走った。
「待てよ、どこいくつもりだ!」
決してジョギングに収まらない速度で走っているため呼吸の乱れに伴い語調が強くなる。
舌を噛みそうで不安だった。
紗季はスピードを落とさず笑顔で振り返る。それがあまりにも双色紗季が持つ表情と同じだったから、目の前のそれを見るのが少し戸惑われた。
「いいから、ついてきて! 大丈夫だよ――律もよく知ってる場所だから!」
手首を握る力が強くなった気がする。
明かされぬ目的に疾行する速度がまた上がる。
一つだけ不安があるとすれば、行き着く先よりも転んでしまいそうで危ういこの状況だった。
*
高校生にもなって道端ですっ転ぶというお笑いはどうにか回避できたことにひとまず安心した。といっても最初から最後まで走りっぱなしではなく、百メートルも走れば息の上がった紗季が俺の手を解放した時点から歩き始めたのだが。体力よりも大通りを疾駆する謎の高校生として珍妙なものを見る目を向けられるのに精神力がもたなさそうだったので助かった。そのような羞恥に耐えきるだけの自信はあいにく持ち合わせていない。
紗季の歩みが止まったのはいつもの河原だった。
見渡しのいい周囲を確認する。遠く視界の果てまで見通して、そのどこにも朱空の姿は見当たらない。ここにくればお約束みたいに現れる奴だから鉢合わせになるかと危惧していたがどうやらその心配はなかった。
「はい、ここでした」
案内を終えた紗季がバスガイドみたいに到着を告げる。
途中から何となくそうじゃないかとは予想がついていたから、特に驚きもない。ここにくる理由も思い当たる節があるので、残る疑問は今更こんなところで何をしようというつもりなのかとそれだけだった。
「懐かしいね」
「俺は毎日通ってるからそうでもないな」
それだけでなく、最近は一悶着起こした挙げ句土手を転がったり裸眼で天体観測したりキャッチボールしたりと、懐かしむには既に色々あり過ぎた。
「違うよ。そういう意味じゃなくってさ。昔はよくみんなで遊んだでしょ、この河原で。横を通ることはあっても、こんな風に下まで降りてくるのは久し振りだよ。それに律と二人だけでくるのははじめてだしね」
小学生の頃。
五人の遊び場になっていたこの河原。
昔から近くに公園も空き地もなかった俺達にとっては遊ぶ場所といえばここだけだった。
「覚えてるよね、律」
「朧気には」
「怪しいなぁ。もしかして忘れてたとか? 酷いなーみんなの想い出の場所なのに」
そんなことを言って、紗季は河辺に走って行く。ゆっくりと流れる水は今夕焼け色に光っていた。
子供の頃の想い出。
とりわけ他の小学生と違った日々を送っていたわけでは決してない。俺の記憶にあるのは、そのままどこにでも転がっていておかしくはないほどに極普通の毎日。仲のいい五人と陽が暮れるまで駆け回った記憶。
大きな事件が起きたこともない。代わり映えのしない毎日の繰り返し。けれどそれは二度とない一瞬で、今更なにをしても手の届かない彼方の景色。だから今になってやっと、楽しかったと思えたのだろう。
その日々を愛しいと。
叶うことならもう一度と。
――そんなことを考えないように、ずっと忘れようとしていたのに。
「ねえ律」
河を背にして立つ紗季の姿。手を後ろに組んだ姿勢で改まった口調に名前を呼ばれる。
「昔のこと、本当に忘れちゃった?」
蠱惑的な潤みを含んで、琥珀色の瞳が真摯に問いかける。
「いいや。忘れてることもあるだろうけど、なにも全部忘れちまったわけじゃない」
「それって答えになってないよ」
薄く微笑んで肩を震わせる。
俺は呼吸を落ち着けて目の前の少女を見直した。想い出に変わらない笑顔がそこにあり、琥珀色の瞳はやはり寸分違わず双色紗季の色を帯びている。けれどだからこそ俺はやっと確信できた。
今が夢でないことと、やはり願いは願いのまま叶わぬこと。
二度とはそこに存在しない遠い日の想いを繋いで、今ここにある現実に目を向ける。
「覚えてるよ、ある程度は。全部忘れたわけじゃない」
へえ、と含み笑いした紗季が小さく声に出す。
「渚が他の小学校の上級生と喧嘩して、結局爽架が一人で男の子五人くらいやっつけちゃったこととか」
「そんなこともあった気がする」
「爽架がみんなでした肝試しで大泣きしたこととか」
「剣道の全国大会に出た記念だったか? いや、優勝の祝賀だった気もする」
「律が遊季に告白した一つ上の男の子と本気で喧嘩したこととか」
「あった気もするな」
「律の将来の夢がメイドさんだったこととか」
「それは絶対にない」
紗季はそこで一区切り呼吸を置いて口を閉じる。流れるような問答が途切れる合間に紗季が自分から作った距離を詰めながら歩いてくる。俺もそれを止めようとは思わないので、気の済むようにさせてやった結果、紗季が立ち止まったのは互いの爪先の間に足の幅一つほどの距離を隔てた位置だった。
「じゃあねえ――」
頭一つ低い高さにある紗季の顔。
手を腰の後ろで組み、元からある身長差をさらに広げるようにして若干の前屈み。一歩退いた右足の踵を上げて小さく背伸びして、上目遣いが笑顔を作る。その微笑みが、その瞳が、
「わたしが――双色紗季が律を好きだったこととか。覚えてるよね?」
最後の問いを発した。
双色紗季の言葉。
俺は思い出す。思い出したくないが、それでもどうしてもどしようもなく、抗えない記憶の奔流に流れていくいつかのあの声が、笑顔が、悲しみが、涙が、ノイズに紛れて回想にならない想起が駆け巡るように点滅する。
俺は。
俺の、返事は。
「覚えてるよ。それだけははっきりと」
――忘れないで。と、彼女は言った。
それだけは間違いなく彼女の言葉だったから。
俺は、その過去を忘れずに背負ってきたつもりだ。
紗季は、紗季の姿をした目の前の少女は満足そうに唇を歓喜に歪める。そして背筋を伸ばしたそいつは踊るような足取りでまた俺から離れていき、くるりくるりと二回転。紗季の髪にはまだ足りない中途半端な長髪が流れるその向こうに見えたのは、濁りのない澄んだ瞳。
いつか永遠に失った輝きが、亡くしてしまったその姿が夕陽の前に陽炎のごとく滲む。
「嘘だっ。本当はずーっと忘れてた癖に。律の嘘つき」
変わらず浮かべた微笑みの奥に、優しさで覆った瞳のその奥に、明確で深い、混沌と渦巻く憎悪を覗かせその少女は笑う。好意の中に敵意と嘆きを含み、優しさの中に殺意と糾弾を篭めて。開かれた瞳の放つ眼光が、抑え切れない悲嘆と怨嗟を湛えていた。
「ねえ、律。本当に覚えてたの? わたしが律を好きでいたこと。ずっとずっと大切に思ってたこと」
単調な声で。
「誰よりも見てたこと。なによりも欲しかったこと」
神に訴える悲鳴のように。
「誰よりもいっしょにいたかったこと。どんなことよりも優先していたこと」
傷口に刻まれた嘆きの再生のように。
「誰よりも想っていたこと。いつでも一番に考えてたこと」
身を切る痛みに耐えるように。
「誰よりも見てたこと。どこにいても呼んでたこと」
切実に罪状を読み上げるように。
「誰よりも話していたこと。ずっと、なによりも、どんなことより、いつだって、どこにいても必ず――律が大好きだったことも。律は、覚えてるって言うの?」
俺は。
俺には。
黙示録を詠う紗季の目に、虚勢でも頷くことができなかった。
二つの琥珀色が、既に輝きの褪せた暗い絶望の眼差しが語る。おまえは何一つ覚えてなんかいない。ずっと忘れたままで置き去りにしてきたのだと。
「ねえ、律はさあ……わたしのこと好き?」
「……俺、は」
双色紗季が好きだった。
迷いながら、言葉にはできずその意思を視線に籠めて返す。
「ふうん。……じゃあさ、今でも、わたしのことが好き? その気持ちはまだ律の中に残ってる?」
俺は答えない。
無感動な白い顔を黙視することしかできない。
「やっぱり、忘れちゃったんだ。律の中のわたしはもうどこにもいないんだね」
それは演技だったのか、本心だったのか。
冷たい無表情が一刹那の間に見せた悲しさの陰。
それは本当に一瞬で。
次の瞬間に残ったのは激情を殺して静かに震撼する、偽りのない瞳の糾弾だった。
「……約束、したよね?」
音の震えを隠すような低い声。顔を俯かせて表情を隠蔽し、振り絞って紡いだ僅かな声は、吹いてもいない風に流されて消えた。
「……もういいだろ」
言ったのは俺だった。夕凪の終わりを告げる夜風が世界を揺らす。ざわめく水面に落とした影は、いつかの思い出にしか存在しない少女の形をしていた。
俺は言う。言葉を選んだりするだけの余裕などはない。
「もうやめてくれ……これ以上はもうやめろ」
耳を塞ぎたかったのは俺だけではなく、きっと彼女も同じだと思うから。その先を聞きたくなかったし、言わせたくなかった。
少しの静寂。音の全てが絶えたように静謐が世界を包み込む。オーケストラが終わった後にある沈黙に似た静けさが満ちた河原は、けれどこの後には感動も賞賛もない。あるのはただ垣根なしの後悔や泥のような息苦しさ。
その中で。
「約束したのに。忘れないでって、言ったのに」
果たしてそれは、どちらの言葉なのか。今の俺にはそのことさえも判断できない。
頭にあるのは拒絶だけ。これ以上聞いていれば紘井律という人間が保てないと心が警告する。逃げ出さなければ壊れてしまうと軋む。
「……やめてくれ」
「わたしが望んだのはそれだけだったのに――」
「もうやめろ……!」
自分でも驚くくらいの音声が怒声になって飛び出す。呼吸はマラソンの後みたいに荒れていて、背中は汗をかいたように冷たい。風が触れる度に骨が凍る寒気が走った。
「頼むからもうやめてくれ――」
夕陽と夜の闇が入り交じる空を背景に従え、罪人を裁く審判の代行者のように悠然と立ち、
「――……遊季」
双色遊季はただ感情の色の失せた瞳に俺を見据えていた。
双色紗季と双色遊季。
瓜二つの双子の姉弟。
その気になれば見た目だけではなしに互いが互いに扮することも可能だろう。事実遊季はそれを証明して見せた。俺の前にいたのは間違いなく紗季だったし、その実遊季でもあった。だから一見しただけでは俺に二人を見分けることなど本来ならできない。
それでも俺ははじめから、目の前の人物が遊季だと気付いていた。今朝の手紙を見たときから既に。放課後会うことになる相手が遊季だと。
解らないはずがない。
紗季からの呼び出しなんてあるはずがないのだ。
俺は知っている。忘れられないのはただその事実。消えてくれない記憶があって、否定できない現実がある。双色遊季の姉、双色紗季は――もう二年も前に死んでいるのだから、今日この場に現れるわけなどなかった。
「約束したんだよね、律。お姉ちゃんと約束したよね」
憎悪の欠片が声から滲む。
制止をかけることさえできなければ、俺はそれに頷くこともできない。
俺にできることはただ断罪の瞬間を待って遊季の言葉を受け止めることだけだった。