4/新しい問題
/1
その日、朝一番で俺は九ノ瀬の呼び出しを受けた。
携帯電話の普及率が生徒数の過半数に及ぶ現代で、例によって蒼の口頭による呼び出しだった。
生徒会絡みの用件を九ノ瀬が俺に伝える際には基本、奴は蒼を使う。本人曰く、副会長にもなにか仕事を与えてやらなきゃな、とか、メールや電話だと気付かない可能性もある、だそうだがその内意は明らかでない。
蒼は淡々と言われた通りの言葉で俺に九ノ瀬の意思を伝えると、「絶対に昼休みだぞ。忘れるな」と念を押すように時刻の指定を繰り返した。伝言を終えると、それさえも九ノ瀬の指示であることを訊いてもいないのに明かしてくれる。やけに執拗なことを踏まえて考えるに、無視できる雰囲気ではなさそうだ。
案ずるに、またいつものように目安箱に関連した呼び出しだろう。よくもまあ不服の尽きない生徒達だ。目安箱を利用する分には好きにしてくれていいのだが、その俗事の始末が俺に廻ってこないように気を遣ってもらいたい。朱空ではないが、九ノ瀬も生徒会だけで問題を解決できないなら目安箱なんぞを設置しなければいいのに。
それら不平を並べはしても、昼休みなら呼ばれずとも生徒会室に馳せ参じるのが俺の習慣である。呼び出しに応じるようで癇に障るが、無視して教室に停留するのも意固地っぽくて気に入らない。普段通りに努めよう。
昼休み。俺の決定は揺るがなかった。
自前の弁当を引っ提げて生徒会室にやってきた俺は憚りなしにドアを開ける。九ノ瀬はいつもと同じ席に座っていて、俺は生徒会長様と正対する形になった。
「わざわざ呼び出さなくても、昼は毎日顔出してるだろ」
手前の椅子を引き、九ノ瀬の正面にならないよう腰を下ろす。
「そうとも限らないだろ。今日に限って来ないかもしれないと思ってな」
「今日じゃないといけない理由でもあるってのか。で、用件は何だ」
本題を急き立てる。九ノ瀬は苦笑して、そしていつかのようにブレザーの懐に手を差し入れて――やはりいつかのように藁半紙を指に挟んで取り出した。既視感を覚えて、なんとなく先が読めた俺は九ノ瀬から藁半紙を受け取らずに内容を予測した。
「まさか、今更になってまたあの投書じゃないだろうな。悪いがもうごめんだぞ」
「心配するなよ。その件は悪戯ってことで片付けたじゃねえか。あれ以来かっきり音沙汰なしだ」
だったら何だ。また別の案件か。
「いいから見てみろ。俺の口から説明するよりそっちのが早い」
藁半紙を突き出される。
俺は紙の表面を中身が透視できそうなくらいに吟味した。無論内容を読み取ることは叶わない。不承不承、九ノ瀬の指から藁半紙を摘み上げる。あの世への片道切符を受け取った気分だ。
四つ折りの紙切れと九ノ瀬とを交互に見てから、決心して内容の披見に移る。紙面に並んだ文字が姿を現し、横書きの短文に目を通した俺は嫌な予感が嫌な現実に変わるのを感じた。直後に垣間見た九ノ瀬は苦笑して肩を竦めている。投書された藁半紙には、俺の読解能力を尽くして解析した結果、次のような文章が書かれていた。
「『朱空末那に近づくな』」
ホラーの次は脅迫か。この学園の行く先が何なのか本気で解らなくなった。
音読してみると余計にその意味が飲み込める。疑いようがない。意味は単純。横書き一文だけなので縦読みすると本旨が伺えるといったトリックも仕掛けられていなさそうだ。故に疑うのは文面や投書した人間の意図ではない。これが九ノ瀬の悪戯である可能性は排除できるだろうから、俺が浮かべるべき疑問は、
「生徒会の目安箱はいつから郵便受けになったんだ?」
こいつは投書でも何でもない。こんなのは目安箱本来の使用法を一切無視した所業だ。
さらに問題はそれだけではなく、目安箱がお手紙ボックスに変身してしまったことよりももっと大きな問題がある。この投書(便宜上そう呼ぶとすれば)の内容は文面以前にその存在が常軌を逸していた。
そも目安箱とは一般生徒が生徒会に要望を提出する為に設けられた民主主義の産物である。学内の不満や学校生活の不安を相談することでよりよい学園生活を送れるようにとそんな目的を有した、いわば生徒自治の受け付け係。
ならばおかしいだろう。差出人の名義と同様、宛先など書かれてはいないがこの文章はどう考えても俺宛である。そして俺は生徒会役員ではない。こいつを投書した何者かが俺個人にメッセージを宛てたとしたら、目安箱を利用するのは明らかな間違いだ。
もし仮にこれが生徒会、ないし九ノ瀬や蒼の他の正式な生徒会の人間に宛てられたものだとしても不明な点は残る。こんな投書はありえない。なぜなら、朱空が生徒会に依頼を持ってきたことを知るのは、朱空本人と俺と九ノ瀬の三人だけ。朱空と俺とが何らかの関係を持っていることは、いつかの昼休みが原因で一部の生徒には知られていても不思議ではないが、だとしても俺と朱空とを繋ぐのが生徒会だとは関係者以外知り得ないはずだ。よって投書を行ったのはその三人の誰かに限定される。
少な過ぎる容疑者は誰をしても疑いの余地がなく、俺ではないのは確かで九ノ瀬には動機がない。朱空の自作自演という考えも強引に持ち出せるが、それはあまりに信じ難い。朱空ならこんな回りくどい手は使わず言葉と態度で拒絶を表明するはずだ。現実に俺はそうされた。
「どういうことだと思うよ、律」
「知るか。意味が解らん」
突き詰めれば必ず矛盾にぶつかる議題をいつまでも討議していては埒が明かない。
俺は考えることをやめた。
「おまえ、マナちゃんに何かしたんじゃないの。仲良くし過ぎて彼氏の怒りを買ったとかさ」
「何もしてねえよ。てか、いるのか彼氏?」
いたとして、なら何故おまえが知っているのかも疑問だ。
「例えばの話だよ。それだったら辻褄が合わなくもないだろ。マナちゃんが生徒会に関わってることを知ってるのは、俺とおまえとあの娘だけなんだしさ。あれを投書したのは俺じゃないしおまえでもない。文面からマナちゃんも有り得ないなら、誰かが誰かに喋ったとしか思えないだろ」
「それにしたって同じことじゃないのか」
容疑者の枠は三人のまま変化しない。
「ちなみに俺じゃあないぞ。一応訊いとくけど、おまえは誰かに喋ったか?」
不意に思考が止まる。
「俺も喋っちゃいない。内密にって言ったのはおまえじゃないか」
「だから一応って言っただろ。疑ったわけじゃないよ。でもだったら何なんだよこれ。こんなもんを目安箱に入れるなっての」
もっともな文句だとこのときばかりは九ノ瀬に同意する。こんなものを目安箱に投書する意味がない。俺の下駄箱かロッカーにでも差し込んでおけばいいのだ。だがこの何者かは目安箱を利用した。わざと生徒会を経由して俺にメッセージが届くようにと。顔を隠して匿名で。
どうにも解らないことがある。
九ノ瀬の腹の内だ。
「ところで九ノ瀬、おまえ、これを俺に見せてどうするつもりだ。また投書主を探せとか言うのか?」
「まさか。こんな投書にかまかけてるほど、律も暇じゃないだろ? おまえが捜したいってんなら止めはしないけどな」
冗談じゃない。仮に俺がそんな妄言を吐くようならば、そのときは殴ってでも止めてくれ。
「俺がおまえを殴ったことなんてないだろ……。あ、いや、そういえば中学のときに一度あったような気もするな。覚えてるか、律?」
「さあな。覚えてないよそんなどうでもいいこと」
「どうでもよくないだろ。忘れられない大切な青春の一ページだ」
「覚えてないんだろ、おまえも」
どちらも曖昧な思い出にしか持たない青春の一ページだった。適当なことを適当に口走る奴だ。加えると俺にしてみれば九ノ瀬のその適当さ加減が逆に訝しまれる。この男は何でもない言葉の中に時限式の爆弾を仕掛けていることが多い。今度だってこれを伏線にして俺に面倒を押し付ける魂胆があるかもしれない。そう怪しむ俺に九ノ瀬は慌てて付け加えた。
「安心しろって、あくまでこれは俺の親切でしかないんだよ。こんな妙な投書があった以上、おまえに報告してやらないわけにはいかんだろ」
「そうかい。ならそういうことにしといてやるよ」
親切とか言われても、俺にしてみれば無駄な懸念材料が一つ追加されただけに過ぎないが。これに関しては本当に裏がなさそうなので、九ノ瀬の言葉を信じることにしよう。
「これからどうするんだ律」
声色を改めて真剣そうな空気を醸す九ノ瀬に問われる。いや、本人は間違いなく真剣だ。必要以上に場を重くしないようにと配慮して軽さを残したのだろう。
「どうするとは?」
「……おまえなぁ。こんな投書があったんだ。確かにわけは解らんが意味ははっきりしてる。マナちゃんの件はまだ片付いていないんだろ。だったら今後は行動が制限されるんじゃないか?」
俺が九ノ瀬の言っていることを理解するのに普通よりも多くの時間と言葉を要したのは、現在朱空との協力関係が奇妙な形になっていたからだ。朱空の人捜しに俺がまったく関与していないことは九ノ瀬に話していない。
「問題ないよ。ていうか、朱空の依頼に関して俺には一切の役回りがない。どうもあいつは生徒会の権力が欲しかっただけらしい。俺の協力は必要ないそうだ。なんで、こっちの件が片付いてからは会っていない」
「そうなのか?」
ぽかんとして九ノ瀬が口を開く。まあ正しい反応だろう。目安箱に投書した人間が自ら生徒会の助力を拒否するなどこれまでになかったことだからな。九ノ瀬が驚くのにも頷ける。
「なんだ、それならおまえが今抱えてる案件はないわけだ。てことは、他の仕事を頼んでも大丈夫だな」
「また投書があったのか? 短期間でこれだけの量は多くないか」
「いや、頼みたいのは書類系の雑務だよ」
「お断りだ」
目安箱の依頼執行にしたって生徒会でない俺が請けるのはお門違いだというのに今度は雑務とくるか。金でも貰わないとやってられん。
「いいじゃないかよ。頼むって律。これも人助けだと思ってさ。親友が困ってるんだから、見捨てるなんてしねえよな」
「おまえが困っていようが苦しんでいようが俺には関係ないな」
「全部ってわけじゃないんだよ。俺も残って手伝うからさ!」
手伝うのは俺の方ではないかと突っ込むべきか迷って自粛した。
「頼む! 放課後にちょっとだけ残ってくれればいいから! そんなに時間は取らせないから!」
遂に頭を下げる学園生徒のトップ。時間を取らせないとは言うが、同じ台詞を前にも聞かされて渋々了解してやったときは結局下校時間ぎりぎりまで付き合わされた。こいつのことだから、ここで頷いて放課後来てみれば、性懲りもなくまた滞納しまくった大量の書類がテーブルの上に積み上げられていることだろう。
非情になって再度懇願を切り捨てる。
「悪いが今日はおまえに付き合ってられないんだよ。悪いな九ノ瀬」
「これだけ頼んでもかよ……。なんだ、さては女か?」
「まあ、そんなところだな」
やさぐれた口調で訊いてくる九ノ瀬に、俺は肯定の返事をして退室すべく席を立った。
このタイミングで部屋を出ようとしたのは、続く言葉の反応を俺自身が見たくなかったからかもしれない。ドアをスライドさせながら、肩越しの視線を九ノ瀬に送り言った。
「紗季とデートの予定だよ」