3/同盟宣言+γ
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俺はどうも正解を選んでいたらしい。
その選択がモラルとして正しかったのか間違っていたのかは俺には判断しかねるが、眼前の光景は目的達成の面で見て疑いようもなく正答を俺が選り抜いたことを証明している。反論の余地などなく完璧な、減点なしの証明だ。
これほどに絶対的な解答が他にあるはずがない。
夕陽を反射する水面を見つめて、土手の斜面に腰掛ける朱空末那がそこにいた。
九ノ瀬に教えられた教室に朱空を発見できなかった俺は、その後それ以上の行動を切り上げて帰宅を選んだ。朱空なら明日の昼休みに教室を訪ねれば会える。今日必死になって探さなくてもいいだろう。それが俺の出した結論。
そして、その所懐を実行したことで行き会ったのがこの結末。
帰り道の河原に、先日と同じく朱空末那を発見した運びだった。
それはまるで昨日の再現。
夕焼けの赤い空も、光る川の水面も、吹き抜ける風も。ビデオテープを再生しているみたいに変化なくそこにある。何もかもが、切り取られた一枚の絵のように。与えられた役割に忠実で、愚直なまでに同じ夕凪を作り出す。
朱空はやはり何を考えているのか解らない顔をして遠くを見、土手に座って脚をぱたぱたさせていた。その横顔は俺が知っている傲慢で横暴なのに乗せて生意気な小娘のものとは似ても似つかず、常に自信に満ち溢れた挑戦的な瞳は細く、黄昏に消えていく赤色を見詰める様子は儚い。朱空の格好をした別人を見ている気分だ。
それにしても朱空は何をやってるのだろう。何もしてないのは一目瞭然だが、だからこそ俺はその疑問を抱かずにはいられない。なぜなら朱空がこの場所にいること自体がおかしいのだ。
放課後なんだから学校に残っていなくても特別不思議ではないが、今日の朱空には残る理由がある。あの娘は生徒会に人捜しなる依頼を持ち込んだことで見事に、それが本人の思惑だったのかは定かでなくとも、協力者の名の元に俺という疑似権力を手に入れることに成功した。ならば早速それを利用して行動を起こせばいい。朱空は生徒会の後ろ楯をいいことに強引な方法に訴えることだってやりかねない奴だ。本質を見極めたつもりではないが、数回の接触で俺は朱空末那をそういう人物だと認識している。
だってのに現実はこうだ。朱空は早々に学校を出たかと思えば何かしているのでもなく、土手で脚を上下させているだけときた。この光景を正常だと思うことは、どうやら俺にはできそうにない。
「律ー。おーい律ってばー」
遊季の手が俺の顔の前をワイパー染みた動作で往復していた。古典的な手を使うんだなこいつは。
「突然ぼーっとしちゃってさ。……も、もしかしてまたあの持病?」
「いや、俺、持病とかないから」
人の設定を勝手に弄らないでもらいたい。とは思うものの、一方では遊季の中で俺の身にどんな病が宿んでいるのかということには多少興味がある。地雷を踏む覚悟で訊いてみた。
「僕に恋しちゃう病」
地雷だった。それもすこぶる質の悪い地雷。ゲリラなんて目じゃないほど。
「あっははは。嘘だってば。さっきから律が構ってくれないから悪いんだよ。いっしょに帰るなんて久し振りなんだからさ、ね、もっとお話しよっ」
「話ってもな……」
「例えばさ、律は爽架が本命なのかそれとも渚と禁断の愛の道を密かに歩んでいるのか、みたいな」
「蒼。……蒼だな、それは間違いなく」
「スルーされると悲しいよ律……」
遊季が悲しむ様子はこの際気にしないことにして、俺はこの状況下において次に自分が取るべき行動を思案した。
さっきまで捜していた朱空が見付かったのだから、当初の予定通りに情報提供を求めるのか、それとも遊季がいることを考慮して今は声を掛けず素通りするのか。分岐点でまたしても俺は二択に迫られる。毎回のことながらどちらを選んでも明確な答えがあるわけではないから厄介だ。
俺がどちらかを選択するよりも早く、声を上げたのは遊季だった。いつの間にか目線を朱空のいる土手に向けていた遊季は、ちらりと俺に一瞥をくれてから、
「あの娘知り合いなの?」
「まあな。あいつがさっき捜してた奴だよ。今度の仕事の……」
依頼人。
「……協力者だ」
朱空を紹介する肩書きにどちらを口にするべきか一秒未満で迷って、俺は結局そっちを採用した。今から何をするか考えれば協力者という方が正しい。朱空の案件についてでは、俺は協力者でさえないのだからこの場合依頼人と呼ぶのもおかしな話だろう。
「へえ。律が捜してたのって女の子だったんだ。なんだか意外だなー。てっきり中学の後輩とかだと思ってたよ」
遊季は朱空から眼を離さないで言う。
相手を値踏みするような視線。遊季は表情なく朱空を眺めた後で俺を見た。
「綺麗な娘だね。うん。きっといいとこのお嬢様だよ」
「朱空がか? それはないだろ」
名家の出にしては毒舌に過ぎるし、行動にも言動にも品がない。優雅さとは疎遠の人柄だ。……いや、今の時代そういう考えは古いのか。品格とか雅さとかは家柄に深い関係を持ってはいないのだろうか。
「よかったね律。あのまま学校を捜してたら大失敗だよ。もしかして解ってたの? ここにいるってこと」
「そんなことは……」
思い出すのは昨日の風景。
星を見上げてからキャッチボールをした夜。
「ない、と思う。……いいやない。ただの偶然だ」
自信のない否定。よくよく考えれば心のどこかで俺は朱空がここにいると直感していたかもしれない。ただそれを予測するに十分な証拠と鑑みる象限が少なかったから、可能性としても見なかったのだろう。昨日そこにいたからといって、今日もまた同じ場所に行けば会えるなんて保障はどこにもない。
「よし、それじゃあ行ってきなよ律」
「行ってこいって、おまえは行かないのかよ」
「僕が律といっしょに動いたのはあくまで彼女を捜すことに力を貸すためだよ。これ以上は生徒会の領分だし、律の言う通り個人的な部分に立ち入ることになっちゃうからさ。だから僕はここでお役御免だよ」
遊季にしてはまっとうな意見だ。確かにその通りで正しい。だが俺の知っている遊季はここまで聞き分けのいい人間だっただろうか。とも思わなくもないが、そういえば遊季は生徒会絡みで俺が行動する際には無闇につきまとったりしていなかった。今度と同じで、相談内容に間接的なことにしか関わっていない。
双色遊季はそれなりに分別のできる人物なのだ。
「じゃ、僕は先に帰るから。頑張ってねー」
あっさりと手を振る姿が遠くなる。別れを告げてからの遊季は振り返ることなく夕陽の中に消えていった。
……さあ、ここからが一仕事だ。
はじめから俺が懸案にしていたのは朱空を発見することなどではない。大変なのはその後である。なぜならば、朱空末那には決定的に協調性が欠けている。俺が協力しろと言ったところで平然と「嫌だ」と突っぱねるだろう。朱空自身も人間は損得勘定の権化などと言っているほどだ。俺に肩入れしてもメリットがないなら、朱空はきっと動かない。
俺は、それでも朱空がこれもまた自ら口にした『協力関係』という言葉を信じてみることにした。当たって砕けろ。
朱空の第一声。
「嫌よ。どうせエロい質問する気なんでしょ」
一蹴された。
覚悟の上での玉砕は、それはそれで痛いことを俺は学習する。ダメモトの心得なんて心の保険にもならねえよ。くだらないオマジナイだ。
「スリーサイズとか……聞きたいわけ? もう、男ってそういうの本当に好きよね。世の中数字じゃないとか言ってる奴ばっかりなのにさ。バッカみたいね」
偏差値のことを言ってるのか。あるいはテストの点数か。
「ちなみにあんたは、どうなのよ」
「どうとは?」
「胸、おっきい方がいいかちっさい方がいいか」
「いや、別にこだわりはないけど……」
「男が好きなのね」
「……締め上げるぞ、小娘」
「いいわよ。ただし縄は持参で手数料は全部自己負担。明日は体育あるから体に響くプレイはなしね。諸注意はそんなところで代金は――」
「俺はおまえが思ってるような特殊な趣味は持っていない!」
のっけから激しい勘違いだ。
「ん。まあ、冗談はこれくらいでいいかな。そんな慌てちゃってさ、もしかして本気にした?」
冗談だった。
「おまえに関わってると、いつかとんでもないトラウマを抱える気がしてならねえよ」
「そう? だったら、その期待に応えて上げようかな」
「いらん。いいから真面目に話を聞け」
朱空が流れを完全に支配してしまう前に、俺が話の腰を折る。声音から空気の違いを感じ取った朱空が小悪魔の微笑を崩して眉を吊り上げた。俺に主導権を握られるのが気に入らないらしい。
そんなことなど委細構わず俺は言った。
「期待には応えなくていいから、質問に答えろ」
「嫌って言ってるじゃない。面倒くさい」
「とうとう本音かよ」
俺をからかっていないときの朱空は大抵無表情だが、今のそれは憤る心境がありありと表れた形相。朱空は感情の変化が面白いくらい顔に出る。本人に隠す気がないだけかもしれないが。
ここにきて俺は自分のミスに気付く。朱空を怒らせてしまっては話が進まない。どうあれ現状では俺にとって朱空は硬直状態を打破のために必要な鍵なのだ。下手に機嫌を損ねられていてはいつまで経っても先に進めない。
一度深呼吸をして、気持ちの切り換えを行う。
そうして、そこからがまた一苦労。
一度傾いた朱空の機嫌を元の位置に持ち直すために俺はまず自分の非礼を心にもない言葉で詫びて、さらに調子に乗った朱空の要求にできる限り誠意を取り繕って応対するなどしてようやくまともに話ができる状態にまで場を進行させた。この際だから俺がどのような言葉で朱空を宥め、どのようなことをさせられたかは謹んで割愛させていただく。
何度目かになる朱空の唸りを聞いた後。
「……解ったわよ。協力関係だもんね、仕方ないから力貸して上げる」
不本意だけどね、と如実に語る黒い眼差しが、俺が回復させたつもりでいた機嫌など逆に累乗されたといわんばかりに細められた。面倒だと言ったのは他に断る理由があるのを隠すためではなく、真からの言葉だったらしい。
朱空の了承を得た俺だったのだが、ここで原点に立ち返り思案する。曖昧なままで放置しておいたもう一つの懸案事項。俺の本意を勘繰られずに必要な情報を引き出すにはどうすればよいか。決着を先送りにした迷いが俺の前に立ちはだかる。
……ええい面倒だ。
「率直に訊くが、おまえの知る範囲で……その、なんつうか周りから浮いてる人間ってのはいないか? 周囲に溶け込めていないだとか。そうだ。環境に馴染めていないとか、そんな雰囲気の奴だよ。知らないか?」
「知らない」
芝居ほどの考える仕草も見せずに朱空が即答する。
建前でもいいから少しくらい思い出す素振りでもすればいいのに。
「だって知らないんだもん。知らないことを思い出そうとするなんて無駄じゃない。で、訊きたいことはそれだけなの? だったら残念だけどあたしはこれ以上協力できないわね」
朱空は残念そうな様子など微塵も感じさせない風に耳の横の髪を払った。
これ以上も何も、俺はまだ協力してもらった実感がない。いたずらに時間を浪費しただけだ。
「だいたい何よその質問。あんたが捜してるのってそんな奴なの?」
上下する踵が地面を打ちつける。ざくざくと踏み付けられる草花が不憫で仕方ない。心なしはじめに見たときよりも速度が上がっている気がした。どうやらその行動は朱空の鬱憤に比例して加速するらしい。
「……よく解らないけど、あたしにはあんたが捜してるような奴に心当たりなし」
「そうか。解ったよ、もういい。時間を取らせて悪かったな」
本心を明かすなら。
上手く話が運んだのなら俺は朱空に調査活動にも協力してもらおうと企んでいた。しかしこの雰囲気でそんな提案はできない。それによく考えれば、朱空にそれを頼むのは俺のエゴだ。あいつはあくまで依頼した側。生徒会の人間でもなければ、俺に協力する義理もない。
今はもう有力な情報が引き出せない以上、俺は黙って場を辞すことにした。これで本当に行く宛なし。明日からは別の方法で解決を図ろうと思う。今のところは、具体的なプランはない。
朱空に謝辞を告げつつ――実感はないが、形式上これでも一応協力して貰ったことには違いない――俺は外れてしまった帰途に戻る。斜面を登りながら今後の活動方針について思索していると、意外なことに俺を呼び止める声があった。
朱空末那だ。
「ちょっと待ちなさいよ」
「なんか思い出したのか?」
「違うわよ。そんなんじゃない。……なんていうか、その、あんたの聞き分けがよすぎて気持ち悪いのよ。あたしが悪いことしてるみたいで……なんだろ、えっと」
「『申し訳ない』か?」
「酷く遺憾なの!」
怒髪が天を衝く。この場合だと俺と朱空の位置関係からしても、怒声は天に放たれることになり奇しくも文字通りというわけだ。
俺は立ち止まってその高さから朱空を見下ろす体勢で会話に挑む。もしかしたら朱空は俺の立ち位置に文句の一つも付けてくるのではないかと思ったが、それも杞憂。朱空は尻尾を垂らした猫の面持ちで現状を受け入れていた。
「あんたさ、自分が誰を捜してるのかってこと、解ってないんじゃないの? ……解り辛いんだけど、誰かを捜してるんじゃなくて、誰かを捜そうとしてるみたいな。つまりね、自分が捜している人間がいるんじゃなくて、自分が捜さなきゃならない人間を探ってるていうか……」
俺には、朱空の言い回しがよく解らない。けれどこの奇妙なズレの正体は朧気にだが掴むことができた。
朱空と俺の捜索は似て非なるもの。誰かを捜すという大原点は同じでも、前提や過程がまるで異なる。俺はいるかどうかも解らない予想の上に存在している人物をゴールにして、まずはその終着点がどこにあるかを定めてから捜索を開始するが、対して朱空は既に定められたゴールに向かっていくだけでいい。
両者の間には認識の微妙な相違があったのだ。
「口振りからすると、そうね、あんたがしてるのは元から依頼なんかじゃなくてその前段階。目的のために状況を整えてるってところかしら。……さっきの条件だと、はみ出し者を捜してるみたいだったわね。でもイマイチそれだとピンとこないかな。ん……あんたが嗅ぎ回ってるのって、イジメとかじゃない?」
「……否定はしねえよ」
と、遠回しに赤丸を送る。冷静を装ってはいたが、朱空の推察には素直に驚いた。勿論ヒントは俺の発言中にいくつか転がっていたのだろうけど、それにしてもだ。洞察力が無駄に鋭い。
「ふうん。そっか、生徒会もなかなか真面目なことしてるのね。あんな会長だから、てっきり活動なんて全部悪ふざけみたいなものだと思ってた。ほらあれ、毎週やってる服装点検ってあるじゃない? あたしずっと邪なものを感じてたのよ。でも……うん。勘違いかな」
「いや、素晴らしい感性だと思うぞ」
九ノ瀬の支持率が保たれているのは、ともすれば俺や蒼の活動成果が奴の作り出す負を上回っているからなのかもしれない。としたら、俺達は知らぬ間に九ノ瀬の尻拭いをしていることになる。気に入らないとしたらそれだ。もっと早く気付くべきだった。
「イジメねえ……。そんなの、うちの学校にはないと思うけどな。市坂ってさ、一応それなりの進学校なんでしょ」
「世間の評判はそういうことになってるな」
進学校というほどのものではないが、市坂は地元では確かに高めの偏差値を記録している。一年を生徒として過ごした経験から言うと、俺だってイジメなんかが起きているとは思えない。
「よし……決めた」
宣言するや、飛び上がる朱空の体。
翻る黒髪。
流れる体躯。
夕陽をバックに旋回した朱空の、極上の悪戯を思いついたときの子供のような、その不敵なまでに晴れやかな笑顔が声を張り上げて叫ぶ。
ずっと遠くまで響く涼やかな声が、彼方に降りようとする夜の帳を越えて吹き抜けた。
「明日からはあんたに全面協力して上げる」
ワンステップで俺の傍に馳せた朱空の仁王立ち。
腰の位置にあった左手の腹がびしりと俺の鼻先を射抜く。
「安心しなさい。あたしが味方になったんだから、どんなことだってたちどころに解決よ」
声高らかに胸を張り、輝きを増した瞳が光を散らす。
面喰う俺は何も言い返すことが出来なくて、自分よりも一回り小さい少女の前に棒立ち。続く言葉を拒むこともできず、だからといって受け入れたわけでもなく、爽快に過ぎる清涼な笑顔が下す決定を、無言のままに聞き遂げた。
「あんたに発言権はなし。今からあたしがあんたのルールよ。ほら、いいから黙って頷きなさい!」