悪夢
目の前に大きな人が立っている。私は怖いと思った。後ずさりをすると足に何か当たる感覚。振り返るとそこにはお酒の瓶が散らばっている。あぁ、夢だ。これは。となると目の前の大きな人は…
「おとうさん」
蚊の鳴くような声で呼ぶと、怒鳴り声で「お前にお父さんなんて呼ばれたくない!」と言われた。殴られる。瞬間的にそう思って身構えた。
けど思っていた衝撃はなくて、でも音は響いて。そっと目を開けるとお母さんが私の前に立っていた。しきりにお母さんがすみれには辞めてと言っている。私の小さな手ではお母さんを守ることが出来ないのだ。
うるせぇ、生意気なくせに、何もできない癖に、いっちょ前に母親気取りか。耳をふさぎたくなる言葉がお父さんからお母さんに浴びせられる。お母さんからも、痛い、辞めて、というこちらも耳をふさぎたくなるくらい悲痛な声がする。
私は思わずそこから逃げて廊下に飛び出した。すると見慣れたオフィス。そして後ろから私の苗字を呼びながら怒鳴ってくる人、私を探す人。お父さんじゃない。
「お前、こんな所にいたのか!!!お前の作成した資料!!どうなってるんだ!!」
元上司。私よりはるか上に頭があって、いつも頭を下げていたから顔をもう思い出せない。彼が手に持っているのは私じゃない、後輩が作った資料。
「それ、作ったの、私じゃない、です」
怖くて怖くて上手く声が出ない。
生意気な!後輩になすりつけるのか!先輩ともあろう人が!しかもチェックはしたんだろう!見逃したお前が悪い!
チェックを頼まれた記憶もない。そもそも元は上司がやる予定だった資料作成を後輩に押し付けたのだ。私に何の権限もない。
また後ろから声がする。
「すみれさんってちょっと顔がいいから調子に乗ってるよね」
「あの先輩のお気に入りらしいよ」
「うわぁ」
「しかも自分知識ありますけど?みたいな顔してるの腹立つよねぇ」
「この間なんとかって花の知識話してて神話とかも話しだして」
「うわぁ、誰が興味あんのよ」
あぁ、夢なら早く冷めて欲しい。目の前で怒鳴り続ける上司に頭を下げ、後ろからの陰口に耐え、隣には
「もう大丈夫だよ」
私が信頼したかった先輩。その嘘っぱちの仮面の裏に何を隠し持ってるんだか。私の腰に回された気持ち悪い手。段々と下に下がっていく。なめまわすように触られる。
声を出したくても、怒鳴り声が怖くて、陰口が恐ろしくて、暴力に慄いて、セクハラに震撼した私の体は言うことを聞いてくれない。もう嫌だ。怖い。辞めて!
目を開けると見慣れた天井。1人暮らしの自分の部屋だ。夢に出てきた人は誰一人私の居場所を知らない。だから危害が加わってくることはない。大丈夫。彼らも私がいない方が幸せに暮らせるだろう。だから大丈夫。
私はベッドのうえで膝を抱えて、呪文のように大丈夫と唱え続けた。
心の奥底でこの大丈夫に『ごめんなさい』が含まれていることに気が付いている。私は何に許されたいのだろうか。父親?上司?他の社員さん?
悪い事なんてした覚えはないのに。口癖のようにごめんなさいが含まれた大丈夫が溢れる。いつまで私はこれに囚われながら暮らすのだろうか。
常連さんの顔が思い浮かぶ。今は幸せだと胸を張って言える。
「大丈夫」