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ブーケのようなご褒美を  作者: 津々井サクラ
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『いい便り』

 OL時代よりかなり遅い時間の起床。ベッドの上でぐぐぐっと伸びをしてあくびをひとつ漏らした。少しぼーっとした後に支度をし始める。


 このマンションに引っ越してきたのは大体2年くらい前。それまではどこにでもいる普通のOLだった。毎日上司に意味不明なことで怒鳴られて、先輩にしつこくご飯を誘われ、後輩には出来ないからという理由で仕事を押し付けられる毎日。心はいつも荒んでいた。そこに追い打ちをかけるかのように、大好きな祖母が突然倒れ、そのまま亡くなった。


 祖母が亡くなったのをキッカケに私の心は完全に崩壊した。外に出ることも嫌になり、引きこもり生活が続いていた。そんな事を祖母は見越していたのか、そんな状態の私を訪ねてきたのが今のマンションの大家さん。


 祖母の旧友で、自分に何かあったら様子を見てやって欲しい、と頼まれていたそうだ。そして、大家さんのマンションは私が住んでいた大都会の中ではなく少し地方の静かなこじんまりとした場所で、2階スペースに飲食店を経営出来る場所があるから、そこで好きな事をしたらどうだと提案してもらったのだ。


 私は小さいころからお花と、大きくなってからカフェでバイトした影響でお茶が好きだった。お花を飾りながら、その空間でお茶をお出し出来たらどんなに最高だろう、そう思って二つ返事で快諾した。


 最初こそ大丈夫かなと心配していたがマンションの人たちが優しく、お店が軌道に乗るまで毎日のようにお茶を飲みに来てくれた。いまでも美味しいから、という理由で飲みに来てくれる。本当に嬉しい。

「よし!」

 トレードマーク(勝手に私がしてるだけ)のポニーテールにすみれ色のリボンを巻いたら、お仕事モードがオンになった。


 外に出ると曇り空が広がっている。もう梅雨?とは思ったが年々梅雨入りが早くなったような気がするからあながち間違いじゃないかもしれない。


 私はマンションの階段を使って二階に降りた。私が普段住んでいるのは五階。三階分を毎日上り降りしている。エレベーターもあるのだが運動不足を懸念してのせめてもの抵抗。


 行きは降りるからいいのだが帰りが中々にしんどい。最初こそ途中からエレベーターを使ったけど、今は息切れはするけどなんとか登り切れている。


「おはよぉ~」

 店先に並んでいるイベリスの花たちに声をかける。なんとなく声をかけることでよく育つような気がするのだ。お花達も返事をしてくれているような気がしてる。昔祖母がお花によく話しかけていたのを見ていたからかもしれない。


 お店の鍵を開けて中に入り、エプロンを付ける。まずやることはイベリスの花たちに水をあげること。イベリスは比較的育てやすくて多年草なので花がなくても世話を続ける。気を付けることと言えば朝に水をあげること。夜に水を上げてしまうと、ここの地域ではあまり起こらないかもしれないが土の中に水が残ってしまい夜の冷えによってそれが凍ってしまい根っこにダメージが入ってしまって枯れてしまいやすくなる。らしい。


 お花の知識はあるがガーデニングの知識はあまりないので育てているのもイベリスだけ。なんでイベリスなのか。自分の名前のすみれにしても良かったのだが、なんだかスナック感が出てしまって嫌だった。イベリスは育てるのも比較的初心者向けで、なにより花言葉が「心ひきつける」だったのでカフェにピッタリだと感じてイベリスにしたのだ。外で育てているのはイベリスには香りがあってそれで引き寄せられてお客さんが来てくれたらいいなっていう私の願いをこめて外にした。後は単純に日光に当てた方がいいから。


 今日はあいにくの天気だけどイベリスのお花たちに付いた水がお花たちをより一層キラキラさせて見えた。

「今日も綺麗だね」

 毎朝この時間は私の機嫌を最高潮まで持ってきてくれる。自然と歌も歌っちゃう。あんまり上手じゃないけど。


 さっき階段を降りている時に天気を確認したら夕立がありそう、って注意書きがあった。上げるお水はすこし少なめにしておこう。もし雨が降っても大丈夫なように。この時期なら夕方に雨が降っても土の中が凍ってしまう事はなさそうだ。


 店内に戻って今度は中にある切り花たちのお水を変える。今の一番のお気に入りはガーベラ。花言葉がとってもお気に入りで私のモットーにしている。「常に前進」「希望」。凄く良い花言葉だと思う。立ち止まることはあっても後ろには進まない。ガーベラを見ていると本当に前向きな気持ちになれる。

「いつもありがとう」

 お花には一つ一つに個性があって、花言葉も違う。


 私がお花を好きになったきっかけはおばあちゃんが話してくれたおばあちゃんがおじいちゃんにプロポーズされたときの話。


 当時はお見合いで、何人も来るお見合い相手におばあちゃんはうんざりしていたらしい。そして何度目かのお見合いでおじいちゃんと出会って2人でデートした時に一本のバラを貰ったけど、その時は「一本かよ」とも思ったし、気にも止めていなかった。正直パッとしなかったしね、っておばあちゃんがいたずらっ子みたいな顔して教えてくれた。


 でもおじいちゃんは諦めずに、何度もおばあちゃんをデートに誘い、おばあちゃんもしぶしぶ付き合っていたんだそう。そして何度目かのデートの時におじいちゃんに言われたらしい。「バラの本数に意味があることはご存じですか?」って。その時のおばあちゃんはそこまでお花に興味が無くて、知らないって答えたら「バラの花一本は、一目ぼれ。僕はあなたに一目ぼれしました。結婚を前提にお付き合いしてください。」って言われたんだって。


「私ったらその熱に負けちゃってねぇ。思わず頷いちゃったんだよ」

 なんて言っていたっけ。

 おじいちゃんはそれだけじゃなくて、プロポーズの時もバラの花を渡して、その時の本数は12本だったらしい。おばあちゃんがその意味を調べると「私の妻になってください」って意味だったらしい。プロポーズにお花はつきものと考える人は多くいるけど、本数、花言葉にまで気を使える人はいないと思ってきっといい旦那さんになると確信したから結婚を受け入れた、と幸せそうに話すおばあちゃんの顔を今でも覚えている。


 なんだかこれだけ聞くとおじいちゃんだけが好きみたいに聞こえるけど、おじいちゃんが先に亡くなって私たちには大丈夫と言っていたけど、お葬式で誰も見えないところで棺桶の前で静かに「私のすぐそちらに行きますからね」と泣きながら言っていたのを強烈に覚えている。おばあちゃんも表には出さないだけで本当におじいちゃんの事が大切で大好きだったんだとその時に思った。そして私もいつか結婚する時はそんな風に思いあえる人と結婚しようと決めている。


 店内のお花のお水を全部変え終わったら、今度はカフェの準備をする。お店のBGMを付けて今日の紅茶の選定をする。紅茶の選定は自分の気分で選ぶことが多い。もちろんそんなこと関係なしに頼んで来る人もいる。それはそれで楽しい。


 今日の気分はハーブティー。強すぎずかといって優しすぎる訳でもない、カモミールにしよう。まずは自分用に入れる。ここに来る人はもうほとんどが常連さん。特に今日みたいに天気が崩れそうな日は特に。更にお店の常連さんはお年寄りが多くて関節が痛むといった理由でいつもの半分くらいのお客さんになる。でも悪くはない。時間がかなりゆったりと流れる。OL時代には感じることがなかった時間の取り方。毎日が楽しい。


「こんにちわ~」

 お店の扉を開けて入ってきたのは一週間に一回来てくれる、近くのお花屋さんの日葵ちゃん。このお店を始める時に配達をお願いしたことをキッカケに仲良くなった。私より少し年下で、アルバイトとしてお花の配達を担当しているらしい。仕事終わりにこのお店に来ることもある。

「今日はたくさんアヤメが届いたので持ってきました~」

「わぁ、綺麗だねぇ」

 切り花を両手いっぱいに抱える日葵ちゃんは物凄くかわいい。少しそばかすの入った健康的な肌。胸下まで伸びた髪を二つのみつあみにしている。笑った顔はまさしくひまわり。日葵の名に恥じない出で立ち。


「すみれさん、アヤメの花言葉って何ですか?」

 日葵ちゃんはいつも持ってきてくれるお花の花言葉を聞いてきてくれる。それを接客にも活かしてるんだとか。まだまだ見習いで接客はあんまり任せてもらえないんですよねぇとこの間愚痴をこぼしていた。

「アヤメは『いい便り』とか『希望』かな。前向きな花言葉だね。」

「ほえ~、綺麗だしいい言葉ですね」

 すみれさんの所で大切にしてもらうんだよ〜なんて声をかけている。いつの間にやら私の癖が映ってしまったらしい。いいやら悪いやら。


「そうしたら今日アヤメが届いたわけですし、今日何か『いい便り』が来るかもしれないですね。」

 日葵ちゃんのひまわりみたいな可愛い笑顔をこちらに向けながら言う。

「そうなったら一番に日葵ちゃんに知らせるね」

「おっ!楽しみにしてます!」

 そういうと日葵ちゃんは次の配達先に向かった。


 一方の私は貰ったアヤメを早速水切りする作業に入った。水切りとは茎の切り口から空気が入らないように水の中で茎を斜めに切りなおす作業。これをするとお花の持ちがよくなる。そしてアヤメを花瓶に入れる時は花瓶の中の水を少なくする。これも全部おばあちゃんからの受け売り。なんで少なくするのか理由も説明してくれたような気がするけど何と言っても私が高校生の時だから覚えていない。


 ガラスの花瓶に入れたのはいいものの、やっぱりアヤメは日本の焼き物の花瓶に入れた方が映えるな、と思った。お店の統一感を出すために花瓶は基本的にガラスで揃えているが、どうしてもアヤメは日本の焼き物の花瓶に入れたくなった。今度買いに行こうかな。


 さて、そろそろお店を開ける時間だ。

 お店を開ける時間はいつも決まっている訳ではない。一応11時開店にはしているけど、入ってきたお花がたくさんであれば少し遅くなることもあるし、早めに常連さんが来れば断りを入れて作業をしながら店を開けることもある。


 逆に閉店時間はきっちり決めている。と言っても、夜の8時までは営業するというものだ。それより遅くなっても構わない。ただ8時よりも前にお店を閉めることはない、という意味でしっかりと閉店時間というものを決めている。


 お店を出て、階段下に看板を出しに行く。これがこのお店が開店してますよの合図。夕立が突然来るかもしれないという予報だったので一応カバーをかけておく。外のイベリスのお花に害があるほどの雨が降るかもしれないので、いつも外の天気は気にしているが、パソコン作業などしていると気が付かないこともある。今日の夕立、そこまで荒れた天気じゃないといいけど…なんて思いながらお店に戻った。


 とはいってもお店にお客さんは1人もいない。お掃除も昨日何故かスイッチが入ってしまって閉店後に隅から隅までぴかぴかにしてしまったから、お掃除も必要ない。


 お店は真ん中に大きなテーブルをおいて周囲を壁に向かってカウンター席にしている。真ん中のテーブルの周りには席をおいている訳ではなくお花を置く専用のテーブルにしている。入り口横は前面ガラス張りでその対面にカウンターキッチンを設置している。キッチンとは言ってもご飯を出すことはなく、たまーにケーキ等を置くが主に紅茶を入れるだけのスペース。一応キッチンとしている。中には私が座れるように、でもお客さんの様子が見られるように少し高めの椅子を置いている。お客さんがいない時やパソコン作業の時はこの椅子に座っている。


 私はキッチンに戻ってさっき自分用に入れたカモミールティーを飲んだ。ふわっと優しいカモミールの香りが鼻腔を擽る。ハーブティーの中でカモミールティーが一番好きだった。ローズヒップティー等を飲むこともあったが一番多いのはカモミールティー。この優しい香りが好きなのだ。


 そうだ、きっとしばらくお客さんも来ないし、と以前からやりたかった事をやろうと腰を上げた。

 キッチンの棚から使っていない瓶とゼラニウムのアロマオイルを取り出し、カウンターに置いた。そして両脇の壁にかかっているバラとラベンダーのドライフラワーを取り外してカウンターに持ってきた。もうここまで来たら私のやりたいことが分かるかもしれない。そう、私は人生初めてポプリという物を作ってみようとしている。ネットで得た知識をそのままやってみようと思うのだ。上手く行くかは分からないけどいつかイベリスで出来たらなぁなんて考えている。出来るのかも分からないけど。とりあえず今日は王道のバラとラベンダーのお花でやってみようと思うのだ。その為に日葵ちゃんにわがままを言って少し前にバラとラベンダーを持ってきてもらったのだ。


 オイルをゼラニウムにしているのは純粋に私がゼラニウムの香りが好きだから。やっぱりお花が王道だからアロマオイルも王道な物にした方が良かったかなぁなんて思いながらバラとラベンダーのドライフラワーを少し細かく砕く。軽く砕いた花びらたちを瓶に入れ、上からアロマオイルを入れかき混ぜて密閉する。これで準備は完了。


 あとは数週間待つだけ。最初の1週間くらいは時折かき混ぜた方が良いという情報を得たので様子を見られるカウンターの上に置く事にした。

 これが上手く言ったら今度はどんなポプリを作ってみようか。そうだ、サシェにするのもいいな。となると袋を作らないと。何かいい物はないかな、なんてキッチンをウロウロとしているとお店の扉が開く音がした。


 慌てて振り返るとそこには見知った顔がいた。

「キヨさん!」

 キヨさんはこのマンションの大家さん。私が一番お世話になっている人。

「いつ来てもお花の香りでいっぱいでいいねぇ…」

 そういいながらキヨさんはいつものキッチンの近くのカウンター席の右から2番目の席に座った。

「おや、これはポプリかい?」

「そうなんです、さっきやってみて、完成が楽しみです。」

 私はそういいながらキヨさんにカモミールティーを差し出した。キヨさんはありがとうと言いながらお茶に口を付けた。


「今ちょうど完成したらサシェにしようと思っていい感じの袋がないか探していたんです。」

 でもいい感じなのがなくて、と言葉を続けると、キヨさんはゆっくりとした動作で私を見上げて、微笑んだ。

「そうしたら作り方を教えて上げるから自分でこさえて見たらどうだい?」

「良いんですか?」

「もちろん、私の親友の孫だもの。私にとっちゃ可愛い孫娘みたいなあんたが困ってるならなんでもしてあげたいんだよ。」

 キヨさんの口癖だった。本当に私の事を大切にしてくれている。

「ありがとう、キヨさん」

「まずはお手本を作って持ってこようかねぇ」

 なんてニコニコしながら、どんな色がいい?大きさは?なんて楽しくおしゃべりをしていた所にもう一度扉が開く音がした。

 そちらに目を向けると今度は柳じいさんが来ていた。

「おや、キヨも来てたのか」

「なんだい、いちゃいけないかね」

「いやいや、おれはスーちゃんを独り占めしたかったんだがなぁ」

「何言ってんだい、老いぼれが」

「おいおい、老いぼれはそっちもだろうがい」

「なんだと」

「ン?」

 なんていつもの喧嘩が始まる。もはやいつものことだから何も言わずに柳じいさんにブラックコーヒーを差し出した。柳じいさんはどんな時も必ずブラックコーヒー。ありがとうスーちゃん。と言いながらもキヨさんとの喧嘩の口は止めない。いまはお花の香りがあるのに香りの強いコーヒーを飲むなんて、という喧嘩をしている。喧嘩と呼ぶのかも怪しい言い合いに耳を傾けながら少し笑った。


 この2人は私のおばあちゃんも含めて仲が良かったらしく、おばあちゃん曰く昔から小競り合いが多かったそうだ。かといって仲が悪い訳ではなく、柳じいさんが戦争に借りだされたときはキヨさんと2人で本気で心配して毎日無事に帰ってくるようにお祈りしていたそうだ。幸い、柳じいさんは右足に重傷を負ったが命は無事に帰ってきたそうだ。でも、そんな柳じいさんを待っていたのは何とも残酷な現実だった。

 柳じいさんの家は戦火に焼かれ、奥さん娘さん共に亡くなっていたのだ。項垂れる柳じいさんを受け入れたのが私のおばあちゃんとキヨさん。だから、小競り合いをしつつも柳じいさんはキヨさんに感謝しているし、キヨさんも柳じいさんのことを心配しているのだ。


 現に、お互い1人でここを訪れた時は柳じいさんは「キヨには頭が上がらん」と言うし、キヨさんは「柳の相手をしてやってくれ」なんて言われる。2人とも素直じゃないなぁ、なんてほほえましく見守っているのが私だった。きっとおばあちゃんもこうやって二人を見ていたんだろうなと想像も出来る。

「そうだ、すみれちゃん」

「はい?」

「今日は夕方から天気が崩れるみたいだからその前にイベリスの鉢は中にいれた方がいいかもしれないよ」

「そんなに降る予報なんですか?」

「おれも天気予報見たが一部地域は凄く降るかもしれないんだとさ」

 この二人が言うんだから間違いないだろう。

「分かった、夕方前に鉢は中に入れて置くようにするよ」

 うんうん、と2人が同じタイミングで頷く。まるで双子のようで面白く、くすりと笑うと、同時に頷いた事に気が付いたのか、真似するんじゃないよ。とまた小競り合いが始まった。


 二人はお昼過ぎには帰っていった。そこでも同じタイミングで帰ろうとするから小競り合いが始まったけどほほえましい限りだ。それだけエネルギーがあるって事だからね。

 二人が帰った後には新しいサラリーマンの方が仕事をしに来られたり、主婦の方がおしゃべりの場にしたりと少しにぎわった。


 時計を見れば三時半を少し過ぎたころ。となるともうすぐあの人が来るはず。と思った瞬間に扉が開いて、想像していた人物が立っていた。

「すみれちゃん、元気~?」

 寝起きみたいなぼさっとした髪をまとめながらカウンターの近くに来たのはこのマンションに住んでいる漫画家の紫苑さん。

「元気ですよ〜。紫苑さんはさっき起きたんですか?」

 漫画家だからなのかかなり不規則な生活を送っているらしく、いつも大体この時間に来て目覚めの一杯頂戴と言われる。


「そ、さっき起きた」

 大きな口を開けながらあくびをする口元にはほくろがある。それが「大人の女性感」を出していて、とっても好きだった。ちゃんとした格好をした紫苑さんはとっても美人さん。一度だけ紫苑さんが何かの授賞式に出た時の格好で、夜に来られた時があったのだがその時は本当に紫苑さんか疑った。


「今日はカモミールティーですけど、どうしますか?」

「んあ~、もう少し強いのがいいな」

「なら紅茶にしますか?ストレートで」

「うん、それにしようかな」

 そう言われて私は早速お湯を沸かし始めた。


 紫苑さんは実はかなり有名な漫画家さんで今度アニメ化されるらしくここ最近多忙を極めている。だから今日もかなり遅くまで作業していた。

 なんでそんなこと分かるかって?紫苑さんの部屋は私の隣だから。なんとなく朝方、確か四時くらいに目が覚めた時にまだ隣の部屋から話し声がしたからきっとあの時間までお仕事をしていたに違いない。


「紫苑さん、昨日というか今朝四時くらいまで起きてましたもんね」

「あ~、物音で起しちゃった?ごめんね?」

「いえいえ、たまたま目が覚めたんです」

 隣の部屋の声やら生活音が全部漏れることはないが、大きな声や物を落とした音などは聞こえてくる。


「何かあったんですか?」

「いや、アニメの内容を変更したいって言われたんだよ」

「え?お話を、ですか?」

「そ、信じられなくて無理だ~って言ってそのまま少し口論になったんだよ」

 紫苑さんは眉毛を少し下げて申し訳なさそうな顔をする。良いんですよ〜なんて言いながら大変だなぁなんて思った。

「というかそんなことあるんですね」

「ほとんどないよ。私も初めて言われたもん」

 申し訳なさそうな顔から少し拗ねたような顔に変わった紫苑さんにストレートの紅茶をアイスにしてお出しした。紫苑さんはかなりの猫舌。だからいつもアイスにする。ありがと、とお礼を言われてそのままアニメ担当者さんの愚痴大会が始まる。


 紫苑さんの話は私にとっては異次元で聞いていてとても面白い。愚痴だったのにいつの間にかアニメ制作の裏話になって声優さんが凄いという話になって、ドンドン話が逸れていき全然関係ない話になって2人の間に多くの笑顔が生まれていた。


 紫苑さんの話を聞いていると夢中になってしまって時間を忘れてしまうのが残念な所。2人でひとしきり大笑いして気が付いたら外は暗くなり始めていた。イベリスの鉢を室内に入れようと思っていたことを思い出し、紫苑さんに手伝ってもらって鉢を室内にいれた。紫苑さんもそろそろ仕事に戻るとの事でそのままお部屋に帰っていった。


 本格的に天気が崩れたのは六時を過ぎたくらいだった。それまでもちらほら雨は降っていたのだが、六時を過ぎたころには外の雨の音にビックリするくらいの大雨になった。これは本当にイベリスの鉢を室内に入れて正解だったかもしれない。

 滝のように外は雨が降っている。お店からは駅前が少しだけ見えるのだが、あまりの雨に立ち往生している人が見受けられる。


 一時的な雨だろうと思っていたにも関わらず同じようなペースで一時間は降り続いている。駅にいた人は諦めたようにこの豪雨の中走って帰り始めてる人もいるし依然として待っている人もいた。なんだか人がかなり増えたような気もするけど。


 お店には誰一人来なかった。まぁ、こんな豪雨の中誰も来ないよなぁなんて思って花図鑑を開いた。私にとって図鑑は調べるものではなく読むものになっていた。特に花図鑑に関しては特に。今日の図鑑もついこの間新しく買った物だった。花は数えきれないほどこの世に存在しているおかげで全部の花が載っているものというのは私の知る限りではない。だから、この図鑑には載っているのにこの図鑑には載っていない、という事が起こるのだ。その図鑑が何に特化した図鑑なのかによって載るものが変わるんだと思う。だから面白い。


 私が図鑑を読みふけっていると、お店の扉がバンッと勢いよく開いた。ビックリしてその扉の方を見るとずぶ濡れの男の人が2人立っていた。1人は少し小柄でカバンを大事そうに抱えている。もう一人はかなり大柄で少し遠目に見ても分かるイケメン。

「やっば、この雨」

「すみません、こんなずぶぬれで入っちゃって」

 2人がペコペコと頭を下げる。いやいや、そんなことよりも!

 私は奥に入り少し大き目のタオルを持ってきて二人に渡した。

「風邪ひいちゃいますよ。拭いてください。」

 いいんですか、すみませんと2人がタオルを受け取り、私はカウンターの中に戻ってお湯を沸かし始めた。2人の様子を見守っていると小柄な人がカバンの中からパソコンを取り出した。だからあんなに大切そうに抱えていたのか。小柄な人がパソコンの中身に異変がないかチェックをしている間、大柄なイケメンさんは店の中をウロウロとしていた。お店の中をまじまじと見られるのはなんだか気恥ずかしさがあった。


 私は小柄な男の人の近くに行き、カモミールティーを2人分差し出した。

「寒かったでしょう。もしハーブティーお嫌いじゃなければお二人ともどうぞ」

 小柄な男性が人懐っこい顔で笑いながら良いんですか、ありがとうございます。お代お支払いします。と言ってくださったけど私は丁重にお断りした。

 これはあくまでも私が2人にしたいと思ったからしたまでのことでそこに見返りを求めるのはおかしなことだ。

 すると大柄な男の人が私と小柄な男性の間に顔をにゅっと出した。

「パソコンどう?」

 私はあまりにビックリしてすみませんと言ってキッチンに戻っていった。大柄な男性は少し不思議そうな顔をしたけど、小柄な男性との話をし始めた。


 大柄な男の人は苦手だった。父親を思い出してしまう。お母さんと離婚した父親。赤いライトとサイレンの音が耳に木霊した。

 いかんいかん、嫌な記憶は思い出さないようにしているんだ。今が幸せだから暗いことを考えるのはやめよう。私は2人に意識を戻した。どんな人なんだろう。だって明らかに大柄な男の人は帽子にマスクといかにも怪しい格好をしている。


 よくないとは思いつつも二人の言葉に耳を傾けていると、どうやら芸能人とマネージャーさんっぽい。本当は駅で雨が止むのを待っていたのだが、気が付いた人がSNSで発信してしまったようで仕方なく移動してきたようだった。だから、異様なまでに駅に人が増えたのかと合点がいった。

 紫苑さんが近くにいるので芸能人の扱いはなんとなくわかる。なるべく騒がない。居心地のいい空間を提供するのが私の仕事。

 あまりにも凝視していると居心地が悪いだろうから、と私はさっきまで読んでいた図鑑をもう一度開いた。


 少し時間が経っていまだに外の雨が止む気配はない。時計を見ればもうすぐ7時半を過ぎようとしていた。

「すみません、こんな時間まで。お店大丈夫ですか?」

 小柄な男性が携帯を片手にペコペコとしながら言ってきた。きっと謝るのが癖なのだろう。紫苑さんが芸能界は上下が厳しく大変なんだと言っていたことを思い出して、きっと普段から大変な思いをしているんだろうなぁ。

「大丈夫ですよ。一応閉店時間決めてますけど、あってないような物なので。」

 ちらりと見えた携帯の中には私のお店のHPが見えたから調べて閉店時間が近いのを気にして声をかけてきてくれたのだろう。その心遣いに胸が温かくなった。私の周りにはいい人たちで溢れている。


「なぁ、これ何て草なん?」

 独特のイントネーションで大柄な男性が話しかけてきた。ビクッとしてそちらを向けば、そこにはキングプロテアのドライフラワーがあった。

「あ、それはキングプロテアのドライフラワーです。花言葉は『王者の風格』。プロテアはギリシャ神話の海神プロテウスから取られたみたいですよ。プロテアはたくさん種類があるんですけど……」


 ここまで話して言葉を止めた。いかんいかん。話し過ぎた。まるで自分の知識をひけらかしてるみたいだ。それに、男性は花の話なんて興味ないだろう。OL時代を思い出す。胸がずきりと音を立てた。

「ん?続きは?」

「え?」

 大柄な男性は帽子もマスクも外してカウンター席に座って話を聞いていた。

「んえ、話の途中で切らんといてや。気になるやん。」

 端正な見た目からは想像できない程柔らかく笑って私の話の続きを促している。

「あ、えっと、プロテアは種類が大体百ほどあるんですけど、その中でもキングプロテアはキングの名に恥じないほど見ごたえがあるんです」

「へぇ〜、見てみたいわぁ。どこにあるん?」

「主な産地は南アフリカと言われてます」

「アフリカかぁ、それは行かれへんわ」

 なんてまた優しい顔で笑った。言葉を聞く限り関西出身の方なのだろう。なんとなく関西は強くて大声で話しているイメージがあったのだが、この方はちょうどいい低音で聞いていて居心地がいい。


「なぁ、これは何?」

 その方が次に指したのは今朝作り始めたポプリの瓶だった。

「これはポプリを作っている最中なんです」

「ぽぷり?なんそれ?」

「ドライフラワーからいい匂いがするやつ見たことないですか?居酒屋さんのトイレとかに置いてあったりするやつです」

「あ~!あれポプリって言うん。知らんかった」

「ドライフラワーを少し細かく砕いて、アロマオイルと一緒に密閉できる容器に入れて大体一ヶ月くらい放置するんです。そうするとできるんですよ」

 またへぇ〜なんて感嘆の声を漏らしている。少し話し過ぎてしまったかもしれないと思ったがその感嘆の声を聞くと本当に聞いてくれているんだと安心することが出来た。


 それからこの方はお店の中のお花について色々聞いてきた。

 これは何?どこに咲いてるん?ドライフラワーになる前はどんな感じの花なん?

 私は気が付かないと聞かれてもないことを話すのだが、彼はそれさえも、うんうん、へぇ、と言いながら聞いてくれた。広くもないお店。いつの間にか全部のお花の説明をしていた。さすがに申し訳なくなった。

「すみません、長々とお話してしまって」

 最後に説明したイベリスの花を撫でながら言うと彼は心底ビックリした顔をして

「え?なんで?俺が聞いたんやで?」

 と言ってくれた。それでも私が顔を伏せていると彼は言葉を続けた。

「それにこんだけ話せるってことはそれだけお花が好きなんやろ?いい事やと俺は思うで。俺も勉強になったし」

 彼の顔を見るとまたあの優しい顔で笑っていた。なんだか私はそれをブルーレースフラワーみたいだと思った。なんでかは分からないし、花言葉がなんだったかも思い出せない。でもあの八重咲きの淡い青色のふわふわとした花がピッタリだと思った。


 カウンター席に戻ってもう一度カモミールティーを出すと、ありがとうと受け取ってくれた。もちろん小柄な男性にも。こちらの方は何やら忙しそうにお仕事している。きっと売れっ子でマネージャーさんも大変なのだろう。

「なぁ、俺の事知ってる?」

 ドキリとした。芸能人なのは分かるのだがどんな職業なのか名前も分からなかった。

「えっと…ごめんなさい」

 素直に知らないことを告げると、彼はまた笑った。

「いやぁ、俺らもまだまだやなぁ。なぁ長谷川さん」

 彼がマネージャーさん、長谷川さんに話しかけるといつの間にかこちらを向いていた長谷川さんの顔にも笑顔が咲いていた。

「俺、一星。一つの星って書いて一星。アイドルやってます」

 アイドル!通りで顔が端正な訳だ。

「あ、私は『イベリス』で店長をしてます、すみれです」

「すみれちゃんね。すみれって漢字なん?」

「いやひらがなで、すみれです」


 私は空中に自分の名前を書いた。自分の名前は好きだった。付けてくれたお母さんの事も。今はどうしているのかも知らないけど。

「名前までお花なんやね、似合ってる」

 私は自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。そりゃ、こんな端正な顔立ちの人にそんなこと言われたら顔は赤くなるはず。

「一星さん、迎え到着しました」

 長谷川さんが階段下をのぞきながら一星さんに声をかける。おう、と一星さんが答えて立ち上がる。

 

 依然として外は音を立てながら雨が降っている。

「良ければ傘どうぞ。下までかもしれないですけど使ってください」

 私は二つの傘を2人に差し出した。きっと長谷川さんはこれ以上パソコンを濡らしたくないだろう。

「何から何まですみません。今度お礼にお伺いします」

 丁寧な口調で長谷川さんが挨拶してくれた。

「いえいえ、本当にこれは私がお二人にしたくてしている事なのでお気になさらないでください」

 二人は雨の中何度もありがとうございますと言いながら車の中に消えていった。なんだか今日一日いいことをした気分だ。

 私は閉店作業をしながら、一星さんの優しい笑顔を思い出しては消していた。

 アヤメが持ってきた『いい便り』はこれの事だったのかもしれない、とほんのちょっとだけ思ってお店を閉じた。


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