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はじめまして、私。

作者: 成井シル

「駅までお願いします」


 それだけ言って、私はタクシーの窓から空港を見る。

 遠ざかっていく。

 後ろ髪を引かれる、というのは、きっとこういう感じを言うんだろう。


 東京に置いてきた彼は、たぶん、今頃、あの女と一緒にいる。


 彼のスマホを見なきゃ良かったのか、見て良かったのか、未だに分からない。


 考えても考えても、出てくるのはため息だけだ。


 彼が出張に行っているはずの日付で、彼が夜桜と一緒に映っていた相手は私の知らない女だった。

 彼はあっという間に自分の裏切りを認めた。

 私の中に出来た感情の亀裂はもうどうしようもなくて、私は同棲のために運び始めていた彼の荷物を、アパートから次々放り出した。


 旅行は、同棲前のリハーサルだね、なんて笑いながら二人で計画してきたものだった。

 食べたいもの、行きたい所を、ガイドブックやウェブでたくさん調べた。調べている時間そのものが楽しくて、彼も同じ気持ちでいると思い込んでいた。


 でも、違った。


 それでも、あんなにかけた時間がフイに鳴るのが悔しくて、哀しくて、腹が立って、私は旅の荷物と二つの合鍵を持って飛行機に乗った。


 空港でも、びょおびょお泣いて、ぐすぐす鼻をすすっていた。

 こんなに哀しい顔をしているのに、誰もハンカチどうぞなんて優しい声をかけてくれたりしないのね、日本人はみんな親切だなんてうそっぱちだわ、なんて世界中に八つ当たりして、私はこの街に着いたのだった。


 空港から離れるにつれて、緑が少なくなり、コンクリートが増えてきた。


「ハンカチどうぞ」

「えっ」


 ふいに声をかけられ、前を見る。


 運転手のおじさんが、片手でハンドルを操作しながら、片手にハンカチを持っている。

 そして器用に、後ろ手にそのギンガムチェックのきれいな水色を、私に差し出している。


「ありがとう、ございます」


 反射的なお礼とともに、両手で受け取る。


 ハンカチの端と端を持って、呆然とする私。


「あれこれ聞かないからさ。目元、拭いていいよ」


 じゅっ、と目の奥が熱くなる。

 慌てて涙腺を圧迫しにかかる。


 成人して何年か経った。

 感情任せに独り言なんて言ってなかったと思う。


 どうして分かったんだろう。


 でも、頭の中の不思議より、心にしみ込んだものが強すぎて、私は何も言えなくなった。


 どれくらい走ったか、にじんだメーターは少し上がっていたように見えた。


「あと少しで、駅だよ」


 ハンカチをもう少し下げて、横目に外を見る。

 路面電車が並走していて、奥にはアーケードの屋根が続いていた。

 ガイドブックで見たような、あるいは誰かのSNSで見たような景色だった。


「西部地区に、来々軒っていうラーメン屋さんがあってね。

 鶏ガラでさ、醤油でさ、やさしい味でおいしいんだ。

 麺がやわっこくて、床もテーブルも油っぽいけど、オススメだから」


「ありがとうございます」


 調べた中にはなかったお店の情報を教えてくれたことへの感謝はもちろんあったが、それ以上に、おじさんの穏やかな声への感謝が大きかった。


「はい、着いたよ」


 メーターにくっきり表示された金額を確認して、私は財布からそれを出す。


「はい、ありがと。それじゃあ、ゆっくり楽しんでね」


「ありがとうございました」


 降りながら言葉を紡ぐ。


 ひとりでに閉まったドア、走って行くタクシー、右手にハンカチ。


 右手にハンカチ。


 あっ。


 次の信号を左折して、タクシーは見えなくなってしまった。

 運転手さんの名前が書かれたプレートにも、車のナンバープレートにも注意を払っていなかった私は、突っ立った。

 もしかしたらと思ってハンカチを広げて見ても、名前の刺繍はなかった。


 馬鹿。


 こんなだから、浮気されても気付かない。


 慌ててハンカチを目に当てる。


 やめ、やめ。


 私はバックパックを背負い直し、予約したホテルに入った。


 フロントを通り、部屋のベッドに荷物を放る。


 バッグは、彼と一緒に選んだ、旅行のために買ったバッグだった。


 はみ出て見えるシャツも、その奥にいれた靴下も、ポーチも、その他もろもろも、彼と一緒に選んだ。

 彼が好みだと言うから、それまで買ったこともなかった黄色の服が増えた。

 彼が苦手だと言うから、キャラクターものが減った。

 旅行の支度の最中と同じように、いちいち彼の顔と言葉と仕草が浮かんできて、また、暗い気持ちになってきてしまった。


 だめだめ、これじゃ駄目だ。


 小さなショルダーバッグを取り出し、財布やらティッシュやら、さっきのハンカチやらを丁寧に入れて、私は部屋を出る。


「あの、来々軒っていうラーメン屋さんに行きたいんですけど」


 フロントの男性に聞くと、丁寧に道順を教えてくれた。


 日本人って、やっぱり、みんな親切なのかもしれない。


 路面電車のレールが埋め込まれた道路脇の、屋根付の歩道を歩く。


 高校生らしい集団がいたり、旅行者らしい家族がいたり、若々しいおじいちゃんとおばあちゃんがいたりする。そのおじいちゃんとおばあちゃんに、見るからに修学旅行をしている体の小学生達が地図を指しながら何か話を聞いている。


 ゲームの冒険みたいだな、と思った。


 そういえば、いつかの修学旅行も、友達と歩いているだけでどきどきして、わくわくした。


 大人の私の次のミッションは、来々軒でおいしいラーメンを食べることだ。

 レベルが上がるかどうかは分からないけれど、体力は回復するかもしれない。


 “エリア移動”が終わった。

 くたびれたのれんをくぐって、滑りそうな床を歩いて、ぺたぺたする席に着く。


 奥の厨房から、腰の曲がったおばあさんが現れた。


 ご注文は、と言われて、醤油ラーメンで、と答えた。

 おばあさんはまた奥に入っていく。


 狭い店内には、私しか居ない。

 昼時をとっくに過ぎているせいだろう。

 コンクリートが露出した四角の中に、私ひとりだ。


 そういえば、東京のラーメン屋さんは、厨房が見える造りになっていることが多い気がする。

 お店の造りにも、古い、新しいがあるんだな。


「はい、おまち」


 ゴトリと置かれた中華どんぶりから、優しい香りが立ち上ってくる。

 散らされた細かなネギのいい香り。その後ろから、醤油のにおいが追いかけてくる。


 いただきます、を小声で紡いで、ふーふー言いながら麺をすする。


 口に広がるぬくもり、優しい味。

 ぎゅ、と奥歯で噛む。


 あ、駄目だ。

 ふわっと涙がこぼれる。


 みっともないな、本当に。


 こんなに、こんなにも好きだったか、あんな男が。

 浮気するような男に惚れて、独りになって、やけばちに旅行に来て、美味しいご飯も食べられなくなって。


 はぁ、とため息なのか、息つぎなのか、大きな呼吸をしてから、二口目を運ぶ。


 あの運転手さんの言うとおり、麺が少し柔らかい。

 そして、肝心の味は、よく分からない。

 泣いて鼻が詰まっているせいか、顎が震えているせいか。

 本当はとっても美味しいんだろうなと思う。


 それでも残したくなくて、さらに柔らかくなっていく麺を、はぷはぷ食べた。

 ラーメン一杯に、結構な時間がかかってしまった。

 私は手を合わせて、ごちそうさまでした、と小声で紡いだ。


「100円ね」

「え?」


 壁の札を見る。

 日に焼けた黄色い短冊に、消えかけたオレンジ色で「ショウユ600」と書いてある。


「でも……」

「100円分くらいしか、味、分からなかったろ」


 見られていて当然だ、客は私一人だったんだから。


「すみませんでした」


 顔を伏せた私の手を、おばあさんの手が包んだ。


 顔を上げた私を、優しい目が見つめている。


「若いときは、色々あるよね。

 そういうときは、年寄りが優しくしてあげるからね。

 味が分かるくらい元気になったら、またおいで。

 早まったらいかんよ」


 何も言えず、おばあさんを見る。

 おばあさんも何も言わず、微笑んで、そっと私の頭を撫でてくれた。


「ありがとうございました、ごちそうさまでした」


 私が百円玉を両手で渡すと、彼女も両手でそれを受け取った。

 お店を出て、ホテルとは反対の方向に向かって歩く。


 さっきの言葉が、耳に返ってくる。


 早まったらいかんよ。


 そんなに、命を危ぶむほどに、落ち込んでいるように見えたんだろうか。

 ただ、男と別れただけなのに。


 見えたんだろうな。

 この世の終わり、くらいに思っていたから、確かに。


 何かのお店のガラスに映った自分を見て、立ち止まる。


 曇っている。

 くっきりは見えない。

 でも、情けない顔をしているんだな、と思う。


 さっきおばあさんの手が触れた頭に、自分の手を当てて、髪を撫でる。


 伸びたな。

 いや、違う。

 伸ばしてたんだ。


 ずっと前、どんな髪型がいい、と彼に聞いたことがあった。

 彼は、ポニーテールが好きだと言った。

 その日から私は、髪を伸ばし始めた。


 あの日から、私がいなくなっていったんだ。

 服の種類も色も、髪型も、彼のために選ぶようになっていった。

 私の中の彼がどんどん大きくなっていって、私の中の私はどんどん小さくなっていた。


 そして、私の中に陣取っていた彼が置いていったのは、今の私の中に在る空虚。


 うん、よくないな。

 変えよう、自分を。

 よし、髪を切ろう。


 ありがちだけど、空虚な自分でいるより、ずっといい。


 ガラスに反射する自分のずっと奥に、赤と白と青がくるくる回っている。

 振り返ると、営業中の表示を提げた理容室があった。

 辺りを見渡して、信号と横断歩道を見つける。

 小走りで到着して、待って、渡る。


 くすんだ緑色の取っ手を引いて、扉を開ける。

 中には誰もいなかったが、ごめんくださいと言いかけたところで、整ったひげを撫でながら店主らしき男性が奥から出てきてくれた。


「いらっしゃい。カットですか、それとも?」

「カットで、お願いします。」

「はい、それじゃかけて」


 店主は慣れた手つきで椅子を回し、私が座りやすいように調整してくれた。

 私が浅く腰をかけると、スッと椅子の角度を調整し、鏡の私と私の目が合った。


「どんな感じで」


 そう言われて、私は私を見る。


 どんな感じにしようか。

 彼の好みじゃなくて、私がしたい髪型でいい。

 でも、そんなものは随分前にアルバムにしまってきてしまった。


「えっと……」


 お任せで、という言葉が浮かんだけれど、飲み込んだ。

 そういう、誰かに判断を委ねる自分を、切り落としにきたんだから。


「かわいくしてください」


 言ってから、恥ずかしくなった。

 耳が赤くなっていくのが見える。

 せめて、きれいな感じで、とか大人っぽく言えばよかった。


「わかりました」


 店主は穏やかな表情のまま、エプロンから次々とハサミを取り出し、私の髪に当てていく。


 しょき、しょき、という細い金属音が鳴り、サッ、パスッ、と私の一部だったもの達が床に落ちる。


 初めは目を開けて変化を見ていたけれど、途中で私は目を閉じた。

 怖いのと、楽しみなのと、割合は分からないけど、入り交じった感じ。


 店主は何も言わず、静かに作業を進めていく。


 しょき、しょき。ぱさ。

 しょきしょき。さら。


「流しますね」


 促されるまま、私は体を後ろにやったり前にやったり、ジャージャーやられたりゴーゴーやられたりする。

 途中、店員さんがやりやすくなれば、と角度を微調整してみたけれど、意味があったかは分からない。


「はい、終わりました」


 ゆっくり、目を開ける。


 ひさしぶり、私。

 いや、はじめましてかな、この場合。


 鏡の中の女性も、まんざらでもない顔だ。

 結構いいじゃん。

 笑うと、向こうも笑った。

 当たり前か。


「どうですか」


 店主が低い声で、けれど穏やかな口調で言う。


「どう、ですかね」


 思わず聞き返してしまった。


 店主は整ったひげを二度三度撫で、いいと思いますよ、と言って、さらに続けた。


「良い恋が見つかる感じですね」


 今日の私の顔には、何か書いているんだろうか。

 鏡で確認しても、そんなことはなさそうだけれど。

 照れくさくなったが、悪くない気分だった。


「ありがとうございました」


 私は料金を支払って、店の外に出た。


 おもむろに、私はバッグからスマホを取り出して、画面を動かし始めた。

 連絡帳の中の一件をタップして、消去を選択する。

 確認のためのウィンドウを、きちんと読まないでイエスに指を当てる。

 写真やら何やら、細々したデータ達は、あとで消去しよう。


 遠くに大きなエンジン音を感じて見上げると、飛行機が遠ざかって青空を進む。

 雲一つない晴れだったことに、今、ようやく気が付いた。


 路面電車が道路を走ってきた。

 すぐそこに停車場がある。

 私は信号を確認して、小走りで停車場に向かい、そのままの勢いで駆け乗った。

 切ったばかりの髪を、風が優しくなびかせた。


 これがどこへ向かうものなのか、分からない。

 どこで降りるかも、決めていない。

 ただ、私の中は、旅が始まったという高揚感でいっぱいになっていた。


作者の成井です。


今回の短編をお読み頂き、ありがとうございました。

「面白い話だった」「他の作品も読んでみよう」と思って頂けたなら、

下の☆☆☆☆☆欄で評価していただけると幸いです。


では、また。

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