竜宮家の御役目 了
後日明朝に裁判は執り行われる。
城内にゴザが敷かれ、その上に騒動を起こした縛られたサンマとその家来が座っていた。そして縛られてはいないがさよりも座っていた。
罪人たちの周りを武装した竜宮家の人間がにらみを利かせている。
見物人はいなかった。
「さてサンマよ。竜宮甚平が直に問う。お前が重ねた罪を申せ」
「……」
「なんだ、罪を犯した自覚がないのか? お前の罪は数えきれない。龍神様への侮辱、竜宮家への謀反だけではない。放火に暴行、そしていたいけな我が娘を人質に取る、決して許されぬ卑劣な蛮行。酌量の余地はない」
「……いまさら娘を人質に取ったことを責めるのか、このろくでなしが」
さよりが目をかっと開かせる。
「サンマ! 懲りずにまだ竜宮家を侮辱するのか!」
「ばばあこそ、まだ俺に説教するのかよ。言っておくが俺は反省も後悔もしていない。俺の勇気は正しく、何一つ間違っていない。正されるべきは竜宮家だ」
「どの口が言うか!」
「この島は竜宮家に支配……いいや、洗脳されている。なにが御役目、なにが龍神様だ、全ては竜宮家の利益のために回っているに過ぎない」
「裁判などいらぬ、お前はこの場で私が殺してくれる!」
首を絞めにかかろうとするさよりを甚平は止める。
「さより。勝手に口を開くな。そして今の発言は竜宮家の判断に逆らうもの。今すぐ撤回しろ」
「う……甚平様がそうおっしゃるのであれば……」
「それでサンマ。話を続けてみろ」
「言われるまでもねえ、俺は知っているんだぞ。島民には慎ましい生活を善と説きながら、自分は着々と私腹を肥やしていることに。ちょっと調べればわかることだ。帳簿の収益が流通量と噛み合っていない。俺を剣だけの男だと思ったか? 海向こうの相場を考えても、もっと利益があってもいいはずだ。なのに帳簿には少なめに記されている。懐に入れてるってことだろ? 俺を謀反だって責めるなら、税を誤魔化すお前も帝を裏切ってるようなもんだ」
言い切ったサンマはどうだ見たかとほくそ笑むが、
「……なんだ、そのことか」
甚平は痛くも痒くもなかった。
「それしきのこと、皆はとうに気付いておる」
「…………………………は?」
「断っておくが懐に入れてるのは確かだ。だがそれで私腹を肥やしたという事実はない。いざという時のための蓄えだ。島のために預かっているのだ。何かが起きた時のための……そう、凶作が起きた時に海向こうから食料を買い付けるためのな」
言い負かされたと思われたサンマだったが、ふふふと笑う。
「んじゃあ……やっぱ俺の考えに間違いはねえ。やっぱこの島は支配されている。息苦しくても文句ひとつ言えねえ、絶大な恐怖によってだ。この裁判もそうだ、形だけで何の意味もねえ! 甚平一人のさじ加減、気分で生死が決まる、まな板上の魚みたいなもんだ!」
甚平は腕を組みなおす。
「否定はせん。古くから罪人の首をはねて晒す見せしめは存在する。あれも恐怖による秩序の維持の一環である」
「ほう、晒し首とか来たか! いいね、やってやろうじゃねえか! 俺の血でこの島を真っ赤に染めてやろうじゃないか!」
「出る船の纜を引くような未練がましさはないのか。その潔さはよし。しかし慌てるな。貴様ら全員大罪人。刑が何か相応しいかはこの当主たる私が決める。だが極刑は免れないと思え」
「ははは、やっぱり殺すんじゃねえかよ、まったく意味のねえ裁判だ……」
ふとサンマは一言に引っ掛かる。
「おい、いま、全員が大罪人と言ったか……」
「ああ、そうだ」
「…………ばばあもか? さよりの、ばばあもか?」
「無論だ。私は彼女に鍵の管理を任せた。なのに彼女は責務を怠った。そしてそれが原因でこのような事態を招いた。罪は免れない」
「ふっっっざけんな!!! ばばあはなんもかんけいないだろ!! じゃあなんでわざわざ命を助けた!」
「正しく罪は償わせるためだ。さよりもそれをわかっての行動だ。まことに大義である」
「大義である、じゃねえよ!! 頭おかしいぜお前!! それだったらよ、お前の責任はどうなんだ!! さよりのばばあに鍵の管理を任せたお前の責任!! そして娘をほったらかしにした責任!!! 都合の悪いところだけ下の人間に押し付けておいて、なにが当主だ偉そうに!!」
声を枯らすほどの魂の叫び。
「……気は済んだか、サンマよ」
竜宮甚平はその一言に留まる。
「くそったれ……くそったれが……」
サンマが何を言い返しても裁判は厳粛に滞りなく進む。
「さて、これにて判決を下す」
終盤に差し掛かる。判決を言い渡す。
「この者全員を」
しかしそこに異を唱える者が現れる。
「おまちになってください、ちちうえ!」
それは小さな小さな次期当主、乙姫だった。
「……子供が何用だ。乙姫と言え、職務の邪魔をするとはけしからん。ただちにさがれ!」
「しょくむんのじゃまではありません! だって、乙ひめも、わたしもあのばにいた当じ者です!」
甚平の剣幕に飲み込まれることなく発言し、さよりを庇うように立った。
「さよりはわるくありません! わるいのはこのわたしです! かぎをうばったわたしにせきにんがあります!」
「姫様、いいのです。こんな私の罪を庇わなくても」
だが乙姫は止まらない。
「おもいだしてください! さよりはわたしをかばってくれました! そのがんばりもかんがえてください!」
甚平は腕を組みなおす。
「……なるほど。まだ子供の意見ながらも筋が通っている。耳を傾ける価値はあるな。考え直してもやってもいいが条件があるぞ?」
「なんですか?」
「それはお前に罰を与えなくてはいけなくなる。一度決まったら泣いて謝っても許してもらえない、贖罪が始まる。贖罪の意味はわかるか?」
「……なんとなく、わかります。でもそれで、さよりが許されるのであれば」
「いいや、さよりの罪は許されない」
「そ、そんな……!」
「だが刑は軽くしてやることはできる。さより、それでよいか」
さよりは目を瞑り頭を下げる。
「……姫様の御好意を無駄にはできませぬ。謹んでお受けいたします」
甚平は腕を組むのをやめて拳を膝に置く。
「……ではさよりの刑の決定は保留とするが他の者には判決を下す。貴様らはこの島で最も重い罪、龍神様を侮辱した。切腹では生ぬるい。じわりじわりと罪を後悔させる流刑に処す! 刑は今この時より始めるものとする!」
流刑と聞き、死んだほうが楽だと泣く者もいれば、とりあえず一命をとりとめたとほっと一安心する者もいる十人十色。
サンマはというと、
「……ふざけるなよ」
怒りを燃やす。
「……なにがまだ子供の意見ながらも筋が通っているだ、耳を傾ける価値はあるだ……とんだ茶番だ……結局は、結局は竜宮家の勝手じゃねえか! 俺は、俺の両親は、さよりは、この島の連中は全員、こんな奴らのために生きてんのかよ!! 竜宮家でなければ人でなしかよ!! やっぱこの島はおかしい!! 津波に飲み込まれて海の藻屑として沈んだほうがましだぜ!!」
その言葉に誰もが俯く。
「……浜に連れていけ。後で見届けに私も行く」
甚平の指示でサンマは連行される。
「てめえの見送りなんていらねえよ、ばーーーーか!!!」
連行される途中にサンマは乙姫と目が合う。
「……」
サンマはぼそりぼそりと何かを呟いたが、乙姫がそれを聞き取ることはなかった。そもそも聞こえるような声量を発していなかった。
「……これで鶴野家も終わりか」
さよりは座ったまま残念がる。サンマと目を合わせることはなかった。
「……乙姫。何をぼうっとしておる。まだ仕事は終わっていない、ついてこい」
甚平は乙姫の手を引っ張る。
「乙姫様も……連れてゆかれるのですか……」
さよりはそう尋ねる。
「……たった今、乙姫は次期当主となった。これより竜宮家の御役目とは何たるか、その一つを教えなければならない」
その答えに顔を伏せる。
「お労しや、乙姫様……まだ若いというのに……」
「……これしきのことで心を痛めていては身体がもたぬぞ。これも贖罪の一つと思え」
甚平と乙姫は浜へと向かう。
そこで騒動の顛末、謀反者の最期を見届けることとなる。
流刑の順序は決まっている。
先に使者の舟が出る。その後に罪人の舟が出る。使者の舟は罪人の舟を縄で曳航し海に出る。
「新たな船出にしては貧乏くさい舟じゃねえか」
サンマは乗せられた船の底を蹴る。見た目に反して頑丈な出来で底は抜けない。水に浮かべても浸水はない。
また櫂のような道具は一切乗っていない。
「なるほど……抵抗の素振りを見せれば縄を断たれ大海原を彷徨うことになるってわけね……よく考えられてるわ」
「おい、黙って舟に乗れ!」
竜宮家の使者が警告する。
「わぁってるわぁってる。とっとと海に出たいのはこっちも同じだ。よっこらせと」
サンマは縛られながらも悠々と胡坐をかく。
船には次々と家来たちが乗せられる。定員はぎりぎり。大きく傾けばあっという間に全員が海に投げ出されてしまうだろう。
幸い、この日の空は快晴で海は凪。水平線のように波立っていない。
「ははっ! 龍神様は早々に俺を厄介払いしてえみてえだな!」
しかし人の心は常に波立つもの。
「やだ! やだ! 俺、やっぱりこの島にいたい! 全て謝ります! だからお許しを! ご慈悲を!」
鶴野家の家来の一人が泣きながら乗船を拒み、逃げ出そうと試みる。
「いまさら反省しても遅いわ!」
すぐさま竜宮家の使者に捕まり、舟に押し込まれる。
「それでは行って参ります、甚平様」
「うむ、道中くれぐれも気を付けてくれ」
こうして舟は沖へと向かう。
砂浜には竜宮家の人間と、仕事中の海女が見物していて、質素な見送りとなった。
「うう、うう……! どうして、どうして、こんなことに……!」
新たな船出にしては暗い空気に包まれていた。
責任者であり根本的な原因であるサンマは、
「なあ、お前ら、ふし山って知ってるか」
唐突に語りだす。
「ここより東に位置する都よりもはるか東にそびえたつ海の原で一番でっけえ山だ。竜宮島なんかより何倍も広くて、高くて、でっけえ山だ。どれくらいでっけえ山かっつうと夏になっても山頂には雪が残ってるほどだ」
「……なんで夏になっても山頂には雪が残ってるんだ?」
「決まってるだろ。標高が高いところは寒いんだよ」
「なんで標高とやらが高いところは寒いんだ?」
「そりゃあ……お前…………話を続けるとな、でかいだけじゃねえんだ、扇をひっくり返したみてえに左右対称なんだぜ? 末広がりで縁起物なのさ! 天気のいい日は夕暮れになると青い山が真っ赤に染めあがるんだ。これがまたとんでもなく美しくてな、どれだけ美しいかって言うとどんなくそったれな一日でも、疲れを吹っ飛ばしてしまうほどなんだってよ」
「サンマ様。どこで知ったんですか? その口ぶりからすると書物ではなく、まるで誰かから聞いたような」
「ああん!? 書物に決まってるだろ! それくらいもわかんねえのか!?」
「どうしていきなりぶちぎれ!?」
「いきなりといえば、なんで山の話を今ここでするんだよ……海の上だからか?」
「山の話をしたいんじゃねえ、夢の話をしてるんだ。せっかく命拾いしたんだぜ? なのに死人みたいな顔をしやがってよ。ほら、お前にもなんかないの? 陸に着いたら何をしたいとかそういうの」
いきなり隣の家来に話を振る。
「よりにもよって俺かよ……俺は、そうだな……南番酒を飲んでみたい」
「南番酒?」
「最近殺魔国にえびす屋とかいう西洋の商船がやってきたらしい。その取り扱ってる商品のうちに葡萄から作る酒ってのに興味がある。あ、葡萄といっても海老のことじゃなく果物のことだ」
「葡萄……ヘビイチゴみたいなもんか?」
「俺にもよくわからん」
「なんだよ、それ」
「よくわからないけど興味がある、それだけだよ」
「よし、わかった。俺も一枚噛ませろ。あっちに着いたら一緒に探そうぜ」
「有難い話だが丁重にお断りする」
「あ、なんでだよ?」
「お前はいつも分け前を多めに取っておくからな」
暗い空気に包まれていた舟に笑いが生まれる。
緊張の糸がほぐれる。
しかしそれは一瞬の出来事だった。
ざぶん! ざぶん!
波の音と共に激しく舟が揺れる。
「な、なんだ!」
サンマは海をのぞき込む。
静かだった海はいつの間にか激しい渦を巻いていた。
「これは竜巻か……!? どうして、さっきまで静かだってのに!?」
家来の一人が呟く。
「……龍神様だ……恐れ多くも龍神様の怒りに触れてしまったんだ……!」
舟の上は一気に騒然となる。
「どうするどうするどうする! 櫂で漕ぐしか、いや乗ってないんだった!」
「泳いで陸まで戻る……!? いや縛られたままそんなのできっこねえ!」
冷静さを失い、立ち上がってしまう者も現れる。
途端、大きなうねりが舟を襲う。
「あっああああ!」
体勢を崩し、海に落ちる者が現れた。
「落ちた落ちた! 助けないと!」
「待て! 助けようとして引きずり込まれたらどうする!」
焦りは募る。
サンマは慌てずに判断する。
先方を行く使者の舟を見た。あちらの舟には櫂があり、漕げば、この海域を脱出できるかもしれない。
「おい、お前ら! 大変だ! 竜巻に巻き込まれている! 早く舟を漕げ! このままだと舟ごと巻き込まれちまう!」
サンマは大声で呼びかけるもそう遠くないはずの使者は反応を示さなかった。
「無視かよ! 上等じゃあねえか、お前らごと道連れだ!」
縄を引けば、巻き込めば嫌でも漕ぐだろうと考えた。
「ちっ、腕がないってのは不便だな……! こうなりゃ口で引くまでよ!」
縛られたままのサンマは仲間を救うためにも必死に歯で縄を引いた。手繰り寄せて手繰り寄せて、真実を知る。
「……は?」
サンマは死力を尽くした結果、縄を一本手に入れた。
──とっくに使者の舟とは縄も連絡も縁も切れていた。
「なにが、龍神様だ……! 結局一番恐ろしいのは竜宮家じゃねえかよ!」
孤立無援も獅子奮迅。サンマは諦めなかった。
「まだだ、まだ! 俺は! 諦めねえぞ!」
勇ましく立ち上がろうとするもその体は舟を離れ、海へ落ちていく。
「……は?」
彼を海へと招いたのは波ではない。
「お前のせいだ、お前のせいで、龍神様の怒りを買ったんだ」
彼を海へと突き落としたのは他でもない、家来の一人。涙を流しながら乗船を拒み、島に残ることを希望したが叶わなかった男だった。
海は、竜巻は、龍神様は、サンマを容赦なく引きずり込んでいく。
呼吸も浮上も不可能。今際だと理解した。なのに頭はひどく冴えていた。
(俺は悪くねえし、間違ってねえ……竜宮家への恨みは正当だ……だけどそうだな、仲間には悪いことしちまったかもな……すまねえな……それと……りと……き……)
こうしてサンマは龍神様に飲み込まれた。
二度と海上に現れることはなかった。
無人の舟が波に漂う。
竜巻は役目を終えたかのように消え、凪が戻ってくる。
行き場のない舟は海を漂い続ける。
「……これにて反逆者の流刑を終わりとする。皆の者、元の仕事に戻ってくれ」
家来たちはその一言で解散する。
砂浜には父と娘だけが残った。
「父上……いまのは……?」
乙姫は片時も目を離さず、目を背けたくなる凄惨な光景を見せつけられていた。顔を動かそうとすると甚平の手が首が動かぬよう力を込めて向きを固定した。
恐怖で震えが止まらなかった。甚平の足にしがみつき、ようやく立っていられた。
「しかと見届けたか、乙姫。これが龍神様の怒りに触れるということだ」
竜宮島は入るよりも出るほうが難しい。海の向こうよりこの島に訪れ、帰りたくない人もいれば帰れない人もいる。その上に立つのが竜宮家である。
「乙姫。歩けるようになったか?」
「……なんとか」
乙姫が一歩を踏み出すとがくんと膝が崩れる。
「……では私は先に行く」
支えてくれていた甚平はもう手助けはしない。
「父上、まって」
「待たぬ。竜宮家の人間なら自分の足で歩け。私は先に勉強部屋の前にいる。来なければ一生お前を竜宮家の門をくぐらせぬ」
「まって、まって、父上! あっ」
足がもつれ、砂浜に顔から突っ込む。
「う、ううう……!」
娘がぐずり始めたと知りながらも甚平は振り向かなかった。背中を丸め、ぽつりとつぶやく。
「……龍神様。私はどこで、何を、間違えたのですか」
乙姫は一人で歩いていく。町の人々に声をかけられ、心配されるだけで一人で歩く。
やっとの思いでさよりの家の前にたどり着く。完全に鎮火されたが焦げ臭さがまだ残っている。跡形もなく焼け落ちた家屋の他に壊れたまま放置されている家屋もある。
門は閉められていた。
(さより、元気にしてるかな……)
門を叩こうとしたが、
「……よりみちになっちゃう」
後でまた会えると信じ我慢して後にする。
甚平は城の前の分岐点に立っていた。
「来たか。お前の新たな勉強部屋に案内する」
休む時間も与えずに案内を始めた。
そして着いたのが乙姫にとって因縁の場所。
「ここって……ろうやだよね」
よりにもよってサンマが収監されていた檻が新たな勉強部屋だった。牢屋の中には机と筆と硯。様々な分野の書物が積み重なっていた。
「これより半年、お前にはここで勉学に励んでもらう。ついでに竜宮家の伝統たる龍笛も習得するといい。起きてから寝るまでみっちりと、食事中も存分に励める最高の空間だ。ただ勉学に励んでいては締まりがない。抜き打ちで試験も行う。五帝大陸の科挙に挑むものだと思え」
「……ここはくらいです、こわいです」
「蝋燭の備えはある。足りねば蛍で補う」
甚平は乙姫の背中を叩いて勉強部屋に押し込む。
「ねえ、ここでずっと一人? 誰か来てくれる?」
「食事や細かい世話はばあやがしてくれる。勉強でわからないことがあればばあやに聞くといい」
「父上は? 父上はこないの?」
「私は忙しい。ここに顔を出すことはないだろう」
鍵を閉めると用は済んだと立ち去ろうとする。
「やーだ! やだ、父上、父上!」
「ちょうどいい機会だ。少しは親離れするのだな」
乙姫が泣き出す前に甚平は牢屋を後にした。
こうして乙姫の勉強会は始まった。
否、始まりなどしない。
一人きりになってからというもの泣いて、泣いて、泣いて、寝て、起きてまた泣いて。
暗闇と孤独の組み合わせに順応できるはずもなく勉強が手につくはずなどない。
目が腫れあがった頃にようやく一人の来訪者。
「乙姫様……申し訳ございませぬ……あの時ばあやが目を離していなければこんなことには……」
おにぎりと水を盆にのせ、ばあやが世話にやってきた。
「ばあや……ここから、出して……」
乙姫は枯れた声で乞う。
「……できませぬ」
ばあやは首を振る。
「じゃあ……ずっとここにいて……一人にしないで……」
またもばあやは首を振る。
「できませぬ……私は竜宮家の一員……当主たる甚平様には逆らえませぬ……」
「じゃ、じゃあ、さより! さよりを呼んでよ!」
子供なりに頭を働かせて、筋の通る主張をする。
すると何故かばあやは背筋を伸ばす。
「乙姫様……さよりは来ません……」
「なんで、来ないの……?」
「それだけではありません……乙姫様も今後はさよりとの距離を置いてください」
「きょりをおいて……?」
「要は……はなれるということ。今まで通り親し気に話しかけてはなりませぬ。甘えたりなど言語道断です」
「……わかんない! どうして、どうして、そーなるの!」
「これも竜宮家の御役目なのです。今、彼女の立場は非常に危うい。乙姫様の前では使いたくない言葉なのですが、今の彼女は罪人であり、穢れなのです。なのに竜宮家の者から直々目をかけられては下々の者はよく思わないでしょう。不満が募り、そしてそれはいつしか新たな火種を生み出します。仕事も生い立ちも十人十色のこの島が奇跡的にも一つに束ねられているのは他人に厳しさを求めながらも自身にも倍の厳しさを追求する竜宮家の御役目あってからこそなのですぞ」
「ばあやの言ってること、よくわかんない、よくわかんないけど、乙姫がわるいでおわらなかったの」
「終わるはずがありません。むしろここからが大変なのです」
鶴野家は当主を失い取り潰しが決まった。流刑を免れた家来たちは今は浦島家が預かりとなっているが肩身が狭い身。いずれ島を去ることになる。ただし、さよりを除いては。
「旧鶴野邸も竜宮家が所有する資産のうちの一つ。簡単に放棄や取り壊しはできません。だから誰か管理しなければなりませぬ」
「それが、さよりのおしごとなの……でも、あのおうちすっごく大きいよ? さより一人でなんてできっこないよ! どうして、そんなつらいこと、父上が」
「勘違いしないでください。あくまで望んだのは、さより自身でございます」
「さよりが……?」
「甚平様もそこはかとなく島からの退出をほのめかしたのですが、彼女自らが選んだ道なのです。当然苦難から逃れられない道です。まあ彼女の場合、そもそも苦難こそが日常なのでしょうが。この島に流れ着いたのだって海賊に攫われてのことでしたし」
「……どうして」
乙姫は逡巡する。自ら辛い道を選ぶ理由を。
そしてさよりを庇ったことが真に正しかったのかも疑ってしまう。
「……姫様にもいずれわかる日が訪れます。どんなに辛くとも苦しくとも……報われなくとも……その道を選ぶ理由が」
「……わかんない、こんなのわかんないよ」
「よく考えもせずに諦めてはなりませぬ」
「かんがえた! めがまわるほどかんがえた! でもわかりっこないよ、こんなの!」
「わからないのはまだ乙姫様が幼いからです。しかし勘違いしてはいけません。では大人になればわかるというものでもございません。辺りを見渡してください。そこには古今東西ありとあらゆる書物があります。都でもこれほどの質の高い書物は集まらないでしょう」
「本がなんのかんけいあるのさ」
「わからないからこその勉学なのです。時間はいくらでもあります。わかりたいというのであれば、学問に向き合ってみてはいかがですか」
「……なんか、言いくるめられた気がする」
「まあ、言いくるめられたなんてどこで覚えたのですか」
笑顔で感心するばあや。
「……」
目も向けなかった書物に視線を落とす乙姫。
「……名残惜しいですが、ばあやはそろそろ行きます。まだ仕事が残っておりますので」
立ち去ろうとすると、
「ばあや」
乙姫は呼び止める。だがそこに涙や悲嘆はなかった。
「おにぎりと水、ありがとう。片付けを頼む」
とっくにおにぎりと水を平らげ、読書に没頭していた。
「……これしきのこと当然でございます」
皿を片付けて立ち去ろうとするが、
「姫様。お口に米粒が残っていますよ」
「……」
「おや、聞こえぬほどに勉強に没頭しておりますか。若い頃の甚平様より勉強熱心ですな」
乙姫は腫れぼったい目のまま勉学に没頭する。しかしまだ若く、集中力は切れる時もある。ふっと蘇る孤独に涙しそうになる。
そのたびにさよりを思い出すようにした。
「さよりはもっと辛いのだ……私も、これしきのことで挫けてはいられぬ……」
竜宮家次期当主の萌芽の瞬間だった。




