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竜宮島の乙姫と一匹の竜  作者: 田村ケンタッキー


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37/53

竜宮家の御役目 中

「もどったよ、サンマ」

「その声は乙姫様ですか。どうです、首尾よく持ってこられましたか? まあでも難しいですよね……」

「このカギであってる?」


 そしてついに乙姫は悲劇の蓋を開けてしまう。


「どれどれ、見せてください」


 サンマは鍵を受け取った。


「あー、これは……これは……これは!!??」


 まじまじと見ていた目がまん丸になる。


「ふっふっふ……」


 笑みがこぼれる。

 鍵穴に鍵を挿す。がちりと噛み合う。捻ると牢の扉は開いた。


「っはっはっはっはっはー!!!」


 牢が開くだけでも面白く、高らかに笑う。


「天は俺を味方した! 来てる、来てるぞ、ツキが! ただこの島を出るだけではもう収まりつかない! こうなりゃとことん行けるところまで行くまでよ!」

「あのね、あのね、サンマ……」


 当事者であるはずの乙姫は事態を飲め込めていない。


「いっしょにごめんしてくれるよね?」


 サンマはにたりと笑う。


「お喜びください、乙姫様。もう謝る必要なんてないのですよ」

「え、なんで?」

「ついてくればわかるさ!」


 サンマは逃がさぬように乙姫の手を掴んだ。


「痛い! 痛い! 離して!」

「離すものか! お前にはまだ役目、使い道がある!」


 悪はこうして解き放たれてしまった。




 日は暮れて、火が明かりとして必要となる。

 鶴野邸の前で松明が組まれ、簡素な陣が敷かれる。しかし天候は急変し、風が強く吹いていた。松明の火は横に伸びる。

 サンマは牢屋を出ると家来を集めた。どれも血気盛んな若者。元気が有り余っている。サンマと意気投合し、同じ夢を見る同士でもある。

 同士の前でサンマは雄弁に語る。


「いいか、よく聞け、者ども! 俺はこれから竜になる! 天高くへと昇る竜になる! 見下ろすものは全て我物とし、手中に収める!」


 同士は聞く。


「いったいぜんたい何を手に入れるってんだ? 女か? 宝か? 酒か?」


 サンマは答える。


「いいや、もっと夢はでっかく……国を手に入れるぞ」


 同士は聞く。


「国か……砥磋国か、はたまた殺魔国か?」


 サンマは答える。


「いいや、もっとでかく……京だ」


 同士は聞く。


「京つったら……もうそれ海の原全部じゃねえか! 本気か!?」


 サンマは答える。


「本気だ! そしてまだ夢は終わらねえ! 国の基盤を盤石に整えてから、次は光嶺を目指す!」


 無謀にしか思えない夢物語。

 しかし同士は決して届かない夢とは思っていなかった。

 皆、少年のように目を輝かせていた。


「だがまずはこの島を手に入れる! 忌々しき老いた腫瘍たる甚平を斃す! 龍神様の信仰を盾にふんぞり返る竜宮家に灸をすえてやるのだ!」

「じ、甚平様をですか……」


 急に同士たちの目は輝きを失う。


「そうだよ、甚平様がいるんだよ……」

「無理だ~~~……甚平様に勝てっこね~~~……」

「やめよう、やめよう。酒飲んで寝ようぜ」


 現実を突きつけられると水をかけられたように夢が醒めた。

 甚平の強さを知っている。竜宮家の力を知っている。なぜならその下で育ち、生かされてきたのだから。


「お前ら、どうした! 突然ふぬけになりやがって!」


 サンマは激しく怒る。


「だってよ、甚平様だぞ……それにばあやもいる。俺、ばあやにだって一度も勝てたことないんだよ……」

「挑む前からなぜ諦める! 見損なったぞ、お前ら!」

「サンマ様だって甚平様に挑んで負けたではありませんか。さよりから聞きましたよ。仙術を使っても負けたって。鶴野の人間で仙術を使えるのはサンマ様しかおりませんよ」

「負けていない! 俺は負けを認めていない!」

「そうおっしゃられても……」

「ふん、もしもの時のために策は用意している」

「その策とは……?」

「ここにいるだろう。乙姫様だ」


 サンマの足元には縄で縛られ、猿轡を嚙まされた乙姫がいた。

 家来たちは血の気が引く。


「さ、サンマ様……いくらなんでも、しゃれになりませんよ……」

「まだ真正面から殴りこんで返り討ちになったほうがましですって」

「よりにもよって人質を乙姫様にするなんて……ああ、もうおしまいだ……」


 士気は下がる一方。

 サンマは地団駄を踏む。あまりの力に松明が揺れる。


「あくまで交渉材料だ! いざとなれば乙姫様と竜宮家の財産を交換し、島を脱出したらいいのだ」


 あまりにずさんな計画だったが同士たちは納得しかける。


「な、なるほど……?」

「それなら少しは……」

「できるかもしれない……?」


 甚平と直接剣を交わることがないのであればできるのでは、と考えてしまう。


「わかったか! ではいくぞ、者ども!」


 サンマは士気がこれ以上下がる前に出陣を急ぐが、それを阻む者が一人。


「なにをやってるんだ、馬鹿どもが!!!」


 さよりだった。いつもは温厚な彼女がこの時ばかりは血の気が多かった。


「さよりのばあさんだ……」

「あんなに怒ってるの初めて見た……」


 家来たちにさよりに世話にならなかった者は一人もいない。血の繋がりこそないものの本物の祖母のように、口うるさく思いつつも密かに慕っている。


「サンマ! どうやって脱獄したかは聞かない! 今からでも遅くはない、さっさとこのバカ騒ぎを終わらせて檻に戻りな!」


 大の男も怯むさよりの一喝。


「ええい、いちいち年寄の女中のくせに指図するか! 年寄はそんなに偉いのか!」

「歳重ねただけで偉くはない! だけど年寄りだと思って馬鹿にするんじゃないよ!」

「お前とて俺を馬鹿にしてるのだろう! 体を張れば俺を止められるとでも思ったか! さっさと引け! さもなければ切るぞ!」

「切れるものなら切ってみろ!!」


 さよりの言葉は松明を揺らさないし、風も震えさせない。

 だが家来たちの心を揺り動かしていた。

 サンマは一考する。


(いかん、このままでは抑え込まれる! 切ったところで逆効果だ! こうなったら仕方がない!)


 素早く行動に移す。


「弓矢を貸せ!」


 家来の一人から弓矢を強奪する。矢に布を巻き、それを松明の火で引火させる。

 誰もが呆然と見てる中、さよりだけは何をしようとしているか理解していた。


「よせ! サンマ!」


 止めようとするがもう遅い。


「さより。これが俺の覚悟だ」


 火矢を茅葺屋根の家に放つ。

 火は瞬く間に広がる。火の手は一軒だけでなく、風に乗って他の家にも伸びていく。


「こ、この、この、馬鹿者がー!」


 さよりはサンマに掴みかかるも、あっさりと投げられてしまう。


「う、うう……」


 呻くさよりを見下ろし、


「止めるものなら止めてみろ」


 そっと意趣返しする。


「これで退路は断った。帰る家もない。ここから先は生きる道を自分の手で切り開いていく。死にたくないものは俺についてこい!」


 サンマは仲間を引き連れて山を登っていく。


「んー! んんんん!」


 乙姫も忘れずに連行する。


「一生の不覚……これでは先代に合わせる顔がない……」


 さよりが悔いている間も火はなお広がる。


「さよりさん、どうしましょう! 火が、火が! 誰か台所から水を!」


 さよりとは別の女中が火事に気付く。


「いまさら水なんてかけたってどうしようもない! 女でも老人でもいいから人を集めなさい! それとノコギリ! 延焼する前に少しでも建物を解体しなさい!」

「人とノコですね……! かしこまりました!」


 女中は指示通りに動く。


「さて私も……もうひと踏ん張りしないとね……」


 さよりはふらふらになりながらも山を登っていく。





「邪魔するぜー!」


 サンマは頭を下げずに門をくぐる。後ろにいた家来たちは戸惑いながらもおずおずと門をくぐる。


「いったいぜんたい何の騒ぎだい……サンマ!? どうしてここに!?」


 ばあやは来訪者を敵として認識し、拳を構える。


「やべえ、ばあやだ! いきなり出くわしちまった!」


 そして拳法を繰り出されるかと思いきや、


「おっと、ばあや。こいつが見えねえかな」


 通行手形と言わんばかりに捕らえた乙姫を見せつけるとばあやの動きはぴたりと止まる。


「大事な大事な竜宮家の跡取り様だぞ。殴りかかってきて怪我でもしたらどうする」

「貴様……堕ちるところまで堕ちたな……!」

「大人しく縄につきな。命だけは助けてやるぜ」

「年寄りだと侮りよって! 外道の悪漢に屈すると思ったか!」


 拳を握りなおすばあや。


「そうかい、そうかい、まだわかってないようだな」


 サンマは刀を抜き、乙姫の顔に近づける。


「……俺は本気だぞ?」


 乙姫の鼻先を刀が通る。


「んんんん!」

 

 涙を浮かべ、くぐもった悲鳴を上げる。

 幼いながらに刀の恐ろしさを知っている。いかに刀が恐ろしいものか、当主直々に叩き込まれている。


「姫様……!」

「かわいいかわいい孫みたいなもんだろ? お休みの時間だぜ、ばあさん」

「……申し訳ございません……乙姫様……甲姫様、甚平様……許しは乞いませぬ……」


 ばあやはその場で正座する。


「よし、縛れ。何重にもだ。年寄だと思うな、これでも仙術使いだ」


 家来たちは鯨でも縛るように幾重にも縄を巻いた。


「これで一つの障害は排除した……残すは本命ただ一人。ふふふ、大事な一人娘を人質に取られたと知ったら、亀の甲羅のように顔が動かんあやつも蟹のように泡を吹いて倒れるかもな」


 サンマは微笑む。


「一度は暗く寒い海底まで沈んだが……光り輝く水面が見えてきたぞ……」

「……はあ」


 悦に浸っていると水を差すような大きなため息。


「誰だ、この肝心な場面、人生の最高潮に似つかわしくないため息をしたのは」


 サンマは家来たちを一人一人睨む。


「俺たちじゃありませんよ、ばあやですよ、ばあや」


 家来の一人が縄に巻かれたばあやを指さした。


「……お前は何もわかっていない。何一つ、何一つだ……」

「この俺が何をわかってないんだ? ご教授お願いできますか、敵前逃亡したばあさん?」

「言ったところでわからんさ。ウニよりも中身の詰まってないお前の頭じゃね」

「ふんふん、なるほどなるほど……」


 サンマは縛られたばあやの肩に足を置くと、


「俺が保証するのは命だけだぜ」


 力強く足を突き出し、ばあやの身体を地面に叩きつけた。


「っはっはっは! ちょっと押しただけで転んじまったぜ! はーっはっは! はーっはっはっはっは!」


 笑い飛ばしたと思うと家来たちをひと睨み。


「どうした、お前ら。ここは笑う場面だぞ」


 あまりの暴虐ぶりに家来たちは言葉を失いかけていたがサンマに睨まれると、


「は、ははは……」

「あは、ははは……」


 引きつった笑みを浮かべた。


「よし、お前とお前とお前、甚平を探してこい。奴は屋敷のどこかにいるはずだ」


 指名された一人が涙目になる。


「えー、俺が行くんすか! 見つかったら逆に殺されてしまいますよ!」

「馬鹿野郎! 別に戦えなんて一言も言ってないだろうが! 城内を探し回って見つけたらすぐに俺の元へ来い。それだけの話だ」

「ううう、怖い……怖いよぉ……」


 こうして捜索が始まる。

 甚平はすぐに発見された。

 彼は数刻前にもいた、屋外の稽古場で見つかった。




 甚平は稽古場の手入れをしていた。できた盆地を鍬で埋めて平らにしている。

 サンマは家来に短い指示を出す。


「囲め」


 家来たちはぎこちない頷きをする。


「いよいよ、やるんですね……」

「ようやくこの島とおさらばできるのか……」


 悩みを捨てて覚悟を決めると目つきが変わる。

 乙姫という人質、数での圧倒的有利、武器の差、そしてサンマを信じて甚平を丸く囲む。


「……」


 敵の接近に気付いているだろうに甚平は地均じならしの手を止めない。


「……ふぅ」


 サンマは一息置いて話しかける。


「よお、甚平様。土いじりは楽しいか」

「サンマ。謹慎を命じたはずだぞ。今すぐ戻って己の身を省みよ」


 やはり甚平はサンマを気にも止めない。相変わらず目線は地面の下を向き、粛々と手を動かす。


「そんなに土いじりが楽しいなら隠居するといい。なんなら今この場で手伝ってやるよ」


 サンマが目配せすると家来たちは刀を抜いて構える。


「……まあ次に農具を握れるようになるのは一年後になるだろうがな! お前ら、かかれ!!」


 合図で一斉にかかる。


「てやあああ!」


 甚平の背後に立っていた一人が最も早くたどり着く。刀の背を下に向かせながらも全力で頭部を叩きに行く。


 ガキィン!!!


 金属と骨。激しく衝突した音。


「あ、あごぁ……」


 顎に受けた衝撃で泡を吹いて倒れる……家来。

 甚平は鍬で反撃に出ていた。


「な、なにやってんだ……」


 そう漏らすのはサンマ。


「てりゃあああああああ!!!」


 また一人、甚平に向かって切りかかる。力士のように大柄の男。仙術抜きであれば仲間内でサンマを抜いて最も力持ちだ。


「ふん」


 今度は鍬で刀を受け止める。


「ふぎぎぎぎぎ……!!!」


 力持ちの男は顔を真っ赤にしながら刀を下ろすがそれ以上沈むことはなった。


「……すー、はー」

 

 甚平は自分よりも身長も高く、体重もある男の全力を受けても顔一つ変えない。それどころか一息つく余裕を見せながら、


「ふんっ」


 一息で刀をはじき返す。


「な、なにぃ!?」


 力持ちの男の腹部の守りが疎かになると、甚平はすかさず鍬の面で叩く。


 ボキッ!


 骨が折れる鈍い音。


「あ、ああああ! ろ、肋骨が……!」


 また一人、脱落する。


「なに……やってんだよ……」


 またサンマは言葉を漏らす。

 その言葉は勇ましく挑んで倒れる仲間に向けてではない。


「なにやってんだ、甚平……! お前、自分の娘が可愛くないのか!!?」


 乙姫はこうしている間もサンマの支配下にある。

 娘は父が自分を介せずに暴れる光景を目の当たりにしている。まるで自分に人質の価値がないかのように、裏切られたとも感じた。


「……大方の想像はつく。愚女ぐじょが自分の行いの善悪の区別を考えずに行動したのであろう。フグ食った報いだ」

「おまえ……それでも父親か!?」


 サンマは甚平を疎み憎みながらも尊敬の念を忘れたことはない。厳格ながらも情に厚い男だと信じていた。だからこそ人質という卑劣な手を取った。強さを認めた相手だからこそ、これしかないと考えていた。


「異なことを言うな、サンマ」


 なのに、甚平は裏切った。

 いや、勘違いしていた。


「私は父親である前に竜宮家当主。竜宮島の守護は血縁よりも重い」


 甚平は責務のためであれば血の繋がった娘すら切り捨てる、非情な男だった。


「サンマ様、どうしますか……!」

「まったく歯が立ちませんぜ!」


 人質が効かないとわかり、家来たちに躊躇いが生まれる。

 サンマはすぐに新たな手を打つ。


「甚平、これでもお前は手を緩めないか……」


 乙姫の猿轡を外し、首元に刀を突きつける。


「さあ、姫様、君の出番だ。存分に泣き叫んで命乞いをしろ」

「え、あ、え……」


 乙姫は恐怖に支配され、言葉を発せられなかった。

 刀が目の前にあるだけではない。

 すでに彼女の心の奥に刃は突き立てられていた。

 この世で最も信用していた父が助けに来てくれない事実が、最も彼女の心を傷つけた。


「ぐあああ!」

「ぐええ!」


 涙の向こうには戦い続ける父の姿。


「くそ、くそ、こんなはずじゃ、こんなはずじゃねえ! 早くなんか言え! たすけてでもおとうさんでも一言くらい言えるだろ!」


 なぎ倒される仲間、迫りくる甚平にサンマは焦る。


「ああ、そうかい、そうかよ! 俺が小娘一人傷つけられねえ弱虫だと思ってるんだな! やってやる、やってやろうじゃねえか! 俺が本気だってわからせてやる!」


 サンマは刀を逆手に持ち、刃先を乙姫の腹に向ける。


「血はいっぱい出るが、死ぬんじゃねえぞ!」


 凶刃は容易く肉を切り裂いた。


「なに……やってんだ……」


 そう漏らすのはサンマ。

 彼の握る刀から多量の血がだらりと垂れる。


「なにやってんだ……さよりのばばあ!」


 間一髪、さよりの老体が早かった。

 身体を張り、乙姫を凶刃から救った。


「どうだ、止めてやったぞ……若造」


 代償は大きい。身体で庇い、代わりに傷を負ったに過ぎない。


「う、うう……!」


 傷は深く、血が溢れ出す。

 しかし体は、魂は忠義によって動いていた。

 全身で姫様を覆って守る。


「そこをどけ、ばばあ! さもなくば姫もろともお前を刺す! これは脅しじゃねえ、本気だ!!!」


 さよりの身体を股下にして立ち、刀を両手で握る。薪を斧で真っ二つにする要領で突き刺すつもりだ。

 呼吸も忘れる切羽詰まった瞬間、さよりは祈りを捧げる。


「……龍神様。私の命はどうなったっていい。どうか、姫様だけはお助け下さいませ」


 サンマは激昂する。さよりにとっては信仰でも彼からすればそれは呪縛であった。


「こんなときまで龍神様かよー!!!!」


 刀を振り下ろそうとしたその時、


「えいっ!」


 駆け付けた甚平の鍬がサンマの手を襲う。

 血と一緒に指が飛ぶ。


「ゆび、おれの、ゆび……!」


 痛みも忘れる衝撃だった。

 刀は彼にとっての誇りだった。されど刀は指なしでは握れない。

 彼の剣士としての夢はここで潰えた。


「……竜宮拳法、敷波」


 拳を以て引導を渡す甚平。


「っかあっ!?」


 サンマの身体に三重の衝撃が襲い、鯨の潮吹きに飛ばされるクラゲのように軽々しく飛び、海岸に打ち上げられたクラゲのように動かなくなった。


「……っふう」


 甚平は一息ついた。

 辺りに立っている者は彼一人。

 鶴野家の人間で戦える者は残っていなかった。


「甚平様! 姫様! ご無事ですか!?」


 自力で縄を破ったばあやが走ってくる。


「私は無事だ。乙姫もな」

「無事なものですか! 腕に切り傷があります! あなたのような達人がどうして……ともかく今すぐ治療を!」

「無事だと言っている。この程度傷にも入らん。それよりもさよりを治療してやれ」

「おお、さよりか! 姫様を身体を張って守ったのか! よくやった!」


 さよりはよろよろと身体を起こす。


「このたびは鶴野が当主様に多大なるご迷惑を……」

「謝罪など良い! お前が謝ることではない!」

「いえ、すべては私の責任でございます。私が、牢の鍵を……失くしたばかりに、このような事態に……」

「むむ、そうなると事情が変わってくるな……いいや、今は治療が先! もうこれ以上しゃべるでない!」

「そのうえでどうかお願いです……」

「しゃべるでないって言っとるであろうに!」

「ばあや、少し黙っていろ。さより、続けよ」

「ただいま鶴野家周辺で火事が起きています……サンマが放った火矢が原因です……鶴野家総出を上げて鎮火に尽力していますが……このままでは被害が山の下の町まで広がりかねません……頼める立場ではないと承知しております……ですが、どうか、どうか、ご慈悲を……」

「……私は龍神様ではない。水を自由に操る外法はできぬ。できるとするなら火が広がらぬよう拳で家屋を薙ぎ払う程度だ。それでも良いのだな?」


 さよりはこくりと頷くと気を失ってしまう。


「……町を守るのは竜宮家当主として当然だ。今すぐ出る。ばあや、後は頼んだぞ」


 早速行動に移そうとする甚平をばあやは呼び止める。


「甚平様、あの……」

「なんだ、治療はいらぬと言ったはずだ」

「いえ、お怪我のことではなく……なんでもございません。お気をつけていってらっしゃいませ」

「うむ、任せたぞ」


 そういうと甚平は急いで城を出ていった。

 ばあやはぽつりとつぶやいた。


「……せめて一言、姫様に声をかけてくださっても良いものを……」


 乙姫は無言で震えていた。寒中水泳したかのように顔は白い。そしてしばらく、さよりから手を離さなかった。

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