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竜宮島の乙姫と一匹の竜  作者: 田村ケンタッキー


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竜之助の身の上話 前

 竜之助は孤独に行くあてのない放浪の旅に出ていた。

 混乱に乗じて都から脱出していた。南の帝の妹君は負けて賊軍に成り下がるだろうがそれでも帝の血を引く者。戦場や刑場以外で身分の高い武士以外が殺めたとしたら咎められてしまう。

 東か西かもわからずにひたすら歩き続ける。主要な街道を避け、人の目を避け、目的もないまま彷徨い続けた。

 一歩一歩進むたびに死がちらつき、まとわりつく。側で川が流れていると飛び込みたくなったし、見るからに毒々しいキノコをかぶりつきたくもなった。

 だがいつもすんでのところでお師匠様の顔が浮かぶ。

 彼女は自分なんかのために命を挺して守ってくれた。

 気付けば盗みでその日その日を食いつないできた悪童だった自分に生きる術を叩きこんでくれたお師匠様の教えを、時間を、死を無駄には出来なかった。

 見知らぬ土地での放浪の旅でも飢え死にすることはなかった。さばいばる術も叩きこまれていたからだ。川があれば木の枝を銛代わりにして魚を取り、山があれば石を投げては鹿を取った。

 しかし長居するとどうしても足がついてしまう。

 そして生きる目的もないままではいつかお師匠様の後を追ってしまうと危惧もしていた。


 前にも後ろにも進めない自分と比べたら、潮に流されながらもぷかぷか抗っている海月のほうがよほど精一杯に立派に生きている。人生が惨めに思えた。


 そんな時だった。

 第二の悪女との出会いは。



「誰かお助けをー! お助けをー!」


 狩猟の帰りだった。

 獣道ではない、山の道から声が聞こえた。何日、何週、何か月ぶりぐらい聞く他人の声は麗しい女性の声だった。

 同時に野太い男の雄たけび、悲鳴。熾烈な剣戟の音。


(おお、やっとるやっとる。巻き込まれないように離れとかないとな)


 竜之助はどちらにも加勢するつもりはなかった。物見遊山ももってのほか。参加したところで働いた分の利益を見込めなかったから。面倒事に巻き込まれたくなかったからだ。顔を見せるだけでも立場的に不都合。


(それにそろそろ冬がやってくる。幸い今は海の原でも西側でよっぽど山奥じゃなきゃ雪は降らないだろうが冬を越すためにも蓄えなくちゃならんのだ)


 そして何より、


(人殺しは充分した)


 空っぽの腹をさすりながらその場から離れようとした時、


「ええい、賊ども! 今すぐ立ち去れ! ここにおわすお方をどなたと心得る! かの西方将軍の六女、竜頭荼毘姫であらせられるぞ! 静まれ静まれ! ……なぜ静まらん!?」


 家臣と思われる男の声。


(知っていようが知ってまいが襲う側にとっちゃ関係ないんだよ)


 竜之助は冷ややかに笑う。


「ん、西方将軍……だと……?」


 にわかに足が止まる。


「待てよ待てよ。もしもこの山で将軍の娘が暗殺されようものなら周辺草の根分けても賊を滅ぼそうとするに決まっている」


 お師匠様との旅の道中で見たことがある。

 身分の高い女性が山の中で賊に襲われて死亡した。同じ山に村があった。全く関与しなかったにもかかわらず、賊の嫌疑をかけられ、終いには火をつけられ、根絶やしにされてしまった村を。死んだのは村だけではない。山ごと殺されてしまった。

 武家は血のつながりを大事にする分、失われた時の反動は逆鱗に触ったかのように大暴れをする。生きた跡形も残さないほどに。


「ちぃっ! 越冬すらゆっくりさせてくれないのかよ!」


 竜之助は声のした方向、今も剣戟が鳴り響く戦場へと走る。





 ぬかるんだ泥道に不適切な豪華絢爛な駕籠かご。鎧を装備した侍たちが囲み、一所懸命に健闘しているが戦況は不利。

 襲い掛かる賊たちは鎧こそ装備はしていないものの刀を振るっている。国中で戦が起きている。恐らくは戦場で拾った戦利品。

 賊たちの動きは素人そのもの。統率は取れているとはお世辞にも言い難いがそこは数で物を言わせている。一流ではないが正しい作戦。

 侍たちの主装備は槍。武器で重要視すべきは刃の切れ味ではなく届く長さ。

 駕籠を背にして蜘蛛の足のように四方八方に槍を向ける防御陣形。さすがは将軍の娘にお供するだけあり動きに無駄は少なく、よく訓練されていると分かる。


「なにがなんでも姫様をお守りするぞ!」

「おお!」


 士気も高いがしかし打開するにはあと一手が足りない。


「へっへっへ、降参するなら今のうちだぜ。お頭は優しい。命だけは助けてくれるかもしれないぞ」


 一方で賊たちには余裕が伺える。

 それもそうだろう。将棋で表現するならもう詰みの状況。

 侍たちが起死回生するには増援が期待するしかないのだが、


「……だから俺は言ったんだ。早いからと言って近道をするもんじゃないって。こんな山奥に増援が来るはずがない」

「こら! 弱音を吐くんじゃない!」

「で、でも隊長……!」

「増援は必ず来る! それまで持ちこたえるのだ!」


 隊長は勇ましく励ますが、他の侍たちの顔はじわりじわりと怯えに染まっていく。


(もう少し賊の様子を観察したかったが仕方ねえ。そろそろ動くとするか)


 竜之助は物陰に隠れながら標的、賊の中でも一番偉そうな、着ている物が綺麗で安全な場所で余裕しゃくしゃくと腕を組んでいる男の後ろに近づく。好都合にも風下から回り込める。

 山で暮らしていた竜之助に刀や弓矢といった武器はない。しかし戦いの場でそれらは必ずしも必要なわけではない。


「お前たち! いつまで手間取ってる! 俺の股間は姫さんに突っ込みたくてとっくにヌルヌルになってんだよ!」


 男がでっぱった腹を叩く。


「ひぃっ!」


 駕籠の中から悲鳴。


「おお、なんと麗しい声…………うっ…………いけねえ、擦れただけで出しちまったぜ」

「ひぃぃぃ」


 聞くに堪えない下品な物言い。


「埒が明かん! 一番槍に報酬をくれてやる! 勇ましく散れ!」


 しびれを切らした男。人望がないようで彼を守る人間はいない。竜之助はあっさりと背後を取った。


「辞世の句はそれでいいのか?」

「え?」


 間抜けな声。それが彼の最期の言葉となった。

 首は左回り。体が右回り。


「……っぁ」


 息を絞りだして男は倒れる。起き上がることはなかった。


「な、何者だ!?」


 指揮官をやられた賊たちに動揺が走る。

 侍たちも同様の反応。


「こんな山奥に助太刀か!?」

「神様仏様、誰でもいい! 一体誰が助けに」


 全員が竜之助を見る。

 そして叫ぶ。


「妖怪だーーー!!!???」


 彼らの反応は仕方ないもの。

 山ごもりしていた竜之助は鹿の皮を着こみ、顔にも顔の血を塗りこみ、血生臭い悪臭を漂わせていた。


「ひいい! 賊の次は物の怪か! 食わないでくれー!」


 青ざめた顔の侍が腰を抜かす。いよいよ死を覚悟し断末魔を上げる。


「食わねえよ! 女ならともかくな!」


 竜之助に男色の気はない。


「貴様ぁ! よくも親父を!」


 侍たちが動揺する中、賊たちは竜之助に殺意を向ける。


「おっと案外慕われていたんだな。そいつは悪いことをした」

「今更謝ったところでもう遅い!」


 賊の一人が刀を縦に振る。

 竜之助は避けなかった。


「……勘違いするなよ」


 避けずに指二本で刃を受け止める。


「後悔も、反省もしねえよ!」


 刀を取り上げて切りかかってきた賊の腹を足の裏で蹴る。


「&っ……!?」


 蹴られた男は嘔吐しながら蹲る。


「ふむ、拾い物にしては悪くない刀だ」


 竜之助はしげしげと奪った刀の出来を評価する。


「か、かえせ、親父の形見……!」

「そうか。ならばあの世で礼を言っておいてくれ」

「な、なにを……」


 しゅぱっ……!


 男の首の隙間から血と嘔吐物が零れ落ちる。


「あ……あぁ……」


 顔を真っ赤にして殺意をむき出しにしていた賊たちは、理解不能の強さ、未知の恐怖を前に完全に戦意を喪失をしていた。失禁をしている者もいた。


「……切れ味も悪くねえな」


 たった今人を斬った刀は、恐ろしいことに血糊の類は付着していない。


「ば、化け物だ……化け物に違いねえ……!」

「にげろ! にげろ! お頭に助けを求めるんだ!」


 賊たちは尻尾を巻いて逃げていった。


「どうした!? 何があった!? 駕籠の中からでは何もわからん!」


 駕籠を囲む侍たちは何も言わない。

 腰を抜かし次は自分の番ではないかと恐れ戦く。


「おい」

「ひいいっ」


 一声かけただけで身体を縮こませる。


「……とっとと山を下りろ。新手が来ないとは限らない」

「……襲わないのか? 助けて……くれたのか?」

「お前らのためじゃねえ。それと今日あったことはすべて忘れろ。誰かに話そうものなら呪われると思え」

「……」


 侍たちが無言で頷いたことを確認し戦利品の刀を担いで山に戻ろうとした時だった。


「待てい、そこの者!」


 駕籠の中から気品のある声。


「誰だが知らぬが褒めて遣わす。報酬として」


 ぶわっと扇子が開く音。


「わらわの用心棒になる栄誉を授けよう!」

「そんな姫様! この天狗のような男を連れるおつもりですか!?」

「おまえらのような烏合の衆に守られるよりずっとマシだ! それにお前らにとっても悪くはない話だろう。まだまだ山道は続く。味方は多いほうが、強いほうがいいだろ?」

「う、それは……」


 竜之助は伸びきったあごひげをバリぼりかきむしる。


(確かに……こいつらが道中で賊関係なしにくたばるかもしれない……)


 それでも多くの人間が躯を探し弔おうと山中に上がりこむだろう。


「……ちっ、致し方なしか」

「おお、その返事は了承と取ったぞ! 報酬は弾んでやるからな! あはははは!」


 駕籠の中からでも響き渡る高笑い。

 竜之助の頭痛を呼び起こす。




 竜之助が用心棒として加わった。道中は彼の手腕を見せることもなく安全そのもので進んでいく。

 山を降りていくと次第に木々が開け、目下に町が見えた。帝の座する都ほどではないが規則正しい碁盤目状に広がる、整備された都市。

 急ごしらえで作られたであろう街中を囲むに至らない土塁を過ぎると侍たちの肩が落ちる。


「これより我が屋敷に向かう。あまりの大きさに腰を抜かすでないぞ」


 駕籠の中からの一声でまたも身体が角ばる。

 町中を進んでいくと竜之助は思わず鼻を摘まんでしまう。


(こいつぁ……ひでえ匂いだ……)


 鼻と目をつく異臭。恐らくは糞尿。どこからか風に乗って漂ってくる。

 見た目は繁栄した都市であったものの、民の暮らしは酷い有様だった。

 骨が浮き出るほどに痩せ細った子供が同じように木乃伊と見間違うような大人に物乞いをしている。大人は煩わしさに激昂するでもなく弱弱しく子供を引きはがす。

 問屋の前には笠を被った人間数人、俯いたまま肩を寄せ合っている。誰もぴくりとも動かない。死んでるか生きてるかもわからない。

 昼間にもかかわらず半裸の女がうろついているが誰も目にも止めない。

 同行する侍たちも同じだった。地面を、自分の歩みを見つめながら、踏み外さぬようにと前へと進んでいく。


(戦はとうに決着がついただろうに、未だに戦渦の影響が残っているのか……)


 過酷な現実を目の当たりにしてもさほど驚きはしなかった。

 戦渦は都を中心に国中に広がった。それほど苛烈な争いだった。この有様もごく一部に過ぎない。人が集まる町だからこそ、この程度で済んでいるとも考えられる。人知れず滅んだ農村は数知れず。


「見えてきたぞ。あれがわらわの住まい、山吹邸ぞ」


 見えてきたのは豪華絢爛贅を尽くした大屋敷……ではなく、意外にも質素な屋敷だった。木の塀に囲まれ、出入口は茅葺屋根の門。今のご時世、雨風凌げる家があるだけで贅沢といえば贅沢なのだが。


「山立よ。着いたらたらふく飯を食わせてやろう」


 山立とは竜之助を指している。

 竜之助は追われの身。本名を名乗るわけにもいかず、とっさの偽名も出てこなかった。

 親から名前を付けられなかったと勝手に勘違いし憐れんだ将軍の娘が勝手につけた名前だ。


「白米だぞ、白米。ご飯が白いのだ。食べたことも見たことも、聞いたこともないだろう」

「食べたことはあるんですけどね……まあしかし食えるんだったらぜひ食いたいですね」


 米は好きだ。麦も粟も稗も嫌いではないが、何故だろう、米はやはり格別だ。山の食生活で何が辛かったかといえば米がなかったことだった。

 腹の虫がぐうと鳴る。口の中は唾でいっぱいになる。


「なんだ、わらわが帰ってきたというのに出迎えもなしか」


 屋敷の前にたどり着く。がらんとした門前にぷりぷりと不満の声を上げる。


「仕方ありませんよ。予定にない近道をしたのですから」


 それを宥める従者。


「父上ー! わらわだー! 出迎えを早う!!」

「わざわざ呼ばなくとも中に入ればいいでしょうに……」


 駕籠のまま中に入ろうとしたとき、


「啓子ー! 啓子ー!!」

「おお、父上じゃ。父上が飛び出てきたぞ」


 ちょんまげ頭の男が裸足のまま現れた。


「よくぞ! よくぞ無事に帰ってきた!」

「啓子は父上にも神仏にも愛される娘です。無事に帰ってくるに決まっております」

「そうかそうか。では道中も災難はなかったのだな?」

「えと、それは……」


 啓子は口籠る。


「それにどうしてこんなに早く着いたのだ? 本当であれば明日着く予定だった。こんなに早く着けるとしたら固く禁じた近道を使うしかあるまいに……まさか」

「父上、違います! 父上の心配は杞憂でありまして」

「いいえ、ご主人。あなた様の考えに間違いはございません」

「こら、下郎! 勝手に口を挟むでない!」

「さらに申し上げますと道中山賊にも襲われました」

「貴様! 報酬を跳ね上げたいために真実をばらすでない!」

「我々も懸命に抵抗しました。質では負けませんでしたがしかし数は、数だけは賊が上回り、一時は窮地にも陥りました」

「父上! こやつの言葉に耳を傾けてはなりませぬ!」

「愛しの啓子や。今しばし黙っていなさい」

「ぐぬぬにゅぬ……」

「窮地に陥りながらも我々は希望を捨てませんでした。最後の一人になってでも啓子様をお守りすると覚悟しておりました」


 侍は多少盛りながらも話を進める。


「我々の願いが天に届いたか、その時、空の上から助太刀が現れたのです。助太刀が現れると賊に一瞬の隙ができ、我々はその一瞬の隙を見逃しませんでした。そして形勢は逆転し、我々は悪逆な賊どもを追い払うことに成功したのです」

「うむ……そうだったのか……」

「だからですね、我々にそれ相応の報酬をですね」

「その話は後にするとしよう。その空の上から助太刀とやらが儂は気になるぞ。その者は一体何なのだ? 天狗か、はたまた神仏か?」

「あ、それ、俺のことですね」


 何気なしに名乗り出る竜之助。

 彼の姿を見た主人は、


「うわあ! もののけ!?」


 腰を抜かした。




「よくぞ娘の窮地を救ってくださった。竜頭騨足、この恩は一生忘れませぬ」


 西方将軍、竜頭騨足が深々と頭を下げる。


「ささやかな礼でございますがお受け取り下さい」


 出されたのは食事。粟飯と味噌と具の入っていない出汁だけの汁。


(本当にささやかだな……)


 山暮らしの食事と比べると些か、いやかなり貧相。

 貧相といえば西方将軍もそう。将軍まで上り詰めた武人と思えぬほどにやせ細っていた。


「……今となっては将軍というのも名だけの話ですよ」

「すまない、顔に出てただろうか」

「気にするな気にするな」


 騨足は顎に手を伸ばし皮を引っ張る。猫の皮のように柔らかく、よく伸びる。以前はたっぷりと脂肪を蓄えていたのであろう。


「もう一年となる。竜頭家は戦に敗れ、領地を追いやられ、遠戚の縁を頼って庇護を受けている」


 啓子はこの屋敷を山吹邸と呼んでいた。つまりこの屋敷の主は目の前の男ではないということだ。


「嫁に出した娘たちの安否は未だにわからぬ。生きているのか死んでいるか、生きていたとして元気なのか、そこに自由はあり、命の保証はされているのだろうか」


 騨足の話に耳を傾けながらも竜之助は冷めないうちの出された飯を食らう。大口の彼はぺろりと平らげてしまった。


「啓子が側にいるだけでも有難いが……あの子はなんというか、緊張感が足りないというか自覚が足りないというか……」

「まだまだ若いと」


 竜之助が適当な相槌を打つと、


「そう、それ!」


 過剰に食いつく。


「充分な教養を受ける前に落ちぶれてしまったからか、まだまだ甘やかされたままの小娘なのです。出された粟飯も白米だと教えればそれを信じてしまう……まあそういう素直なところが可愛いくて仕方ないのですが」


 ずっと思い詰めた表情だった顔がほろりと和らぐ。


「娘だけでなく家臣もついてきてくれた。よくやってくれているがしかし出してやれる報酬は雀の涙ほど……逃げおおせた後も優秀な家臣から離れていき、残ったのは特に行き場のない……その……」

「侍崩れと」


 楊枝で歯の手入れをしながら反感を買いかねない返事をすると、


「まあ……そうですな……」


 はっきりとしない返事をしながら肩を落とす。


「ご馳走様でした」


 竜之助は丁寧に手を合わせる。

 長居は無用と膝を立てようとすると、


「お茶が入りました」


 初老の女中が都合よく現れ、立ち去る機を失う。


「まあまあ、もうちょっとゆっくりしていってくだされ……えっと……これは失礼なことをした、まだ名前を聞いておりませんでしたな」

「名を名乗るほどの者ではありませぬ。気になさらないでください」

「名を名乗るほどの者ではない……そうでしょうか……会って間もないですが拙者には貴殿が只物ではないと感じてなりませぬ。強者は普段の所作から強さがにじみ出るもの。食事中の合間でさえ隙を一瞬を見せなかった」

「買いかぶらないでくださいよ、俺は本当に」

「いいえ、間違いない。この竜頭騨足、身体は衰えても武人を見る目は健在ですとも」

「本当に……あなたの頼みを聞き入れるつもりはない」

「ぐぬ……早くも見抜かれておりましたか……」


 騨足は早々に白状する。


「だがますます気に入りました。是が非でも貴殿に頼みを聞き入れてもらいたい」





 竜之助は縁側に腰を掛けて久々に開けた空の下で月を見上げた。木の葉の擦れる音、近寄る足音に怯えずに愛でられるというのに心は晴れない。山を下りたはずなのに少しうすら寒い。


(お師匠様がいれば即興で詩を詠めと無理難題吹っ掛けてきたんだがな)


 他にも黄昏ていると「気色悪い」と理不尽に尻を蹴られたものだった。


「本当に理由もなしに暴力振るう人だったな……」


 当時はどうしてこんなにひどい目に遭わせるのだろうと泣きたくなったもの。それが今は振り返ってみると別の感情が涙を誘う。


「どうして……死んじまったんです、お師匠様……」


 なるべく上を見上げて涙がこぼれないよう努力する。

 遠ざけてきた喪失感が、今になって襲い掛かってくる。

 これまで生存を第一に考えていたために、生きることに精一杯だったために、余裕ができたためにここぞとばかりに悲しみが心を責め立てる。

 あの悪女の一献を飲み干していればお師匠様が死ぬことはなかった。もう少し鼻が効けば毒に気付き、勘が鋭ければ企みを見抜き、違う未来があったのかもしれない。よりにもよって自分だけが生き残ってしまった。弟子である自分だけが。

 宇美仙人が死んだのは──自分の責任だ。


 ふと護身用に拝借中の刀の存在を思い出す。

 手に取ろうと思い、振り返ると、


「ぬわぁっ」


 肘に柔からく温かい感触、そして女の間の抜けた悲鳴。

 ふわりと、どこか喉を乾かせる良い香りも漂う。


「おおぅ、すまねえ、啓子殿。いたの気付かなかったぜ」


 啓子は豪華絢爛な着物を脱ぎ、動きやすい質素な浴衣に着替えていた。

 ただ態度は高飛車のまま。


「こんなところで突っ立っていたら往来の邪魔だぞ」

「あはは、そうですね……」


 すっかり油断していた。屋敷に招かれご馳走されてあっさりと心を許してしまった、もしくは弱っているのかもしれない。


「わらわは謝らないからな。ぶつかってきたお前が悪い」

「いや別に謝罪は求めてませんし、ぼうっとしてた俺が悪いんですから」

「お? 相手に濡れ衣を着せず自らの非を素直に認めるか。良い心がけだ。褒めてつかわす」

「はは、そりゃどうも……」

「ここではわらわが法じゃ……まあ父が一番偉いんじゃが……とにかくここはわらわの住まう屋敷だ。気に食わなければ即刻出て行ってもらうからな。今回は殊勝な態度に免じ寛大な心で許してやろう。だが次はないと思えよ」


「屋敷……そうでしたね、ここは……人が住む家でしたね……」


 ここは戦場と違う。刀傷での流血とは無縁であるべき場所。草の香りする畳を鉄臭くしてはならない。

 竜之助はよからぬ考えを今は捨てるとした。


「俺はもう寝ます。髪乾かして寝るんですよ」


 思考を続けないためにもとっとと寝てしまおう。そして朝になる前にこっそりと出ていこうと考えていた。

 騨足の頼みは到底聞けるものではなかった。竜之助に得はなく、命に危険が及ぶ。

 本来なら布団にも入らずに出ていくべきだが、あのふわふわであたたかい誘惑には勝てない。入れるなら入っていきたい。そう思ってしまうのも心が弱っている証拠だろう。


「待て」


 とっとと布団に入ろうとする竜之助を啓子は呼び止めた。


「まだ何かあるんですか?」

「いや何やら辛気臭い顔してたんでな。おい、なにか面白おかしい愉快な話をしろ」

「……えっと」


 竜之助はあっけにとられる。


「……そこは普通、笑い話をするのはそっちなのでは?」

「はあ? なぜわらわがお前なんかのために舌を振るわなくてはならんのだ」

「ぷっ、はははっ! はははは!」

「なんじゃなんじゃ気色悪い! 急に吹き出しよったぞ、こやつ!」

「すみません……勝手に面白くなって……俺はあいにく舌に自信はありませんが……演武には自信があります。今からお見せしましょう」

「演武か……女の舞踊は好きじゃが男の演武はどうも……勇ましいというのか? ああ言ったのは父上がよく好み勧めてくるがとんと理解できないのだが……」

「それではこれより月を落として見せましょう」


 しばらくして、


「はははははは!! 馬鹿じゃ! 馬鹿がおる!!!! とびっきり愉快な馬鹿がおる!!! あははは! あはははは!! まるで絵の中の魚を取ろうとする猫ではないか! あははは!」


 竜之助の即席の演武は大うけした。


「腹がよじける……わらわを笑い殺す気か……?」

「誤解です。一切そんなキエエエエエエ!」

「あははははは! やめいその奇声! 笑いがぶり返す!!!」


 一時的に心に何かが満たされるのを感じた竜之助は縁側に腰を落ち着かせる。

 啓子はすっかり懐き、その隣に座る。身分の高い姫様だったがおしとやかさとは程遠く、足をばたつかせる。


「お前、面白い奴だなぁ。ここで働くことを許すぞ」

「いいえ、働くだなんて……これはお父上に内緒ですが、もう少ししたらまた山に戻ろうと考えています」

「あんな野山にか? 猿の家族でもいるのか?」

「いや猿の家族なんていませんけど……」


 ちなみに猿も狩りの標的の一つである。


「ならここにいるといい。わらわはそのほうがいいと思うぞ。お前は面白い。堅苦しいこと言わないし、脅しもしない」

「脅し、ですか?」

「ああ、そうだ。夜中は屋敷の外に出てはいけない。早く寝ないといけない。知らない人についていってはいけない。風呂に入った後は髪を早く乾かさなくてはいけない。さもないと鬼に攫われると。でもわらわはとっくに見抜いておるぞ。わらわに言うことを聞かせようとするために皆が嘘をついているとな。たとえ鬼がいたとしても西方将軍の父上が守ってくれるからな! ちっとも怖くないぞ、あっははは!」

「……」


 月にまで届きそうな愉快な笑い声。

 啓子の笑顔の横で竜之介は渋い顔で無精ひげ生える顎を撫でる。撫でる指はせわしなく落ち着かない。


「それに今は……」


 そして啓子は月明りよりも眩しい笑顔を一人の男に向ける。

 一人の男に道を照らす。


「お前もいるからな」


 顎を撫でる指が止まる。

 ぐるぐると回っていた羅針盤の針がぴたりと止まる。


「……ふっ」


 竜之助は膝を叩いて立ち上がり、とある場所へ向かう。


「おお、どうした、突然。そっちは寝室ではないぞ。厠でもないぞ」

「いえ、どっちでもないですよ。ただちょっと、身体を動かし足りないと感じましてね」

「こんな夜中にか? 何をするんだ?」

「鬼退治を少々」

「おお、鬼退治か! やってくれるのか!」


 啓子は廊下に穴が開きそうなほど何度も飛び跳ねる。


「これで少しは生活に自由を取り戻せますでしょう」

「おお、そうだな。鬼退治が終わったら、わらわの部屋に来るといい。父上に禁じられている遊びをやろう」

「へえ、どんな遊びですか」

「松葉崩しに貝合わせだ」

「へえ、松葉崩しに貝合わせ………………松葉崩しに貝合わせ!!?」


 啓子から出てくるとは思わなかった大人びた言葉に年甲斐もなく竜之助は聞き返してしまう。


「どうした、そんなに驚くことか?」

「いい、いいえ、身分の高いお方と火遊びはさすがに」

「火遊び……? ……ああ、そういう心配していたのか。気にするな。父上が何か言おうとわらわが丸く収めてやる」

「いや、ですがね……」

「わらわを信じられないか? 信じられぬなら指切りげんまんしてやるぞ?」


 ささくれのない、ぷくりと膨らみを帯びながらも細い手指。爪はきらきらと光沢があり、まるで無垢の宝石。庇護欲に駆られる。


「で、では、一応……」


 竜之助は唾を飲み込んで小指をひっかけた。

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