かれいの救出
大人は嫌いだ。簡単に嘘を吐く。
あなたが一番。あなたより大事なものはこの世にない。
そう言い続けてきたのにとある日を境に言わなくなってしまった。
大人は勝手だ。自分の都合を押し付けてくる。
あなたのためを思って言っている。あなたもいい加減大人になりなさい。
自分の体裁を保つのが上手いのだから猶更たちが悪い。
大人は嫌いだ。簡単に嘘を吐く。
お前の側にいつもいるよ。何があっても離れない。
そう言っていたのにお役目だからと言って突然島の外に出て行ってしまった。
嫌い。嫌い。みんな嫌い。
こんな気持ちになるなら最初からずっと一人が良かった。
◇
頬を伝う雫の感触にかれいは目を覚ました。
「ん……寝てた……」
彼女はぷかりぷかりと海の上を漂っていた。
身体の下には大きな長板。不思議と浮力が強く、少女の身体が乗ったくらいで沈みはしない。
この板に乗って波を感じることが日課となっていた。波の浮き沈みと潮風が荒れた心を癒してくれる。風が強く大きな波が立つ日には波乗りをして遊ぶ。刺激に飢えた心を満たしてくれる。
上空には発達した厚い雲。海で暮らす者として焦らずにはいられない。
「いけない、急いで陸に上がらないっとって……!?」
目の前の光景に思考が止まりかける。
「うそ、なんでこんなに離れてるの!?」
ようやく自分の置かれた状況を把握する。
離岸流に乗ってしまい、島から遠く離れてしまったことに。
「いけない、すぐに、すぐに戻らないと……!」
板にしがみつきながら島に向かってバタ足をする。
しかし一向に前に進まない。それもそのはず未だに離岸流に乗ってしまったままだからだ。正しい対策としては一旦は陸を目指さして縦に泳がず、横に泳がなくてはいけない。竜宮島に育った者は必ず習う生きるための知識であったが緊急事態、危機的状況であればあるほど冷静さは奪われる。
かれいもその一人だった。
「やばいやばいやばい! すぐ後ろ、竜巻が……!」
竜巻、竜宮島では渦潮を差す。現在位置は島よりも渦潮が近い。
このまま流されれば渦潮に飲み込まれてしまう。
島民であろうと渦潮に飲み込まれた後は生きて帰れるとは限らない。竜之助の場合は奇跡の生還。
バタ足する体力が尽き、いよいよ漂うだけの流木と変わらなくてなってしまった。
自然は分け隔てなく平等に猛威を振るう。だが飲み込まれるのはいつも弱者からだ。
渦潮に吸い寄せられ始めるかれい。
彼女は咄嗟に叫ぶ。
「助けて、お父さん!! お母さん!!!」
すると遠くから呼ぶ声。
「かれーーーーーーーーーい!」
颯爽と助けに来るのは父さんでも母さんでもなかった。
それは猛烈な勢いで近づいて来る。
それも特徴的な泳法で。海面でイルカのように弧を描く。鉄枷で海をかき分けながら。
「竜之助……!?」
竜之助が助けにやってきた。
「はあはあ……!」
板に手をかけ、竜之助は呼吸を整える。
「板に乗れ、すぐに助けてやるからな……!」
竜之助はかれいの襟をつかみ板の上に投げる。
「すーはー……すーはー……」
腹が破裂するばかりの呼吸を蓄えると海の中に潜る。
海中は潮の流れがはっきりと見えた。海藻が沖に流されていく。
(渦潮は目前か……! こりゃ多少の無茶が必要だな……!)
海底は深く遠く、竜之助の身長でも足が届かない。
バタ足をしても徐々に後退していく。
(もってくれよ、俺の身体……!)
気を足に集中する。想像するは鯨の尾びれ。
身体全体を弓のようにしならせて、全力で海面を叩く。
だぱあん!
まさに鯨が尾びれで海面を叩いたかのような激しい水しぶきが散らばる。
「すごい! 前に進んだ!」
竜之助は判断を誤らず、島に直接向かうのではなく離岸流を目指す。
だぱああん!
もう一度、海面を叩く。
前には進んではいる。しかし吸い込まれもしている。一進一退を繰り返す。
鯨泳法は万能の技ではない。体力と精神力を大幅に削る。
(こりゃ想像以上に、しんどいなっ!)
元々は水面を叩き魚を気絶させる石打ち漁として編み出された技。前に進む力は副産物でしかない。
海月よりかはマシな程度に泳いでいるに過ぎない。
(このままだと力尽きちまう……!)
想像以上に渦潮の力は強い。竜宮島の守り神なだけあり、何百年と侵略者を飲み込んできた伝説と実績が存在する。
生命力に溢れる竜之助すら死を予感し、弱音を吐きそうになった時、
「竜之助頑張って! がんばてええ!」
しんしんと降り積もる雪のようによそよそしく静かに冷たかったかれいが泣きながら応援する。
冷えかけていた竜之助の芯が燃え始める。
「ぶっごおおおおおおお(うおおおおおおおおおおお)」
水中で雄たけびを上げる。身体中の酸素を燃やすかのように、全身全霊で海面を叩いだ。
ドーン!!
火薬が爆発したような轟音と滝の流れをひっくり返したような大きな水柱が立った。
直後に生まれる高波。かれいを乗せた板は波に乗り、渦潮の難を逃れ、離岸流から向岸流に乗り換える。
「すごいすごい! 竜之助! あんた、すごい人だったんだね!」
海面に向かって話すかれい。しかし返事はない。
「竜之助……?」
竜之助の身体は静かに海底に沈んでいく。
(あー……頭がぼんやりする……)
息は抜けていってるはずなのに不思議と苦しみがなかった。
(戻らねえと……姫さんとの約束があるんだ……)
生への執着が残っているのに指一本動かない。
全てを出し尽くした彼は流れに身を任せるだけの海藻と変わらない。
このまま海に飲み込まれていく、解け込んでいくかと思われた時、
「竜宮拳法、泡沫!」
乙姫の声。
彼女の声は不思議と潮流が激しい海中でも鮮明に良く通った。
竜之助の周囲に無数の泡が生まれる。泡に包まれ、冷え切った体が浮上する。
通り雨が過ぎ去り青空が戻ってくる。
晴天を確認しながらも竜之助は小屋の中で横になっていた。疲れた体を癒すためだ。
横には乙姫とかれいもいた。
「竜之助……まだ身体動かない?」
かれいは体調を気遣う。子供ながらも深刻さや責任を理解し、今にも押し潰れそうな表情を浮かべている。
「ちと身体がなまっていたようだ。なあに、すぐ動くようになるさ。だからあんまり暗い顔をするんじゃねえよ」
「でも、だって……もう少しで竜之助が……」
「こうして生きてるだろう。これもお姫さんのおかげさ」
「あまり謙遜するものではないぞ、竜之助。お前がかれいを助けに行き、水柱を立てなければ結果は最悪なものとなっていた。紛れもなくお前は命を救ったのだ。島を代表して礼を言う」
頭と一緒に後ろ髪を垂らす。
「わ、私も、ありがとうございました!」
遅れてかれいも礼を言う。
「いやいや! お姫さんがいなけりゃ結果は変わらなかったんだ! だからその、頭を下げるのはやめてくれ! すごくむず痒いのだ!」
慣れない状況に全身が痒くなる。同時に胸の奥がぽかぽかと温まるのを感じた。
「それにしてもだ、お姫さん! まさか水の上を走れるとはな!」
竜之助は救出された時のことを振り返る。
泡に運ばれ、海面から顔を出すと板の上に乙姫が勇ましく立っていた。それから竜之助とかれいの二人を抱きかかえると茣蓙も何もない水面を走っていった摩訶不思議な体験。
「竜宮拳法番外、水切り。水の上を走る仙術だな」
「あのばあさんも水の上を走れるのか」
「いいや。走れるのは私と母上だけだ。竜之助を驚かせようと大事にとっておいたのだがな、あまり驚かないようだな。つまらぬ」
「俺を驚かせるの趣味にでもしたんですか……水の上を走るならお師匠様もやってたからな。初めてではないが充分驚いてますよ」
「ほう、お師匠様とやらも水の上を走れるのか。すごいな」
「ああ、すごいですよ。それにたぶん、滝も上れるだろうな」
「お、まだ滝を上るところは見てないのだな。よし、特訓してみるとしよう」
「ばあさんの代わりに言っておこう。やめてくれ」
おしゃべりをしているうちに竜之助は立ち上がり歩き元気を取り戻す。
「手を貸そうか」
乙姫は何の気になしに手を差し出す。
足が震えが止まらない竜之助は掴みかけたが、昨晩の出来事、彼女の震えを思い出す。
「……いや結構。これも鍛錬のうちですよ」
膝を叩き、己を鼓舞する。
小屋を出ると砂浜を一人の女性が大声を出して走り回っている。
「かれい! かれい!」
「お母さん……」
かれいの母だった。
「あれがお前の母さんか。娘に似てなかなかのべっぴんさんじゃないか」
鼻の下がゆるくなる竜之助。
「手を出すなよ、竜之助」
釘をさす乙姫。
かれいの姿を見つけると涙ながらに駆け寄ってくる。
「かれい……!」
「……」
かれいはついそっぽを向いてしまう。
だが母親は構わずに娘を抱きしめる。
「良かった……! 無事で……! 本当に、本当に……!」
熱い抱擁。半年前までは母の腕の中が彼女の特等席だった。
変わらぬ感触、変わらぬ温度、変わらぬ匂い。
死の恐怖と申し訳なさと懐かしさが、かれいの顔を雪解けのようにぐちゃぐちゃにする。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん!」
かれいは母親の胸で大泣きした。
「かれいはずっと一人っ子だったのだ。両親も島一番と評されるほどの子供想いでな、それはもう大層可愛がられたものだ。だが半年前に、かれいに妹ができた。妹の名前はひらめ。これがまた実に可愛らしい赤子なのだがな、かれいにとっては違ったのかもしれない。愛を一身に受けて育った彼女に天敵ができたのだ。生きながらにして極楽浄土にいるような心地のよい家ががらりと変わったのかもしれない。いつも構ってくれていた母が新参者の妹ばかりに取られてしまうのだからな」
葉茶屋の前。乙姫が深紅色の傘の下で団子を摘まみながらかれいの家の事情を説明する。
「父親も面倒見のいい人だった。仕事を終え家に帰っても酒はそこそこにして娘に構ってあげていたのだがな」
「……でも今この島に男は」
「そう、彼も今は島外に出張っている。腕のいい水先案内人だ。向こうの海でも存分に腕を振るっていると聞く。だがかれいにとってはそんなことはどうだっていいのだろう。舵よりも自分の手を握ってほしいだろうさ」
「そんなに母親はひらめにかかりっきりなのか? この島の子育ての方針は知らぬが、こう、誰かにひらめを見てもらうとかよ」
「それが難しい話なのだ。ひらめは生まれてからずっと病弱なのだ。かれいとひらめの母、あかめというのだが、彼女はこの島唯一の薬師。医者でもあるのだ」
「女は風邪に強いと聞いたが、そうでない子供もいるのか」
「かれいも辛かっただろう。成人まであと数年だがまだまだ親に甘えたい年頃の子供だ。むしゃくしゃした感情をぶつけたかっただろうに聡い子でな、面倒を起こして親に迷惑をかけてはいけないとよく我慢していたと思う」
「立派なお姉ちゃんじゃあねえか。だがよ、まだしばらく我慢は続くと思うと辛えな」
「なに心配ない。慌てふためいて駆け付けてきてくれた母親を見たのだ。自分への愛が変わっていないと確認したのだからもう大丈夫だろう」
茶と団子が平らげた頃、かれいが遠くから手を振って走ってくる。
「竜之助ー! 姫様ー!」
乙姫が手を振り返す。
「竜之助も振り返せ」
「え、俺もですか」
「笑顔も忘れるなよ」
「じゃあ……にかー」
かれいはたどり着くと、
「竜之助何その笑顔こわっ」
「こわっ……」
せっかくの笑顔を怖がられた竜之助は僅かに底に残っただけの茶飲みをひっくり返して飲み干す。
「姫様。先程は本当にありがとうございました。これは少しばかりの礼です」
小さな木箱を手渡す。
「これはなんだ?」
「お薬です。二人分の。姫様には疲れを取る活力剤。竜之助には睡眠薬」
「俺は睡眠薬かよ」
「目の下のクマをなくしたら、人相良くなってモテるかもよ?」
「……」
かれいの発言に竜之助は黙り込んでしまう。
「あ、あれ、言い過ぎた?」
「いや……ずいぶんと人が変わったなと……夢でも見てるのかなと」
「へえ、それなら……」
かれいは竜之助の頬を思いっきり引っ張る。
「いででででででででででで」
「これで夢じゃないってわかった?」
「ああ、わかったわかった。存外愛嬌のある女子だったか」
「……竜之助は、愛嬌のある女性のほうが好き?」
「何だ突然」
「いいから答えてよ」
「まあどちらかというのなら愛嬌のあるほうが好みかな」
「……えへへ、そっか」
耳を赤くするかれい。
(おやおや、これはこれは……)
乙姫は恋の芽生えを見つけるが、
(当たり前のようなことを聞く奴だな……)
竜之助は一切気付かなかった。
「姫様。これから私はお母さんの手伝いをしなくちゃいけないのでそろそろ失礼します」
「もう家の手伝いか? 薬の勉強をしているのか」
「いえ、それはまだ先の話です。まずはできることから、妹の面倒を見なくちゃいけないので」
それを聞き、乙姫だけでなく竜之助も自然と笑顔を浮かべる。
「親孝行じゃあねえの。しっかりやんなよ、お姉ちゃん」
「竜之助に言われたくなってしっかりやるもん」
「ははっ、そりゃ頼もしい」
「そういえば竜之助。もう一つ質問あるんだけど」
「おお、なんだ」
「竜之助って今……恋人とかいる?」
側にいた乙姫は目を丸くして感心する。
(かれいよ、大胆に行くなぁ)
竜之助はありのままを答える。
「いないが? それがどうしたんだ?」
「えへへ、だろうね! じゃあね!」
満面の笑みで走り去るかれい。
乙姫はニマニマ笑いながら竜之助の側に寄る。
「なかなか隅に置けないな、竜之助~」
一方の竜之助はというと、
「……俺、なんか悪いことしたか?」
まるで乙女心に気付かない。罵倒されたものだと思い込む始末。
「……この朴念仁め」
乙姫はぼそっと呟き、落胆する。