幼稚園児のころ
幼稚園児の頃、私は電車で通園していた。たった一区間であるが、それでも毎日通ったのである。
今でもその頃の定期券が残っている。
〇〇殿とフルネームでいかめしく書かれ、ハンコで5歳と押されている。
料金は1か月155円で、あの当時でも最も安い定期券だったろうが、見るところ「小」と赤字で印刷されているばかりで、幼稚園児だからといって、特段小学生よりも安くなっていたわけではなさそうだ。
同じように電車通園する幼稚園児は近所に数人おり、しばしば男の子は電車に興味を持つ。おそらく登園途中もピーチクパーチク、甲高い声で電車のことを語ったであろう。
当時の私たちは、あの電鉄の電車を数種に分類していた。
・ロマンスカー
某温泉行の新造車。東急のアオガエルみたいに、いかにも昭和30年代らしい丸っこいデザインで、前面の湘南顔はすでに多少、賞味期限切れ気味であったかも。
2両編成。4両しか存在しない。
・新型
いかにも昭和40年代的デザイン。ロマンスカーを貫通化、ロングシート化したと言えばそうだが、客用扉が両開きのもの、片開きのもの、両運車、片運車と数種に分かれるが、幼稚園児には識別は無理。本当のところ、新造車だけでなく、ツリカケ式の車体更新車まで混じっていた。
・赤電
ツリカケ式旧型車のうち、ロマンスカーや新型と同一の赤系塗装のもの。
・青電
ツリカケ式旧型車のうち、グリーン系の塗装のもの。この電鉄の旧塗装であった。
赤電、青電が実は塗装の違いでしかないとは、もちろん子供らは全く気付いていない。
この他に電気機関車が1両存在し、ごくたまに見かけた。
母が言っていたことだが、この電鉄では車内になぜか椅子のないポカンとしたスペースが存在し、
「何を積むためだろう?」
と父と一緒に不思議がったそうだ。そして夫婦間の議論の末に得られた答えが、
「きっと牛を積むためであろう」
であったのには、やれやれ。
この鉄道の沿線には有名な温泉があり、「温泉へ行く」というよりも、「湯治」というほうがそれっぽく聞こえるが、戦前の日本では、湯治とは一家をあげての大行事だったようだ。
1週間や2週間は温泉場で過ごすのが当たり前で、長期滞在するための宿屋も存在し、食事はそこで自炊する。
すると当然、湯治に出かけるための持ち物は、鍋釜を含む大荷物となる…、ということだと思う。
そういう大荷物に対応するため、この電鉄の古い電車には荷物室があった(全車ではない)。
モハやクモハではなく、ここでは「デ」と称するから、デニがクモハニの意味になる。
だが私が利用していた時代でも、大荷物をかかえての長期の湯治は、すでに過去のものとなっていたのだろう。デニの荷物室は客室として開放されていたらしく思える。
それを見て私の両親が首をかしげていたわけ。




