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2. 木曜日

 窓から聞こえてくるがやがやとした声で、マルチェロはうっすらと目を覚ました。外は明るくなっている。どうやら朝らしい。

 マルチェロは、あくびをしようとして左頬に痛みがつきりと走り、顔を歪めた。そうだった。昨夜、どこの誰かもわからない賭博客に殴られたことが頭に蘇る。

 マルチェロは盛大にため息をつきながら起き上がった。昨日より痛みは引いているが、やはりまだ痛い。顔の腫れはどうなったのだろうか。ふらりと立ち上がると、マルチェロは棚の引き出しから鏡を取り出して顔を映した。

 左頬が右よりも若干大きくなっている気がするが、昨日ダンドロ邸の大鏡で見たときほど腫れているわけではなさそうだ。すぐ冷やしたのが良かったのだろうか。

 マルチェロは顔に冷たいタオルをあてがってくれた人物を思い出し、腹立たしそうに眉を寄せた。結局あの女の言い分が正しかったというわけか。だが、コルティジャーナ(高級娼婦)でもあるまいし、あんな商売女の端くれに感謝などするものか。

 マルチェロは着替えをするべく、召使いを呼ぶ鈴を鳴らした。




「昨日、私は酔っていなかったよな?」


 召使いが上着を着せてくれているのに任せながら、マルチェロは問うた。

 召使いは頷いた。


「酔っている様子はありませんでしたが、だいぶお疲れのご様子でしたよ。船頭が心配しておられました」


 船頭。そうだ、昨日はゴンドラに乗って帰ってきたのだ。そういえば私は、帰りの賃金をあいつに払ったか……?

 マルチェロは頭をひねって一生懸命思い出したが、払った覚えは全くなかった。ということはあの娼婦が払ったということだ。くそ、ここでも仮を作ってしまったというのか。

 そのとき、部屋の扉がキイと開いた。


「マルチェロ、あんた昨日は明けないうちに屋敷に戻って来たんですって?」


 部屋の入り口から女のシルエットが入ってくる。


「しかも女を連れ込むこともなかったそうじゃない! 珍しいこともあるものね」


 マルチェロはげんなりしたような表情を浮かべた。


「姉上、何の用ですか」


 マルチェロの姉ルイーザは、自慢の美しい金髪をさらっと撫でて鼻を鳴らした。


「あら、弟がいつもと違って健全な帰りだったから、心配になったのよ。傷心だったら慰めてあげようかと思って」


「余計なお世話です」


「まあ生意気に……お父様がお呼びだったわよ。ひどくお怒りのご様子で」


「えっ……父上が」


 マルチェロは表情を歪めた。もうダンドロ屋敷の騒ぎが耳に入ってしまったのか。


「あんた、何をやったのよ。ただでさえこの時期はお父様が……あら、あんたその顔」


 ルイーザがまじまじと目を見開いて弟の顔に近づいてくる。


「な、なんでもありませんよ。父上は書斎ですね」


 マルチェロは眉を寄せて後ろへ後退し顔を背けると、するりと姉の横を通り過ぎて部屋を出た。後ろから聞こえてくる「なによ、せっかく心配してあげてるのに!」というわめき声を無視して、父の書斎へ向かった。



 マルチェロの父、ダニエレ・フォスカリーニ氏は不機嫌そうな表情を浮かべて自身の書斎の椅子に座っていた。

 彼はカーニバルの時期を嫌っていた。無礼講で騒がしく、街も人でごった返していて歩きにくい。他の貴族のように街に繰り出すほどの祭り好きではなかった。

 こういう雰囲気の父とはなるべく会話をしたくなかったが、先延ばしにして後々怒鳴られても困る。


「お呼びでしょうか、父上」


 マルチェロが静かに言うと、フォスカリーニ氏は歪めた口を開いた。


「マルチェロ、昨夜のダンドロ屋敷でお前は何を見た」


 前触れもなく急に言われ、マルチェロは目を瞬かせた。


「な、何を、とは? ダンドロの主人や招待客以外には特に何も……」


「特に何もだと?」


 フォスカリーニ氏はかっと目を見開いた。


「お前は昨夜、七の間にいたのだろうっ! 隣の部屋に誰かいるのを見たのか?」


 父親が急に怒鳴り声を上げたのに、マルチェロは目を瞬かせた。なぜこんなにも怒っているのだろうか。マルチェロは戸惑いながらもぶるぶると首を振った。


「ダンドロの主人以外、見ていません。他にもいたかもしれませんが、私は覗いたりなどはしなかったので」


 フォスカリーニ氏は眼光を鋭くさせて自分と同じ色の目を睨みつけていたが、やがて目を逸らした。


「よかろう。だがとにかく騒ぎは起こすな。ダンドロ様の屋敷にも当分近づくでない。わかったな」


 マルチェロはこくこくと頷き「は、はい、では失礼します」と言って部屋を出た。




 なぜ父はあんなにもダンドロ邸のことを気にしていたのだろうか。

 頭を捻りながらマルチェロは食堂に下り、召使いに朝食を用意させた。コーヒーを飲みながら昨夜のことを思い返してみる。

 頬を冷やしていたら、見知らぬ男が入ってきて隣の部屋を覗いていた。その後クリスティーナもあの扉の穴を覗いていた。彼女はなんと言っていたか……。


「よお、マルチェロ」


 ぼんやりと思い出しかけていたところへ、突然食堂に若い男がぬっと姿を現した。


「お前、今日は劇場に一緒についてきてくれる約束だったこと、まさか忘れて…………おいどうしたんだ、その顔」


 マルチェロは闖入者に視線を向けることなく、ちぎったパンを口に入れて咀嚼する。右頬で噛むようにしているが、それでもやはり少し痛みを感じるな。

 無視された青年は「おいおい、俺にだんまりは通じないぞ」と言いながらマルチェロの視界に入り込んだ。


「誰かと娼婦の取り合いでもしたのか? あっわかったぞ、ゴンターニ家のご令嬢か。レオナルドとやり合ったんだな、はっはー! 大当たりだろ」


「……エド、お前じゃなかったらこの屋敷からつまみ出しているところだ」


 エドと呼ばれた男は調子よくにやついた笑みを浮かべた。


「そう怒るなって。お前を心配してたんだぞ? 昨日ダンドロ屋敷で見かけなかったから」


 彼の名はエドアルド・ギーシ。マルチェロの古くからの友人で、ヴェネツィアの名門貴族ギーシ家の嫡男である。


「それで? なんでそんな顔になってるんだ、昨日はどこにいたんだよ」


 マルチェロは最後のパンのかけらを飲み込むと、友人の方をちらと見た。


「ダンドロ屋敷には行った。昨日は仮面をつけていた」


「仮面を? お前が?」


 エドアルドの深緑の目が丸くなった。


「へぇーっ! 珍しいこともあるもんだな。ご自慢のおきれいな顔を隠すなんて。あっまてよ、そうか、その顔だからだな」


 マルチェロは心外そうに「そうではない」と言った。


「仮面は殴られる前からつけていた。二階の賭博場で、知らない男と間違われてやられたのだ……誰にも言うなよ」


「間違われたって?!」


 エドアルドはさらに目を見開いたが、すぐに腹を抱えて笑いだした。


「くく、間違いで殴られるってなんだよ……マルチェロ……くくくっ、お前、ほんとうに最高だな!」


 マルチェロは仏頂面で友人の笑い声を聞きながらコーヒーを飲みほすと、ガタンと音を立てて立ち上がり、無言で食堂を出ていこうとした。


「ま、まてよ。笑って悪かった」


 エドアルドは慌てて、肩を怒らせたマルチェロの腕を掴む。マルチェロは嫌そうな顔を友人に向けた。


「そういうわけで私は体調が優れない。今日のところは遠慮させてもらう。誰か他を当たれ。ロレンツォ辺りが暇だろう」


 友人は首を振った。


「いいや、あいつ今年は来週まで忙しそうだぞ。ジュデッカの修道女といい仲になったらしい。しかも貴族出だ」


「なにっ!」


 マルチェロは目を見開いた。あのいつもぼんやりしているロレンツォが!? この前失恋したと言っていたから酒に付き合ってやったばかりだというのに!

 マルチェロは歯ぎしりした。今年の私はなぜこうもついていないんだ。

 マルチェロは怒りを抑えて、努めて冷静に言った。


「……顔を腫らしているのに、劇場まで私を出向かせることはないだろう」


 エドアルドは眉尻を下げた。


「そんなこと言うなよ、紹介してくれるってもうずっと前からの約束だろ。お前しかできないから頼んでるんだぞ……俺はその女優にかけてるんだ。仮面をつけていけばいいじゃないか。なあ、頼む!」


 マルチェロは、古くからの友人の懇願に頭をかいた。






 夜。サン・ベネデット劇場は思った通り、大勢の人でごった返していた。召使いに良い席のチケットを確保させていたので焦る必要はなかったが、マルチェロの隣を歩く男はずっとそわそわしている。

 マルチェロは、時折り足を踏み出した弾みで仮面が頬に触れて痛みが走り、顔を歪めていた。

 ようやく席にたどり着き、やれやれと腰を下ろそうとした。

 すると慌てたようにエドアルドが止める。


「お、おい、座るな! 上演の前に紹介してくれよ、終わった後は客が大勢押しかけるからわからなくなってしまうと言ったのはお前だぞ」


 マルチェロは仮面の下で「くそっ」と悪態をついた。


 去年、自分が劇場の俳優たちと仲が良いとエドアルドに自慢したことが頭に蘇る。

 あの時期に恋人だった貴族令嬢がオペラ好きだったため、この町に点在する各劇場の投資貴族や俳優と知り合いになるべく人肌脱いだのである。

 結局その彼女もそのシーズンのうちに私の元を去ったのだったな……。マルチェロは哀れな自分に一瞬遠い目をしたが、すぐに立ち上がった。


「いいだろう、ついてこい」




 マルチェロはエドアルドを連れて舞台裏の楽屋へ向かった。

 上演の準備に追われている劇場の下男たちが駆け回る廊下を通り、分厚い扉を押し開ける。

 中にはさらに小部屋が連なり、下男だけでなく派手な衣装を着た俳優や衣装係がバタバタと騒がしく準備をしていた。


「ちょっと、あんたたち何? 誰の許可を得てここまで入って来てんの」


 濃い化粧が施された赤毛の綺麗な女が目を釣り上げてズイと出てきた。身にまとった真っ赤な衣装は、彼女のためだけに仕立てたとばかりに抜群に似合っている。


「アンジェリカ、私だ……マルチェロ・フォスカリーニだ」


 マルチェロは仮面越しに言ったが、その艶麗な美女は彼の声を覚えていたようで「ああ」と目を丸くして声を上げた。


「貴族の坊やの! マルチェロ様でしたっけ、えーえ、よく覚えてますとも」


 女優アンジェリカは、前年にプリマドンナを務めていた話題の人物だ。しかし衣装を見る限り、今シーズンのその座は後輩に譲ったようである。


「けど、今回お連れしてるのは貴族のお嬢さんじゃないようねえ……どなた?」


 アンジェリカがじろりと品定めするように仮面をつけていないエドアルドに目を向ける。

 エドアルドはその視線にぎくりと身を縮こまらせて、慌てたように帽子と仮面、そしてバウタを外し、蚊のなく声で言った。


「エ、エド、アルドといいます……」


「彼も貴族だ。今年のプリマドンナに会いたい」


 マルチェロが言うと、アンジェリカは「ああ、あの子」と意外そうに頷いた後、ぎゅっと眉を寄せた。


「あの子はまだ入ったばっかりの歌い手だよ。一夜の相手なら他を当たってもらわないと……」


「わかっている、ただ少し話せればいい。彼女はどこにいる?」


 マルチェロの有無を言わさない言い方に、アンジェリカは「はいはい」と肩をすくめた。


 アンジェリカは二人の青年を連れて楽屋の奥の部屋まで行くと、扉を叩いた。


「ソフィア、ちょっといい?」


 アンジェリカが扉を開けると、中の広い部屋が見えた。

 そこでは今年のプリマドンナが髪結いの女に髪を直してもらっているようで、ごちゃごちゃとした化粧台の鏡の前に座っていた。結えていない部分の金髪が美しく流れるように輝いている。


「アンジェリカさん? もう時間ですか」


 その声に、マルチェロもエドアルドも思わず聞き惚れた。透き通るようなソプラノだ。


「いいや、そうじゃないよ。知り合いがあんたに会いたいって言うからさ」


 アンジェリカがそう言うと、彼女は「私に?」と聞き返すのと同時に髪結いの女が離れた。髪の直しが終わったようだ。「ありがとう」と彼女に小さく礼を言うと、プリマドンナはすくっと立ち上がってこちらを向いた。青い目が金髪に似合っている。

 マルチェロは心の中でふんと鼻を鳴らした。こちらを向いた彼女は特別美人ではない、隣にいるアンジェリカの方が目を引く美女である。

 しかしこの白いゆりのような品のある可憐さを、エドアルドは気に入ったのだろうと予測できた。ちらと横の彼を見ると、案の定ぽうっとした表情を浮かべている。

 マルチェロはさして興味を惹かれなかったが、仲介役を引き受けた以上は仕方ないと仮面の下から愛想のいい声を出した。


「上演前の忙しい時間にすまない。私はフォスカリーニ家のマルチェロという。アンジェリカやこの劇場の連中とは去年から仲良くさせてもらっている」


「は、はじめまして……その、わ、私はソフィアと申します」


 ソフィアが緊張したように小さくお辞儀をした。突然尋ねてきたマルチェロに戸惑っているようだ。まずは彼女に警戒されないようにできるだけ言い方を選んで……まったくなぜ私がこんな女に愛想良くしなければならないんだ。

 心の中でぼやきながらマルチェロは続けた。


「実はあなたにぜひお会いしたいと言っている友人を連れてきた。今シーズンが始まってからあなたの歌声のファンらしい……彼も私と同じこの国の貴族で、エドアルド・ギーシという。君も挨拶したまえ、エドアルド」


 しかし、エドアルドの方は石像のように固まった状態でソフィアを見つめるばかりで、何も言わず、一歩を踏み出そうともしない。


「おい、エドアルド……エド!」


 何度も呼んでも反応しないので、マルチェロが足を蹴飛ばすと、エドアルドはようやくはっとした表情になった。


「す、す、すすまない! お、俺は……その、あなたが……あなたの歌が、とても素晴らしいと思って……どう、どうしても、あなたに会いたかったので……その、その」


 必死に言葉を紡ぐその顔は真っ赤に染まり、目は泳いでいる。

 その場にいたマルチェロもアンジェリカも、呆れたような生温かい視線を送ったが、ソフィアの方はふっと柔らかい笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。今宵もどうぞ楽しんでいってくださいませ」


 その微笑みに、エドアルドは完全に固まってしまった。

 しばし無駄な沈黙が流れる。

 マルチェロが「おいエド」と呼びかけたり、足を蹴飛ばしたりしても、うんともすんとも言わなかった。


 そのうち化粧室の扉がノックされ、外から怒鳴り声がした。


「ソフィア、アンジェリカ! 始まるぞ、急いでくれ」


 舞台係が声をかけにきた。もう時間はなさそうだ。「あんたたち、そろそろ……」とアンジェリカが言うので、マルチェロは口を開きそうにない友人を押しのけて「ソフィア嬢」と呼びかけた。


「この公演の後、また会えるだろうか。あなたさえよければ、彼はあなたともう少し話したいらしい。もちろん話をするだけだ」


 ソフィアは目を瞬かせて頷いたが、少し困ったように言った。


「え、は、はい。で、でも、公演の後はしばらく大勢お客さんがいらっしゃるので……」


「わかっている。劇場近くにカルボネのカフェがあるだろう、緑の扉に金の取手の店だ。公演終了後、客が引いてからでいいから来てくれ。彼は朝まであなたを待つ」


 ソフィアは戸惑ったような表情を浮かべていたが、マルチェロは彼女の返事もきかずに踵を返すと扉を開けた。


「行くぞ、エド」


 しかしエドアルドは口を閉ざしてソフィアを見つめたままだ。


「エド! 早くしろ」


 はっとしたエドアルドは、やっと状況を理解したように友人を振り向き、また目の前にいるソフィアの方を向いた。そうしてやっと口を開いた。


「あ、あ、あなたは……あなたはまるで天使のようだ。俺の心を掴んで離さない、どうか、俺のような哀れな男がいることを心の片隅に置いてほしい、どうか……」


 急に詩人のような言葉を口走ると、顔を真っ赤に染めたままでぐるっと背を向け、マルチェロもアンジェリカも押しのけて走り去り、楽屋を出ていってしまった。


 マルチェロは呆れたようにアンジェリカと顔を見合わせた。


「マルチェロ様のご友人っていうから、ちょっと心配してましたけど……安心したわ」


 アンジェリカにそう言われて、マルチェロは「どういう意味だ」と睨みつけた。


 それからアンジェリカの案内で、マルチェロは楽屋からボックス席に通じる廊下に出た。


「私の方からも、あの子にエドアルド様の事を言っておくわ。きっと公演の後は彼のような崇拝者がいっぱい来ますから、頃合いを見計らって劇場から出すようにします」


「よろしく頼む」


 マルチェロはアンジェリカにそう言うと、自分の席の方に戻った。


 すでにエドアルドは席に戻っており、マルチェロの隣の席で上半身を倒すようにして顔を両腕に埋めていた。

 マルチェロは息を吐いた。


「エド、正気に戻ったか?」


 エドアルドはその態勢のまま首を振った。


「だめだ、あんな女性は初めてだ……どうにかなりそうだ」


 友人のくぐもった声を聞きながら、マルチェロは隣に座った。


「どうにかって、至って平凡な顔だったが」


 するとエドアルドは急にがばっと起き上がると飛びかからんばかりにマルチェロの首元のバウタに手をかけた。


「あの声を聞いたか!? 美しいなんてものじゃ、いやそもそもこの世のものじゃなかっただろ……!」


 そう言ってからすぐに手を離してふらふらと席に座りなおした。


「あんな人が世の中に存在していいのだろうか……こんな舞台に立たせて歌わせて……」


 また自分の世界に入ってしまった友人に肩をすくめると、マルチェロは帽子を取り、「いつつつ」と顔をしかめながら仮面を外した。左頬が仮面に触れると痛みが走るのだ。

 ようやくタバッロまで脱ぎ終えると、マルチェロは席に座って言った。


「なんでもいいが、とにかくカルボネのカフェだからな。ちゃんと朝まで待つのだぞ」


「え? マルチェロも一緒に来てくれるんだろ?」


 きょとんときた表情のエドアルドに、マルチェロはわめいた。


「ばかか! なんで私まで行かなきゃならないんだ、また無駄な一夜を過ごせと言うのか!」


 冗談じゃないとマルチェロは息巻いたが、友人の方はしれっと言った。


「いいじゃないか、どうせ今夜も顔の腫れはひかないんだ、新しい女なんか見つかりっこないさ。それに早く帰ったら、姉さんにばかにされるだろ。今夜はカルボネでコーヒーを飲んだ、それで十分大義名分になるぞ」


 マルチェロはむっとしたが、確かにそれもそうだと思った。

 この時期に外で祭りを祝う人々を眺めるのも一興だ。仮面とバウタをつけてカルボネのコーヒーを楽しむのもヴェネツィア貴族らしい。

 そう考えてマルチェロは「いいだろう、付き合ってやる」と頷いた。それにもしあの女がエドアルドを嵌めようとしているのなら、私が止めてやらねばなるまいと、マルチェロはひそかに考えていた。

 その一方でエドアルドはほうっと息を吐いて舞台を見つめた。


「それにしてもお前の顔が腫れててほんとうによかった。もし彼女がいつものお前を見たら……ほんとに腫れててよかった」


 マルチェロは持っていた仮面をメキッと折りそうになった。


「お前と一緒にするな、私は平民には興味ない……くそ、この借りは必ず返せよ」





 その夜のオペラは、完成度の高い作品だった。美しい声のプリマドンナは作品の役柄と合い、一層映えた。

 なるほど、確かに舞台に立つと彼女は美しい。アンジェリカの方が美人だが、演出のおかげか、先ほど平凡だと思っていたソフィアの表情は輝いて見えた。

 マルチェロはそんなことを思いながら、ちらりと隣の男を見た。一瞬たりとも見逃さないというようにかっと目を見開き、陶酔するような顔を浮かべている。

 この崇拝具合、ヴェネツィア貴族の名折れだな。

 友人に冷めた視線を送り、ふと向かいのボックス席や下の平土間席に目を向けた。エドアルドのようなうっとりとした表情を浮かべている者が、男女問わずちらほらいるようだ。

 マルチェロはやれやれと肩をすくめた。 

 我々貴族が誇りを保てる家の娘と婚姻を結ぶために、平民なんかにうつつを抜かしている暇はないというのに。

 そのとき、平土間席の後ろの方で、きょろきょろしている人物が目に入った。そちらを見た瞬間に、マルチェロはその人物と目が合い、思わずあっと声を漏らしそうになった。

 クリスティーナだった。なぜあの女がここに……それよりなぜ二日続けて目が合うのがあの娼婦なんだ。俺が貴族の娘に何をしたというのか。


 クリスティーナの方も驚いていたようだったが、さすがにオペラの上演中であるため昨日のように大声を出したりはしなかった。しかしなぜか、しきりに小さく手を動かし始めた。顔も真剣で、何かを伝えようとしていることはマルチェロにもわかった。

 なんだ……?

 クリスティーナは自分の目を指差し、今度は指を曲げて手で穴を作ると覗き込むようにしている。その後に舞台を指差した。


 さっぱりわからんな。

 彼女の意味不明な身振り手振りに、マルチェロは肩をすくめてみせた。

 クリスティーナはもどかしそうな表情を浮かべると、再び自分の目を指差し、舞台の方を……正確にはプリマドンナの方を指差した。

 一体なんなんだ。マルチェロは目を凝らして考え、読み取ろうと彼女の動きを見つめた。


“私は舞台を……ソフィアを見ている”?


 結局マルチェロがわかったのはそれだけだった。

 あたりまえだろう、私もだ。ここにいる全員があのプリマドンナに注目している。

 マルチェロはばかばかしくなって、舞台に視線を戻した。もう階下に目を向けることはなかった。




 上演が終わると、マルチェロは再び仮面をつけ直して立ち上がった。

 エドアルドはずっと呆けたような顔をしていたが、これからカフェに向かうことを思い出すと、緊張したように不安そうな声を出した。


「彼女は来てくれるのかな。場所はちゃんとカルボネって言ってくれたんだよな? ああ、でもきちんと話せるかどうか……」


「話してくれなければ私が困る。頃合いを見て私は帰らせてもらうからな」


 マルチェロはいらいらしたように言うと、エドアルドは困ったように眉を寄せた。


「そう言うなよ。仲介してくれる約束だろ」


 そんな会話をしながら、青年たちは劇場近くのカフェへ向かった。




 カフェ・カルボネのコーヒーは絶品で、値段もそれなりだ。そのため、マルチェロはこの店のテラス席でコーヒーを飲むということに優越感を抱いていた。

 ただ、顔を腫らしているがゆえに仮面をつけていることが残念でならなかった。これでは通りすがりの者たちには私だとわからないではないか。マルチェロは唯一見せびらかすことができる自慢の長い脚を組みかえた。

 一方で目の前に座る男は、仮面とバウタは外したままでずっとそわそわしている。コーヒーには口をつけてもいないようだ。マルチェロはやれやれと友人から目の前の通りに視線を移した。

 がやがやと派手な仮装をした者たちがひっきりなしに歩いている。

 おや、あの道化の格好の男は、ドイツから来たというエンゲル男爵ではないか。去年のクリスマス後に顔を合わせた時は真面目な男だと思ったが、今夜はカーニヴァルだからとはめをはずしているらしい。

 彼と肩を組んで一緒に騒いでいるのは、いつもリアルト橋のたもとでランタンを持っている男だ。本来なら互いに関わり合わないはずの二人のその様子に、マルチェロは仮面の下で小さく笑みを浮かべた。

 それから次に視界に入った女に、マルチェロはぎくりとした。向こうから来るのは例の娼婦、クリスティーナではないか。

 彼女はきょろきょろと誰かを探しているように見えた。まさか私じゃないだろうな。先ほど客席から見たときは暗くてわからなかったが、今夜も清楚なドレスを着ている。仮面をつけているから今は私だと絶対にわかるまい。じっと息を殺して彼女が通り過ぎるのを見送る。そのうちクリスティーナは人混みに紛れて行ってしまった。どうやら気づかれなかったようだ。

 マルチェロはほっとして再びカップを口につけた。すっかり冷めてしまっている。

 お代わりを頼もうと店内の方を振り返ると、店内の奥の席に見慣れた男女が見えた。その人物が誰なのか認識した瞬間、マルチェロはシュバッと音を立てるかのように首を戻し、体勢を低くした。

 ギリ、と歯を噛み締め、膝の上で拳を握る。胸にふつふつと怒りがわいてくるのを必死に抑えた。

 急に俯いた友人の様子に、そわそわしていたエドアルドも気づいた。


「どうした、マルチェロ。奥に誰かいるのか?」


 首をぐっと伸ばして中を伺う。そうして目を丸くして口の端をあげると、友人と同じようにテーブルの上に屈むようにしてから小さく笑い声をあげた。


「おいおい、レオナルドと例のご令嬢がいるじゃないか! へへっマルチェロ、お前もつくづく……」


 マルチェロは慌てて友人の口をがばっと塞ぐと声を潜めて強く言った。


「大声で私の名前を言うな! さもなければ金輪際お前とは関わらないぞ」


 エドアルドは「悪い悪い」と謝ってから続けた。


「でも場所を移るとか言うなよ、彼女とはここで待ち合わせてるんだから」


 しかしマルチェロは友人を振り払うと、目立たないようにして静かに立ち上がった。


「冗談じゃない、こんなところに居られるか。屈辱を味わうために来たつもりはない」


 エドアルドは慌てたようにマルチェロの腕を掴んだ。


「な、なに言ってる、俺一人じゃだめだってわかってるだろ! 約束が違うじゃないか……わかった、お前が帰るって言うんなら俺は今、大声で騒ぎ立てるぞ! お前の名前を言いふらしてあの二人に……」


「ばか、やめろっ!」


 マルチェロは舌打ちをして再び彼の口に自分の手を押し当て、エドアルドがもがくのを必死に止める。

 確かにエドアルド一人ではあの歌手が来ても会話にならないかもしれない。彼女が来るならの話だが。

 マルチェロは唸りながらも仕方なく再び腰を下ろした。


「……わかった、最後まで付き合ってやる。今日は仮面をつけているからだぞ。それと、あの二人が帰るまで私の呼び名は変えろ」


 その言葉に、エドアルドはほっとしたようにマルチェロの両手を握り、ぶんぶんと振った。


「ありがとう! ありがとう、マルチェ……マルチェリーノ」


「その名前は却下だ」






 それから二時間ほど経つ頃。マルチェロとエドアルドは、三杯目のコーヒーを飲んでいた。エドアルドの方はいつしか緊張していたことを忘れたように、通りを歩く人々の様子をおもしろそうに眺めていた。


 実際この町の住民ーー外国人も多数いるがーーの仮装は見ていて全く飽きなかった。毎年同じことの繰り返しでも、このばか騒ぎの祝祭期間をマルチェロは父のようには嫌っていなかった。


「見ろよ、あれはベルトーニ夫人だ。さすが……派手だな」


 エドアルドが言ったのに、マルチェロも友人の指した方に目を向ける。


 ベルトーニ夫人の頭には、大きなかつらが被せられ、宝石や花の飾りが大量に乗せられていた。化粧は濃く施され、先ほど劇場にいたアンジェリカのようだ。そしてまるで鎧のような衣装は、何十枚もペチコートが重ねられているためにこんもりと盛り上がっている。なにより彼女の華やかさがその存在感を際立たせていた。


「あの力量なら、大昔の甲冑だって余裕で着こなせるぞ」


 ベルトーニ家は数年前に貴族入りを果たした新興貴族だ。その財力は有名で、フランスから何人もかつら師やお針子を呼び寄せているという噂も頷けた。

 しかしあれでは奢侈条例違反もいいところだ。おそらく明日の朝ベルトーニ家には政府からの通達が届くにちがいないとマルチェロはひとりごちた。

 

「そういえば、ロレンツォの奴が服がないって焦ってたっけ。まあバウタとタバッロさえあればどうにかなるって言ってやったけど」


 マルチェロは鼻で笑った。


「いつも同じ服ばかり着ているからだ。あいつはセンスがないからな。普段の生活でたくさん着こなしていれば慣れてくるはずだ。私なら相手の修道女の着こなしさえ指示できる」


 実際マルチェロは流行りのファッションを熟知し、毎年カーニヴァルでは最新の物を取り入れて参加していた。

 エドアルドは頬杖をついて言った。


「お前は容姿のこととなると、ボローニャの教授かと思うほど詳しく解説できるからな……同じ服を着るな、だな。ロレンツォにも伝えておくよ」



 冬の冷たい風が通り過ぎる。カップに残っているコーヒーはすっかり冷たくなってしまっていた。それを飲み干すと、マルチェロは急に寒さを感じ、身体を震わせた。

 カーニヴァルはもうあと一週間もないというのに、私は一体こんなところでなぜ寒さに凍えているのだろう。ほんとうならば、親交を深めた貴族の令嬢から家族を紹介されて屋敷にあがり、晩餐をご馳走になっていたかもしれないのに。


 マルチェロの願いは、良き一族との関わりを持つことだった。

 次男である自分にはフォスカリーニ家を継げない。貴族として確固たる地位を手に入れるには、兄や弟のいない嫡子である貴族の娘と結婚することしかないとマルチェロは考えていた。自分の容姿につられて寄ってきた令嬢を利用し、権力のある家から信頼され、後ろ盾を得る。それこそがマルチェロの願いだった。

 しかし、気まぐれな本国の令嬢たちはマルチェロの容姿にすぐ飽きて、他の男に乗り換えてしまうのだ。今年こそはとマルチェロも気合を入れていたのに、ゴンターニ家の令嬢も例年通りで、結局のところ時間を無駄にしてしまった。

 そして今、意中の女に自分の意志もきちんと伝えられない男とカフェの椅子に座り、冷たいコーヒーを飲みながら、来るかどうかもわからない平民の女を待っているのだ。しかも店の奥には一昨日まで恋人だった女が他の男と楽しく過ごしている。これ以上の屈辱があるだろうか。


 

 マルチェロの憂いには気づかず、エドアルドは言った。


「ソフィア殿が来ても、お前は彼女の服装について絶対口出しするなよ、マルチェ……マルチェリーノ」


「だから、その名前はやめろと言った……」


 そのときである。


 後ろからカツカツと足音がして、マルチェロはびくりと身体を震わせた。ゴンターニ家の令嬢とレオナルドが店から出てきたのだ。 

 若い二人には互いの存在以外は全く見えていないようで、楽しそうに笑いながら通りの人混みに紛れていった。



「いいなあ……」


 幸せそうな後ろ姿を見送りながら、エドアルドがポツリと言うと、マルチェロは悔しそうに「くそっ! そういう風に言うのはやめろ!」と歯を噛み締めながら言った。


「それにお前もこれから女と会うのだろう、平民の女の何がそんなにいいのか理解に苦しむが」


「ただの女じゃない、女神だ、いや、天使か……ああ、彼女が来たらどうしよう、マルチェロ、俺はどうしたらいいんだ」


「どうしようって……おいおい、お前なにも考えてないのか? そもそも、なんのために今夜会いたいと思ったんだ」


 エドアルドは肩をすくめた。


「その……ちょっと話せたらいいかなって」


「なんだそれは!?」


 マルチェロは信じられないというように思わず立ち上がった。


「ちょっと話すだけならさっきのはなんだ? どうせ会うなら多少強引でも彼女をものにするまでとことんやれ! 私がここで寒い思いをしている意味がないだろう」


 エドアルドは椅子に座ったまま口を尖らせて友人を見上げた。


「そんな風に考えてるからいつも女に逃げられるんだろう、自分の事しか考えてないじゃないか」


「自分のことを考えるのはあたりまえだ。私の人生だからな。逃げるならばそれまでの女だったということだ。そんな女は私にふさわしくない」


 エドアルドは、哀れむようなじとっとした目でマルチェロを見た。


「お前……俺が友達でほんとうによかったな」


「その言葉はそのままそっくり返してやる……おや?」


 カフェの外のテーブル席から少し離れたところで、黒いモレッタの仮面をつけた女性がぽつんと立ちすくみ、こちらを見ている。

 頭から被っている外套は上等なベルベットで、裾に光る金の刺繍が見事だった。コルティジャーナか。いや、それならもっと流し目を送ってくるだろう。

 彼女はマルチェロが怪訝そうにこちらを見ていると、おずおずと近寄ってきた。女性はモレッタの仮面を外した。


「あの……こんばんは。先ほどお会いしたソフィアです」


 マルチェロはああと頷き、隣に座っていたエドアルドはガタンッと音を立てて立ち上がった。同時に椅子が倒れたのでマルチェロは眉をしかめたが、エドアルドは直立不動のまま彼女をまっすぐ見つめるだけだ。


 マルチェロは咳払いをした。


「ソフィア殿、来てくれて感謝する。ここでは寒いから店の奥に移ろう、エド、それがいいだろう?」


 エドアルドはぼうっとしたままうんともすんとも言わない。マルチェロが再び彼の足を蹴飛ばすと、エドアルドは我に返ったように「はっ、そ、そうだな!」と頷くと、ひとりで奥に行こうとする。

 マルチェロは友人の腕をがしっと掴んで耳元で囁いた。


「お前が彼女をリードするんだ、席は私が確保してやるから」


「え、おお、俺が……!? そ、そんな、どどど、どう……?」


「どうって、腕を貸してやったらいいだろう、そんなこと自分で考えろ」


 マルチェロはいらいらしながら二人を残してカフェの奥に入った。

 店内は美しく装飾が施され、磨かれたテーブルには豪華な真紅の椅子が並んでいた。


 店員が「お客様、奥の席をご利用ですか」と声をかけてきたのに、マルチェロは「ああ三人だ、あそこの席がいい」と指差した。

 店員は頷くとすぐにその席を整える。マルチェロはタバッロも帽子も仮面もつけたまま座ると店内をぐるりと見回した。

 自分と似たような服装をした上品な男女があちこちに座っている。やはりここは落ち着いた雰囲気の良い店だ。外の騒ぎが遠く聞こえる。

 そのうちエドアルドがあのプリマドンナを連れて店内にやってきた。

 ソフィアもエドアルドも仮面を取っており、エドアルドの方は真っ赤な顔を俯かせている。

 マルチェロはため息をつきたくなるのをなんとか堪えて二人を自分の向かいに座らせると、店員に人数分のコーヒーを頼んだ。


「……今夜の歌は素晴らしかった。今シーズンに入って初めて聞いたのだが、正直驚いた」


 マルチェロがソフィアにそういうと、ソフィアはほっとしたように微笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。アンジェリカさんとはタイプが違うと怒られるのではと思っておりました」


「とんでもない、稀に見るソプラノだ。舞台には去年も出ておられたのか?」


「い、いえ、その、私はこの秋にヴェネツィアに参りました……この国のカーニヴァルも初めてなんです」


 マルチェロは仮面の下で目を瞬かせた。それならばこのカーニヴァルの騒ぎに慣れていないに違いない。


「あまりにやかましくて驚いただろう。こんな男に声をかけられるなんて、あなたはついていない」


 マルチェロが友人を揶揄して言ったが、当のエドアルドは反論することもなくぽやんとソフィアの方を向いたままだ。

 くそ、こいつほんとうにやる気あるのか。


 ソフィアはマルチェロの言葉に首を振った。


「いいえ、そんなことはありません。とても素敵な町だと思いました。劇場にはいろんな階層の方がいらしてますし、表の通りでも身分に関係なくみんなが一緒になって騒いでいて……祭りとはいえ、こんな空間があるのですね」


 その言い方が哀しみを帯びているようで、マルチェロはおやと思ったが、ちょうどこのとき店員がコーヒーを持ってきた。

 コーヒーは温かく、マルチェロの冷え切った身体を温めてくれた。ソフィアもそのようで、ほっとしたようにカップに手を当てている。

 しかし、エドアルドの方はコーヒーに手をつけるどころか隣のソフィアをぼんやりと眺めるばかりだ。彼女もその視線に気まずそうに下を向いている。まったく。

 マルチェロはテーブルの下でエドアルドの足を蹴飛ばした。


「あいたっ」


 突然声を上げたエドアルドだったが、マルチェロの厳しい視線に脚をさすりながら言った。


「そ、そ、そのソフィア、えと、えと、あ、あなたは、ずっと女優を目指していたのですか」


 ソフィアは肩をすくめた。


「いいえ、そういうわけではありませんでしたが……でも夢でした。歌はとても好きですから」


 そう言って微笑んでみせたソフィアに、エドアルドは顔をさらに赤くさせたが、それからはぎこちなく、会話と言える会話が紡がれた。今回の劇場の公演のこと。他の役者達のこと。好きな音楽のこと。

 最初は緊張していた二人だが、徐々に和やかな雰囲気になっていき、マルチェロは最初はほっと胸をなでおろして聞いていたが、しばらくするとここにいる自分がばかばかしくなり、本気で帰りたくなってきた。

 話の区切りを狙って、マルチェロは咳払いをした。


「カーニヴァルは来週の火曜日で終わる。同時に劇場も閉まるが、その後もこの国に留まるのか? 歌手の連中には外国に行く者もいるし、旅行者は自国へ戻られる者が多いが……」


 エドアルドはその質問にはっとして不安そうに眉を寄せた。


「そ、そうなのですか!? あなたも帰ってしまわれると!?」


 しかし、ソフィアは首を振った。


「できれば、もう少し……もう少しだけ、こちらに滞在させていただきたいと思っております。あまりに……美しい国なので、できる限り離れたくないと思ってしまいます」


 マルチェロは仮面の下で眉を寄せた。

 劇場が閉まるということは収入がなくなるということだ。あてでもあるんだろうか。余裕があるところをみると、もうすでに誰かの愛人である可能性もある。

 しかし、エドアルドの方はソフィアの言葉を聞いて「よ、よかった」とほっとしたような顔を浮かべ、拳をぎゅっと握って胸を叩いてみせた。


「もしお困りなことがあれば、なんでも言ってください。お力になります! 住むところとか……お食事だとか……うちには空室がたくさんありますから、ぜひ!」


 そう言ったエドアルドの目はきりっとしている。マルチェロは友人に冷めた視線を送ったが、ソフィアは目を瞬かせた後、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。ほんとうに大丈夫ですのよ、兄もこの国におりますから」


「え、兄上がいらっしゃる? そうですか、それは……」


 エドアルドは少し落ち込んだ声になった。彼の中でハードルが上がったらしい。

 マルチェロは心の中で冷笑した。歌手の兄など知れたものだ。こちらはヴェネツィア貴族、しかも旧家である。何を怖気づく必要があるのだ。


「兄上のお名前をお伺いしても? 挨拶した方が良いだろう。どちらに住まわれている?」


 しかしマルチェロの問いにソフィアは顔を曇らせ、頭を下げた。


「申し訳ありません。兄の名前をお伝えすることはできません。固く口止めされているのです。私は……今はさるお方のお屋敷に滞在させていただいております。お教えできなくてごめんなさい」


「そ、そうですか……いえ、もちろん無理におっしゃらなくとも、こうしてお会いできただけで私は……」


 エドアルドはさもがっかりしたように肩を落としたが、マルチェロは目を細めた。

 兄の名前を言えないだと? どういうことだ。滞在している屋敷の名前も言えないというのか。歌手のくせにブルジョワ気取りか。

 マルチェロがそんな風に考えている横で、エドアルドがあまりにも落ち込んだ様子だったので、ソフィアがためらいながら言った。


「あ、あの……でも、もしよろしければ、兄にあなたのお話をさせていただきますわ。私の歌を気に入ってくださったこと言えば、きっと兄も喜んでくれると思います」


「ほ、ほほ、ほんとうですか!」


 エドアルドが飛び上がらんばかりに身を乗り出した。ソフィアはくすりと笑みを浮かべると頷いた。


「ええ、兄から許可を得ることができましたら、エドアルド様に手紙を書きますね。連絡先を教えていただけますか」







 夜半課の鐘が鳴る頃、マルチェロとエドアルドは、ソフィアを連れてカフェを出た。エドアルドは家の近くまで送らせてほしいと申し出たが、ソフィアがそれを頑なに断ったので、仕方なく手前の水路でゴンドラを拾い彼女を乗せた。

 エドアルドは名残惜しそうに去っていく小舟を見送り、暗い運河に手を振り続けていた。


「ああ、彼女は女神だ……」


 ゴンドラが見えなくなってからエドアルドがぽつりと呟くと、マルチェロは低い声を出した。


「いや、怪しい女だ」


 友人の言葉にエドアルドは「はあ?」と眉を寄せてぐるっと振り向いた。


「なにを言ってるんだ、あんなに純粋で素直な女性は見たことがない」


「どうだか。兄の名も、滞在している屋敷の名も明かさない。何か隠しているに違いない。エド、お前はさっき連絡先を教えていたようだが大丈夫なのか? 騙されていやしないか心配になってきたぞ。財産をむしり取られでもしたら……」


「まったくマルチェロめ。そういう考えに至るお前の頭の方が心配になるよ、俺は。彼女に限ってそんなことはあり得ない! 第一に会ってくれと彼女に願い出たのは俺だ。兄君の名前を言わないのは……なにか事情があるんだろ。きっとそのうち教えてくれる」


 エドアルドがそう言い切ったのに、マルチェロは肩をすくめた。


「まあ私には関係ないことだ……ところでこの借りは必ず返してもらうからな、エド。よく覚えておけ」


 エドアルドは、嬉しそうに頷いた。


「もちろんだ、今日ほどお前に感謝したいと思ったことはない……いやあ、持つべきものは顔の腫れた友だな」


「うるさい、最後は余計だ」


 マルチェロのわめき声に、エドアルドは嬉しそうに笑い声を上げた。






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