棺、上昇中
現在の階数を示す液晶パネルは九十九階を示したまま止まっている。それでもなお、エレベーターは上昇を止めていない。むしろその速度を上げているように見える。
大堀と同乗する男は当初パニックとなり、何度もオペレーターに電話をかけたが、ボタンを押したところでザーッという雑音が聴こえるばかりで、意味をなす言葉がスピーカーから流れてくることはなかった。その他、この密室から出る方法を何通りか試した。最初は目の前の扉、つまり左右に開くエレベーターの出入口を無理やりに開けようとした。しかしながら、往々にしてエレベーターの扉などというものは取っ手など無く、表面は金属質でつるつるとしていたから、力をかけてこじ開けようとしても無駄であった。扉と扉の隙間に物を挟み込み、所謂てこの原理を用いて開けようと試みた。大堀のバッグの中に十五センチの物差しがあったものだからこれを取り出し、隙間に差し込んでみたものの力を加えた途端にポッキリと折れてしまった。その後、天井を押し開けることも試みた。同乗する男の肩に大堀が乗り、天井を押してみたはいいもののびくともしなかった。そもそも移動するエレベーターの扉なり天井なりを開けたところでどうしようもないことに途中で気づき、密室から脱出することは諦めた。
携帯していたスマホは電波圏外を示していた。電波が戻った時に備えて、大堀はSNSで知人に緊急事態である旨を送っておいた。あまり意味は無いだろうが、やらないよりは有益である。
「名前を言っておりませんでしたね」
部屋の隅に置かれていた非常用収納ボックスに格納されていた物を床に広げながら、今になって同乗する男が言ってきた。一通り狂乱して、充血した目で力なく笑いながら、彼は島田克己と名乗った。
「大堀一馬と言います」
必要以上の個人情報を大堀は与えなかったが、逆に島田の方はそれ以外に何もすることは無いとでもいうように必要以上の個人情報を話し始めた。二十八の時に結婚したが、一児を授かった後に離婚し、毎月養育費を支払っていること。最近課長に昇進したものの、部長にいびられて毎日仕事が大変だという愚痴。ボーナスを頭金にしてヴィンテージカーを購入したという自慢……一市民の、何ということはない些末な日々の紹介に、内心、大堀は辟易としながらも愛想よく頷いていた。その間、床に広げた非常用品の内容を確認した。非常食は一日分ほど。携帯トイレもついていたが、これは三回分しか無かった。
「大堀くんは、」頭を掻きながら島田は言った。「まだ学生かい? リクルートスーツだろう、それ。着慣れてない感じだ」
「まあ、そんなところです」
「時間は大丈夫かい? 今日は面接だったのだろう?」
「ええ。ですが緊急事態ですから。何がしか救助措置が取られることでしょう。あまり気になさらず」
島田がいくら気にしても事態が好転するべくもない――大堀の内心は目の前の島田という男に対してひどく冷笑的だった。こびへつらうような笑いをばかり顔の表面に浮かべる島田は、大堀からすれば自信の無い、翻って生命力の無い男のように見えた。社会人というものはつまり、権威に媚びる生き物なのだということは知識によって理解してはいたものの、こうして目の当たりにすると、まあ何と醜いものだろうか。そもそも大堀は島田にとっては若輩者で、社内の人間ですらないのにこの体たらくだ。とどのつまり、自分以外の他人に対し礼を失せぬよう努力せねばならない島田は、そうでもしない限り自身の矜持を保ちえない男なのだと、大堀は理解した。
「しかし、これは一体どうしたものでしょうね。今もなおこのエレベーターは上昇を続けている」
「そんなこと、物理的にありえないでしょう、」大袈裟なほど頭を振って、大堀は答えた。「エレベーターなどというものは引っ張り上げる機構があって初めて上昇する代物ですよ。宇宙から吊り上げているでもなし、上昇し続けるなんて考えるだけでも馬鹿らしいことおです」
「扉を開けてみると、外はもう宇宙なのかもしれませんよ」
「くだらない。であれば、その頃には私たちは窒息死するか高山病で気を失っていますよ。上昇しているように感じていますが、その実、同じところをグルグル回り続けているだけかもしれませんし、はたまた一種の錯覚に陥っているだけかもしれません」
大堀の島田に対する解釈は、はっきり言って大堀の人生経験の浅薄さに由来する傲慢であったと言えよう。島田は何も大堀などという若者に対して本気でへりくだっているわけではなく、あくまで年長者としてせめて緊張を緩和させようと努力していたのであって、そうした点に思い至らない辺りに大堀の人間性の限界があったと言えよう。
「失礼」
そう言うと、徐に島田は床に転がった携帯トイレの一つを取り、部屋の一隅で用を足し始めた。大堀はその様を、眉根を顰めて睨んだ。携帯トイレと言えど、貴重な非常用品だ。数に限りがあるのに加え、いつ救出されるか分からない。まだ閉じ込められてからそれほど時間も経っていないこのタイミングで消耗されてしまっては敵わない。
「すまないね。昨日が飲み会だったもので。まだ身体にアルコールが残っているのかも」
「一回でまとめて出してくださいね。いくらでも使えるわけではないのですから」
「君の言う通りだ。気をつけなくてはいけないね」