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上昇棺  作者: 笠原 白雨
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棺、上昇

 人というのは得てして、自らを支えている土台というものについて無自覚であることが往々にしてある。土台というものはつまり、環境であり、社会の下部構造であり、細かく分類すれば、上下水道然り、光熱然り、物流然り、社会保障然りを言う。これらは無条件に与えられるものでなく、発展を経、努力してそれらを確保せずともよくなったものであり、そのために先進人類の意識から除外された項目であるが故、時としてこれらに不調和が起こると、途端に社会生活に支障をもたらし、我ら先進人類の意識に浮上し、淀みなく流れていた個々人の社会的営みの系列を断絶せしめるものである。そうした事態に直面した先進人類の反応は様々で、或る者は激昂し、或る者は途方に暮れ、或る者は商機を見出すであろうし、また或る者は自己の保存のため狂奔するであろう。そうなるまで、多くの先進人類は自分が何かに支えられていたかという自覚さえ消失してしまっている。支えているものが無くなってしまうと、人々は自らを何によって支えねばならないかを知らず、自らの脚を以て立つを知らず、困惑をもって事態に直面せざるをえないだろう。

 大堀一馬もまた、その一人。

 東京生まれ東京育ちの彼は、今まで何不自由なく過ごしてきた口だ。世田谷区に居を構える一部上場企業勤務の親を持つ子として生まれ、品行方正、文武両道、親の期待を何一つ裏切ることなく成長し今に至る青年である。大学は一等の私大法学部に進学し、周囲から将来を渇望される麒麟児であった。就職活動が始まったものの、ほとんど出来レースと言えた。自身の所属するサークルのOBである先達の導きのもと、世界を股にかける一大商社への道が既に拓かれていた。トントン拍子に人生が進むものだから、その実、彼の増長はここに極まり、時折周囲の人間を侮蔑するような向きがあった。更に言えば、他人の喜ぶ行動や言動というものを理解していたので、口先では耳目をとろかす美辞麗句をスラスラと並び立て、裏では相手を嘲笑していた類の人物であった。彼と長く付き合えば分かる。だから、彼の女性関係は長続きしない。相手も馬鹿ではないから、大堀の語尾に滲む嘲弄の色や臭いを嫌が応にも感じ取ってしまう。そうなると、対等の関係など望むべくもない。相手から言い寄られはするも、ごく短期間で相手から大堀のもとを去る。そんなことが何べんか続いていた。大堀はそれを、相手の器量の狭さに由来するものと結論付けていた。

 結局、この種の人物は自分が非常に多くの些末な物の支えあって今そこに立っていられるのだという発想に至ることは稀である。こうした人種は貧困に喘ぐ人を見れば「勉強してこなかった報いだ」などと言ってそうした人々を一蹴するであろう。実際、彼は勉強してこなかったわけではないし、それ相応の努力を払ってきた人間ではあるものの、それは単に自己に帰するべきと信じて疑わず、その努力を払うことのできた家庭環境、経済環境、また更に言えば、努力を払う時間を創造するのに貢献した社会インフラや自己の周囲に敷設されたサービスを享受できる状況については考慮の外に置かれていた。結局のところ、そうした一種の盲目とも言うべき病弊は、肥大化した自意識として周囲の人々には認知され、それが所謂都市型の新人類、より俗っぽく表現すれば「自信家」を生む心理的な苗床と言えよう。こうした唾棄すべき性質は、結局のところ外科的なショックによってのみ修正されうるもので、自己修復などということは期待して益の無いところであろう。

 どうやら私ばかり話し過ぎたようだ。

 リクルートスーツ姿の彼は、いつもの大股開きの歩き方で風を切って進んでいた。やや湿り気と冷気を帯びた外気は、この後訪れるであろう激しい夕立を予感させた。オフィスビルの入り口で立ち止まる。一拍置いて自動ドアが開くと、背筋を伸ばし、自信満々に歩を進める。エレベーターの待機列に並ぶと、カツカツという靴底の音に驚いたのか、目の前に先に並んでいた男がこちらを振り返った。ひどく青白い顔をした不健康そうなその男は、その不躾な視線を、へっ、へっ、という喘ぐような呼吸で誤魔化すと、そのまま大堀から視線を外し、前に向き直った。小者染みたその態度を、大堀はさして気に留めなかった。そんな暇は無かったし、そんな性質も持ち合わせていなかったためでもある。

 エレベーターが到着するランプが点灯し、男が先に入り、続いて大堀が乗り込んだ。その他に、このエレベーターに乗る者はいなかった。操作パネルの前に陣取ったその男は、大堀を向いて、また先ほど上っ面に浮かべたような愛想笑いを投げかけた。

「何階です?」

「二十階です」

 親切なその男は、大堀の希望の階を押した。すぐさまエレベーターは上昇を始めた。高層ビル用に設計されたエレベーターは、各階を飛び越し飛び越し、目的とする階へ勢いよく進む。

 しかし、ここでおかしなことが起きた。十八階、十九階に至ってもエレベーターは上昇するスピードを落とすことなく、あろうことか、目的とする二十階を過ぎて、なお上昇を続けたのだ。

「これは、どうしたことかな」

 さすがに不穏を感じて、二人は互いの顔を見合った。そうこうしている間にもエレベーターは二十一階、二十二階と上昇を続けている。

「あなた、二十階のボタンを押しましたよね」

 大堀が問うと、男は焦ったように二十階のボタンを連打した。しかし、元々からして二十階のボタンはランプが点灯していたことだし、押していないということはあるまい。男は途方に暮れて頭を掻いていたが、続いて大堀は言った。

「エレベーターの故障でしょう。緊急停止ボタンを押してください」

 男はパネル下に設置されていたカバーを外し、その奥に鎮座する赤いボタンを押した。しかしながら、エレベーターは上昇し続けており、止まる気配を見せない。液晶に示された現在地を示す文字は三十六階、三十七階、三十八階、……と数値を大きくしていく。

「おかしなことだ」

「そんなこと言ってないで。こんなの、故障しかないでしょう。オペレーターに電話を繋いで、どうにかこのエレベーターを止めてもらいましょう」

「いや、そうではないんです。このビル、最上階は三十五階の筈なんです」


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