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羊の見る夢

作者: Crawyaw1

「羊が見つからないの。」

 私が病室のベッドシーツを整えているとき、まるで少女が言うように悲しそうな声でおばあさんは言った。私は答えた。

「羊、見つからないんですか?」

 原則として患者の言うことが現実とは異なっていても私たち看護師はそれを否定してはならない。患者たちの世界では確かにそれが真実なのだから。おばあさんは私の問いかけに大きく頷いて本当に困った顔で呟いた。

「そうなのよ。いつも私の傍にいたのにいなくなったの。」

おばあさんは認知症の診断を下されてはいたが、顔つきはまだまだ若々しかった。

「どこかで草でも食べているのかもしれませんよ。そのうち、ひょっこり帰ってきますよ。」

私はそう言っておばあさんの横になるベッドに布団を掛ける。

「そのうちじゃ困るのよ。あの子がいないと私は眠れないの。」

 不安げにおばあさんは私を見つめる。これまでの経験から、恐らく今、おばあさんが言ったことは事実だろうと私は推測した。つまり、羊がいるかどうかという事実は別として、おばあさんの中で羊が帰ってきたという展開にならないことには、彼女が今夜眠れないことは事実であるだろうという意味だ。私はどうにかしておばあさんの羊を取り戻す方法がないか探ろうと試みた。

「いつもは羊、どこにいるんですか。」

「彼女は広い高原にたった一匹いるの。」

「え、一匹しかいないんですか。眠るときに数える為にたくさんいるのでは?」

 私がそう問うと、おばあさんは拗ねたように言った。

「私は羊を数えたりなんてしないわ。だって大事なのは私の羊一匹だけですもの。」

 このまま会話が途切れてはまずいと判断した私はすぐに修正を図る。

「それは失礼なことを申しました。ごめんなさい。」

 まず謝罪し、その後に繋げる。

「貴方がそれほどまでに大事にしているということは、きっと、それはとても素晴らしい羊なのだと思います。どんな羊なのか私に教えてくださいますか?」

 そう尋ねるとおばあさんは穏和な表情に戻り、微笑を称えて彼女の羊について語り始めた。どうやらうまくいったようだ。

「白くて柔らかな毛をした、とても美しい羊よ。何より瞳がいいの。黒く澄んでいて知性の輝きを放っているわ。私が跪いて手を差し出すと近付いてきて背を向けるのよ。撫でてほしいのね、可愛いでしょう?」

「えぇ、そうですね。」

「そして私はその柔らかな毛に触れていると意識が溶けるように薄れていくの。そして、自分でも気付かない内に眠りの中に入っているのよ。」

「なるほど、動物の毛は気持ち良いですものね。」

 私は相槌を打ちながら、さりげなくおばあさんの部屋を見渡してどこかに柔らかなものがないか探していた。その中に彼女の言う「羊」に該当するものがあるかもしれないと考えたからだ。しかし、おばあさんは私の視線に気付いてしまった。

「貴方、ひょっとして、羊を探してるのね?残念だけれど、そんなところに私の羊はいないわ。」

 おまけに考えまで見透かされてしまったようだ。しかし、私の行動を指摘するだけの観察力があるということは、話をしている内におばあさんが、彼女だけの世界からこちらの現実へと戻ってきているということの証拠だ。

「出来ることなら貴方にも逢わせてあげたいけれど、私の羊は私の心の中にしかいないのよ。」

 おばあさんはそう言って自分の胸を優しく叩いた。

「では、貴方の心の中には高原が広がっているのですか?」

「そうよ。山岳に囲まれた芝の生い茂る私の高原。羊が暮らす大きな柵の隣には小さな丸太小屋。貴方も暇があれば今度行って羊とその景色を見て御覧なさい。きっと素晴らしい体験になるから。」

「えぇ、是非。」

 逢うことが出来ないと言われた傍からその羊を見に行くことを勧められた。患者との会話はただの雑談に見えても一瞬たりとも気を抜くことのできない真剣勝負だ。矛盾を逐一指摘する訳にはいかない。患者たちの世界の真実と我々の現実とを瞬時に選り分ける力が私達の仕事には度々求められる。

「ふふ、楽しみね。」

 幸せそうにおばあさんは笑った。どうやら気持ちが落ち着いてきたようだ。思わず私も一息つく。

「では、私は次の患者さんのお部屋に行きますね。何かあったらすぐにお呼びください。」

「えぇ、それじゃあね。私の羊によろしく。」

 おばあさんは楽しげに手を振って扉を閉める私に別れを告げた。私も笑って手を振り返す。

「それではまた明日。おやすみなさい。」

 私はこの件はこれで解決したと思っていた。しかし、彼女の羊はやはりあの夜帰ってこなかったのだ。その日だけではない。それから一週間、羊は姿を現さなかった。その間おばあさんは一睡もすることが出来なかった。

 朝のカンファレンスでも彼女のケアが議題に上がるようになった。

「xxx号室の患者さん、容態が急激に悪化しているね。何があった?」

 担当の医師が看護師たちに尋ねる。

「ここ数日、まったく睡眠が取れていない状態です。お昼寝もされていません。食事はしっかり食べていますが、この調子では胃腸が弱ってそれもままならなくなるかもしれませんね。」

「とにかく血色がよくありません。話しかけると笑ってくださるのですが、見るからに顔色が悪くて私たちから見ていてもとても辛そうです。」

 医師はペンを逆さに持ちカルテをトントンと叩いた。

「おかしいな。彼女はこの病棟でも比較的症状の安定した患者さんだったろう。何が原因かは分からないのか?」

 おずおずと若手の看護師が手を挙げる。

「あの、原因と呼べるか分からないのですが…」

「なんだ、言ってみなさい。」

「患者さんが『羊が見つからない。』と仰るのです。」

「羊?」

 私を含めそれを聞いた看護師たちがざわついた。

「そういえば何か言っていた覚えがあるわ。羊がどうのって。」

「私も聞いたわ、それ。」

「羊って何かしら。」

 医師が再度看護師たちに尋ねる。

「患者さんの言う『羊』について何か詳細を知っている者はこの中にいるか?」

皆、顔を見合わせて首を傾げる。どうやら羊の話を聞いたのは自分だけのようだった。私は手を挙げて語りだす。

「患者さんは羊の白くて柔らかい毛を撫でていると、意識が薄れて眠りの中に誘われるのだと仰っていました。なので、部屋の中に何かタオルや毛布のような羊に該当そうな品物を探したのですが、それを見た患者さんは羊は自分の心の中にしかいないと言われて…」

「つまり、羊は彼女の想像の産物だということか?」

「そういうことになると思います…。」

 医師は机にペンを投げた。

「参ったな、一番厄介なパターンじゃないか。」

 だが、医師はすぐに気を取り直しペンを拾った。

「しかし、聞いていると不思議な話だ。認知症が進行すると患者の空想は補強される傾向にある。それが一般的だ。」

「ええ。」

「しかし、今回のケースでは一般の症例と真逆を行っている。複数の看護師が『羊』を語る患者を確認している。ということはつまり、羊は彼女にとって日常的な空想だ。これは症状だと言っていい。症状であるはずの彼女の空想が失われつつあるわけだ。これは何を意味している?」

「普通に考えれば症状が緩和されている良い傾向だと言っていいはずですが…。」

「そうだ。単に空想が解消されただけならば、これは何の憂いもない吉報だ。」

「しかし、『羊』を喪ったことで彼女の容態は著しく悪化しています。」

「そうだ、そこなんだよ。つまりこの症状は彼女を安定させる何らかの役割を持っていたことになる。」

「どうすればよいのでしょうか。」

 看護師の一人が途方に暮れたように呟く。

「今は対症療法で睡眠薬を処方しているが、長く続ければ患者の身体に負担が掛かり過ぎる。この状態がこのまま慢性的に続けば衰弱死もあり得る。」

「そんな…。」

「いかなるときも我々は最悪のシナリオを想定しておくべきだ。そしてそうならない為に全力を尽くそう。」

「この患者さんの為に我々に出来ることは何でしょうか。」

「考えるべきは根本的な原因を取り除くことだ。」

「でもそれってつまり、患者さんの『羊』を見つけるってことですよね?」

「しかも彼女の心の中にしかいない羊…。」

「…」

 全員が黙り込んでしまった。一体何をどう努力すればいいというのか。誰も何も状況を打開するだけの考えを打ち出すことは出来なかった。

 悪い流れを断ち切るようにカルテを叩いて医師が言う。

「とにかく今日はここまでにしよう。必ず何か方法が見つかるはずだ。」

 その一声を以て会議は解散され、職員たちはそれぞれの仕事に就いた。看護師の中の一人が会議室を出る前に私に声を掛けてくる。

「頑張ってね。きっと大丈夫よ。」

 彼女が私を励ました理由はその日も私がxxx号室の患者さんの担当だったからだ。

 私はおばあさんの病室まで赴き扉を叩く。返事がない。

「失礼しますよ?」

「…あら、いらっしゃい。」

 扉が開いたことで初めておばあさんは私の存在に気が付いたようだった。集中力が著しく低下している。

「なんだか、最近ぼーっとしてしまうことが多くてねぇ。どうしちゃったのかしら。」

 そう呟きながら首を傾げる彼女の眼の下には隈が出来、頬も見るからにやつれていた。心なしか言葉の発音も拙い。 私は患者が動揺しないよう一切反応を見せなかった。

「お薬も出てますからじきに良くなりますよ。心配なさらないでくださいね。」

「勿論、貴方たちには本当にお世話になってるし、お医者様のことも信頼してるんだけど…」

 私はこのとき次におばあさんが何を口にするか分かる気がした。

「やっぱり羊がいないと寂しいわ。」

 予感は当たった。これはチャンスだ。出来るだけ羊に関する情報を引き出すことが彼女の快方に向かう為に必要なのだから。

「羊、まだ見つかりませんか?」

 おばあさんは大きく頷いた。

「私、あれから一睡もしてないのよ。自分の枕じゃないと寝れない人っているでしょう?それと同じなの。羊がいなければ私は眠ることが出来ないのよ。物心ついた頃からそうだった。」

「貴方と羊はいつから一緒なのですか。」

「さっき言った通りよ。気付いたときにはもう傍にいたわ。」

 私はこれが彼女の世界での過去なのか、現実における記憶なのか判断しかねた。彼女は続ける。

「眠れない夜ってどうしてもあれこれ考えちゃうでしょう。」

「ええ、分かります。」

「それで私、羊のことを考えたのよ。どうして私の下を去ってしまったのか。今までにないくらい私の大事な羊のことを想ったの。」

「そうだったんですか。考えて何か分かったことはありましたか。」

「えぇ、考えて考えて、私ひとつ気が付いたの。」

「何です?」

「私の羊は私の下を去った訳ではないのよ。」

「ではどこに?」

「今も私の心の中にいるわ。これは確かなことよ。」

「そうですか。では、どうして姿を見せてくれないのでしょう。」

「きっと私の羊は今、眠っているのよ。」

「え?」

「だからね、私が眠るときはいつも羊が傍にいてくれていたでしょう。ということはその間、羊はずっと私をその柔らかな毛で抱いて起きていてくれた訳でしょう。きっとこれまでは私が眠る時間は羊が起きて、羊が眠る時間は私が起きていたのね。羊がいるのは地球の裏側ですもの。こう考えれば辻褄が合うのだわ。」

「地球の裏側?」

「ええ、そうよ。そこに私の羊はいるの。貴方には言ってなかったかしら?」

 羊がいるのは貴方の心の中ではなかったのですか、という想いを胸に仕舞いつつ私は返事をする。

「初耳です。そんな遠いところにいたとは驚きです。」

「ええ、とても遠くなの。だから眠っている間しか逢えないのよ。」

 寂しそうな表情でおばあさんは俯いた。ポツリポツリと呟く。

「とにかく、私と羊の眠りの周期がズレてきているのよ。きっと私も天に召されるときが近いのね。」

「そんなことはありませんよ。すぐに元気になられます。」

「いや、このことに関してはもうどうだっていいのよ。私はもう十分長く生きたわ。ただ私が亡くなれば羊の面倒を見る人がいなくなる。それだけが心残りよ。」

 おばあさんは真剣な眼差しで私を見た。

「もし私に何かあったら貴方に私の羊を任せてもいいかしら?」

 私もまたおばあさんをまっすぐに見つめ返した。これは簡単に「はい」と言っていい問題ではない。羊がいるかどうかという事実はともかく彼女の世界の中でそれは確かに存在する命なのだ。無碍に扱うことは断じて許されない。しかも彼女はそれが自分の命よりも遥かに自分にとって大切なものだと語っている。仮にこれが現実の出来事だったとして私には責任を持つ覚悟があるかどうか。だが考える前に私は答えを出していた。

「分かりました、私が後を引き継ぎます。でもだからと言って貴方がいなくなっていい訳では決してありませんからね。今のようなことはどうかあまり言わないでください。ほかの看護師さんたちにも内緒ですよ?」

私はそう言って唇に人差し指を置いた。おばあさんも同じようにする。

「ふふ、いいわ、秘密の約束ね。こんな約束をするのはいつ以来かしら…。」

 私はいつもと同じようにベッドへおばあさんを寝かせ布団を掛ける。

「何かありましたらいつでも呼んでください。次の患者さんのところへ参りますので。それでは失礼します。」

「ふふ、さよなら。私、貴方のこと好きよ。」

「私もです。」

 本心からの言葉だった。私は個人としてこの患者さんを好ましいと思っていた。だから羊を引き受ける頼みも思わず聞いてしまったのだろう。

「ふふ、じゃあ私たち両想いね。」

 どこまでもおばあさんは少女のように愛らしい言葉を好んだ。

「そうですね。」

 私は思わず笑ってしまった。

「さよなら、お元気で。」

 おばあさんはやはり笑顔で私に手を振った。彼女に別れを告げ、私は病室を後にした。


「お疲れ様でした。」

「お疲れ様。」

 夕方、陽が赤く空を染め上げ始めた頃、担当の患者すべてを巡回し終えた。今日の仕事はここまで。私はロッカーで白衣から私服に着替え、帰路に着こうと駐車場に向かった。車の扉の鍵を回し、運転席に座る。その瞬間、疲れがどっと押し寄せてきた。このところ夜勤が続いたせいだろう。それに車の中に入ったからだ。自分だけの空間だという感じがして、私は車の中にいるのが昔から好きだった。連勤であることを鑑みてもこのときの疲れはいつになく重く、精神的にも気怠かった。こんな状態で事故でも起こしたら大変だ。私はシートを大きく傾け、少しの間、仮眠を取ることにした。目を瞑ると瞬く間に眠りの中へ誘われていった。

 目を開いた。私は草の生い茂る大地の上に立っていた。周囲はアルプスと呼べるような気高い山岳に囲まれている。呼吸が苦しい。酸素が薄いようだ。周囲を見渡す。丸太小屋が建っている。どうしてかそのとき自分の置かれている状況に私は何の疑問も抱かなかった。ただ一言、私は呟いた。

「羊がいない。」

 その瞬間、大地がけたたましい音を立て激しく揺れはじめた。私は草に必死にしがみついた。加えて天から轟音が鳴り響く。雷でも落ちたのだろうか。しかし、耳を澄ますとやがてそれは人の言葉となって意味を成し、眠る私の脳に呼び掛けはじめた。

「―さん!櫃寺さん!」

 私は目を醒ました。瞼を開くと周囲は真っ暗になっていた。腕時計に目を遣る。少しと言ったのに数時間も眠ってしまっていた。車の外にはなぜか必死で窓を叩き、私の名前を呼び続ける同僚の看護師がいた。夢の中で起きた地震と雷の轟音は彼女がもたらしたものだった。

私はパワーウィンドウを開き、まだまどろみの中にある頭と眠気眼で彼女に問うた。

「一体どうしたっていうのよ。」

「大変よ。xxx号室の患者さんの容態が急変したわ。意識不明の昏睡状態よ。今、集中治療室で処置を受けているわ。」

「え?」

 彼女の言葉の衝撃は私の眠気を吹き飛ばすには十分な威力を持っていた。私はそれと同時に夢の中の景色を思い出していた。

「羊がいない…」

「何か言った?」

「いえ、なんでもないわ。急ぎましょう。」

 私は車を出て病院へと引き返した。病院に入ると担当の医師が私たち二人を出迎えた。

「ああ、君か。駐車場に車が残っているのが見えたからまさかと思ったが、本当に帰っていなかったとはな。」

「そんなことより、xxx号室の患者さんはどうなったんです。」

「聞いていないのか、原因不明の昏睡、極めて危険な状態と判断された。即、集中治療室行きだ。残念だが、もう私たちにどうにか出来る仕事の範囲ではなくなってしまった。」

「そんな…。」

「だが、意識を失う前に彼女は繰り返し君の名前を呼んでいたそうだよ。何か伝えたいことがある様子だったと看護師が言っている。誰が聞いてもその意味を理解することは出来なかったが。」

「彼女は何と仰ったんですか?」

 医師はポケットからメモ帳を取り出し、文章を読み上げる。

「『―さん。私が羊の夢を見るように羊もまた私の夢を見るの。今度は私の方から羊に逢いに行ってくる。それだけよ。だから心配しないで。』…だそうだ。」

「羊の見る夢…」

 私はおばあさんの残した言葉を繰り返し頭の中で反芻した。

「どうだ、この意味は分かるか?」

 私は黙って首を横に振った。

「そうか、無理もない。ひょっとしたらと思って伝えたかっただけなんだ。大事なことだったらいけないしな。今日はもう君は上がりなさい。後は私と夜勤組が何とかしておくから。」

「じゃあね。」

 そう言って医師と私を呼びに来た同僚は私を残し、去って行った。私は頭が混乱したまま駐車場に戻り、車に乗って帰路に着いた。道中の記憶が殆どない。どうにか家まで辿り着き私はベッドに突っ伏した。頭が空っぽになる。不意におばあさんの言葉を思い出す。


 ―貴方に私の羊を任せてもいいかしら?


 彼女はその言葉の通りにしたのだ。私はそのように直感した。それと同時にある予感もあった。そしてその予感は見事に的中した。予想通り、その夜、私はほとんど眠ることが出来なかった。その次の日も、また次の日も。

やはり患者の世界が一つの真実であるという私の考えは間違っていなかった。そしてその世界で安請け合いの約束なんてするものじゃないということもよく理解した。私はこの日を境にある一人の患者の羊を預かってしまった。


 私はおばあさんが昏睡状態に陥ったその日から彼女の意識と引き換えるように睡眠障害に掛かってしまった。医者にも行き、薬も飲んだが全く効き目がない。そして変わったことがもうひとつ。私は眠れぬ夜に、一人、心の奥でとある風景を夢想するようになった。

険しい山岳に囲まれた高原、大きく芝生を囲んだ柵、丸太小屋、草の匂い、吹き抜ける風、木々のざわめき。しばしば、そのすべてが今、自分の目の前にあるかのように感じられた。ただその中で彼女の羊の白く柔らかい毛の温もりだけはどうしても知ることが出来なかった。度々湧きあがる夢想の中であの羊だけはどうしてもはっきりと像を結ぶことはなく、雲の様に朧げに浮かんでは何処かへと消えていくのだった。

眠れずにもやがかかったようにはっきりしない頭で考えている。箇条書きのように一人部屋の中で呟く。

「私はあのおばあさんから羊を任された。」

「では、私がすべきことはなに?」

 その答えはカンファレンスで既に出ていた通りだと思った。

「彼女の羊を見つけること。」

 おばあさんが言うには彼女は羊の夢を見る。そして羊も彼女の夢を見る。衰弱したおばあさんを回復させるには羊に彼女の下へ帰って貰わねばならないだろう。そして夢の中で彼女と羊は逢う。互いに寝ている間、互いの夢を見る。今、羊は私の心の中にいる。それには確信がある。そして私は今眠れない。つまり羊は私の夢を見ていることになる。

私が回復する為に必要なことは、とにかく羊を眠りから目覚めさせることだろう。そして羊が目覚めればおばあさんの容態も快方に向かうに違いない。私は出来るだけ今の状況を前向きに捉えることにした。私は看護師としてこれ以上ない患者を助ける機会を得たのだ。私に出来ることを精一杯しよう。

 私は有り余っていた有給をすべて使い果たす勢いで休暇を申請した。私の体調の悪化を知っていた職場の同僚たちはよく休んで早く元気になるようにと言ってくれた。理解のある良い職場で本当に良かった。だが、彼女たちの言うとおりにのんびり休んでいる暇はない。この休暇の間に私は彼女の、或いは私の羊を見つけなければならないのだから。

私はメモ帳を取り出した。これを羊探しの手掛かりとなる唯一の希望である。休暇を取る前、職員に頼んであのおばあさんと会話したこと、得た情報を思い出してもらい、片端から書き付けたもの。私はしばらくの間、おばあさんのお世話をしてきたが、羊の話を除けばほとんど私的なことを話したことはなかった。まずはこの情報を繋いで、彼女の人物像をより明確に浮かび上がらせることが羊に至る最短の道ではないかと考えたのだ。私はメモ帳の1ページ目をめくる。


 メモ1:おばあさんは入院前、行きつけの喫茶店がありそこに毎日のように通っていた。


 まずはこの喫茶店に向かうことにしよう。

 この話を聞いた看護婦は大変なお茶好きであちこち喫茶店を巡るのが趣味だそうだ。自分のことを話すうち、おばあさんも自分の行きつけのお店について話したのだという。彼女は付近の喫茶店をほぼ知り尽くしていたので、おばあさんの大まかな話でもそれがどこの店か特定することが出来た。すごい特技だと感心する。しかし、お陰で本当に助かった。なにせ時間がない分、手間は省けるに越したことはない。

 大通りを抜け、店内に入ると珈琲を挽いた香ばしい薫りが漂ってくる。朝早くに家を出たのでまだ殆ど他に客はいない。空いているカウンター席を見つけて座ると、店主らしき男の人が声を掛けてくる。

「いらっしゃいませ。」

 私はメニューを開いて注文を見繕う。

「この特製ブレンドというのをひとつお願いします。」

「かしこまりました。」

「それとひとつお尋ねしたいのですが…」

「はい、なんでしょうか?」

「ここに昔毎日通っていたおばあさんのことをご存じではないですか?」

 私はおばあさんの容姿や特徴について店主に説明しようとした。しかし、その前に彼は膝を叩いて大きな反応を示した。

「心当たりがおありですか。」

「そりゃもちろん。あんなに美味しそうにうちの珈琲を飲んでいくお客さんもそういませんからね。カウンター越しによく話もしましたし。いつもニコニコしている優しそうな方でしたね。それであのおばあさんがどうしたんです?あの方、ある日を境に急に姿を見せなくなったのでどうしたんだろうと、ずっと気にしていたんですが。」

「実は私は看護師をしていまして…。それであのおばあさんと知り合っているのです。職業上、患者さんの個人情報を明かすことはできないものですから、どうかこれでお察しください。」

 店主ははじめに驚いたような表情を見せ、その後、瞳に悲しみの色を映した。

「そうですか、お元気そうに見えたのですが。年齢を重ねると何かしらの問題が浮かび上がるものですものね。うちのお袋も入院とまではいかないんですが、随分腰が悪くて毎日のように病院に通っていますよ。近付くと匂いが分かるくらいたくさん湿布貼ってるんです。なんか逆に肌に悪いんじゃないかってくらい。」

 店主はお湯を沸かしながら笑って自分の母親について語った。

「他におばあさんのことについて何か覚えていることはありますか?彼女と話したこととか。」

「話は他愛もないお喋りだったけど、ひとつとても印象深いものが残っていますよ。」

 そう言って、店主は私の背後の壁を指差した。そこには額に入れられた一枚の絵が飾られていた。私はそれを見て思わず言葉を失った。店主が続ける。

「ある日、何か風呂敷に四角いものを包んで持ってきたと思ったら『これを貴方のお店に飾って頂戴』って言いだしたんですよ。『この素晴らしいお店にこの素晴らしい絵を飾れば私はここでもっと幸せな時間を過ごせるようになるわ。』と言って。普通、そんなもの受け取らないんですが、その絵が彼女の言う通りとても素敵だったものですから、僕も気に入ってしまって。それで譲り受けて以来、飾っているんですよ。ほかのお客様にも好評です。…どうかなさいましたか?」

 店主にそう問われて私は我に返った。

「いえ、あまり良い絵だったものですからつい見とれてしまって。」

 ついその場しのぎに口走った言葉だったが、店主はそれを聞いて嬉しそうだった。

「そうでしょう。お客様の中に絵画に詳しい方がたまたまいらっしゃってその方も大層この絵を褒めておられました。名のない画家だが、塗りが素晴らしいと言って。」

「えぇ、本当に空気感があるというか、目の前にその景色が広がっているような感覚がありますね。」

「まったく同感です。特にあの白い羊なんかいかにも毛が柔らかそうで現実にいたら触ってみたいとか思いながら日々、商売してるんですよ。」

 店主はそう言って顔を綻ばせた。彼の言う通り、その絵の中には羊が描かれていた。紛れもないあの羊だった。私は自分の夢の中ではっきりとその姿を見た訳ではないけれど、そこに描かれている高原、丸太小屋、柵、木々、背景のすべてがいつも見るものと全く同じだった。絵の中の羊をみていると本来私の夢の中にあるべきものがそこに確かにいるという実感が心の底から湧いてくる。私は店主に問うた。

「あの絵はおばあさんが描かれたんですか?」

「いや、たぶん違うんじゃないんですかね。あの羊の絵を持ってきたとき『私が子供の頃に受け取った大事な絵だ。』と仰っていましたから。」

「え、おばあさんがそうおっしゃったんですか?」

「ええ、そうですよ。」

 私は朧げに考えていた。あの絵を描いた人間は間違いなく羊を見た人間だ。おばあさんから話を聞いた想像のみであれだけ忠実に夢の光景を再現することは不可能だ。ならばあの羊はこの現実に実在するのだろうか。或いは…

 私が逡巡していると、店主の唸る声が聞こえてくる。

「しかし、あんなに上手な絵を描くのに無名とは。おばあさんが子供の頃と言ったら戦争をしている真っ最中でしたから。きっと戦いに駆り出されてその才能を世に発揮することなく散っていった人たちが数えきれない程いたんでしょうね。」

 私はしみじみ語る店主の話に耳を傾けつつも自分の大事なメモ帳に目を通していた。あの絵と店主の語る事柄から見えてくるものがあるような気がしたからだ。


 メモ2:おばあさんは幼少期のことを話したがらない。

 メモ3:おばあさんには外国の血が入っている。

 メモ4;おばあさんは戦時中の話をしない。


 メモ2に関して。おばあさんは幼少期のことを話したがらない。おばあさんは患者さんの中でもおしゃべりが好きな部類に入るなのに、子供の頃の話になると口を閉ざし、さり気なく別の話題にすり替えてしまうことがあった。どの看護師が尋ねても話そうとしなかった。

 メモ3に関して。おばあさんには外国の血が入っている。これは誰に尋ねるまでもなく彼女の容姿を見れば明らかなことだった。その顔立ち、瞳と髪の色。ヨーロッパ系の特徴が随所に見られた。しかしそのことを話題に出すとおばあさんは不機嫌になった。自分は生粋の日本人だと言い、決してその事実を認めることがなかった。

 メモ4に関して。おばあさんは戦時中の話をしない。「私が戦時中いかに苦労したか、今の若い人は本当に恵まれている。貴方はそのことがまったくわかっていない」という類の女性患者からのお説教、「戦時中、いかにして俺が危機を潜り抜け、家族を守ってきたか。いいか、よく聞け。」という男性患者の語る武勇伝。

 これらはいわば彼ら患者の持ちネタであり、欠かすことのできない鉄板、伝統芸能、お家芸のようなものである。これら日常的に或いは慢性的に繰り返される同じ話をいかにしてうまく相槌を打ちながら綺麗に聞き流すか。この技術如何によって看護師の精神衛生は大きく左右される。

 おばあさんは看護師の間で、楽、或いは、好ましい、と表現される患者だった。実際、私自身もそうだった。その理由のひとつがこれら戦時中の話をひたすらに繰り返すという一般患者の定石に彼女が当てはまらなかったからだ。

最初はあまり暗い話題を好まない明るい性格なのかと思っていたが、今から思えば彼女は他の患者と比べて浮世めいているといえばいいのか、彼らと同じ時代を過ごしたとは思えないどこか平和な穏やかさがあった。以上を以て、私はあることを推測した。


 ―おばあさんは幼少期、日本ではない異国の地で暮らしていたのではないか?

 

 この考えには確かな手応えがあった。そう考えればすべて辻褄が合うのだ。


 メモ5:おばあさんは食事の前、必ず十字を切ってお祈りをする。


 食事に関して独自のルールを持つ患者さんは多い。おばあさんの場合はお祈りがそうだった。彼女はキリスト教徒ないし、その習慣が身に付いていた。これも私の仮説を裏付けする。というか、よくよく考えれば分かることだった。戦時中、英語を使うことさえ禁止された我が国で異教の信仰などしていたらただでは済まないだろう。彼女はやはり何らかの理由で戦後、外国から日本に訪れたのだ。彼女はどうやって日本に辿り着いたのだろう。


 メモ6:おばあさんは揺り椅子が好き。


 これは何の期待もなくただ列挙したおばあさんの持つ嗜好のひとつだった。まだ羊がいなくなる前、おばあさんはよく揺り椅子の上でうたたねをしていた。看護師たちの間で一時、話題となったのはおばあさんがそれはもう結構な勢いで椅子を揺らすということだ。元気なのは良いが、あんまり勢いがあるのでそのまま転んだりしないかと心配し、揺り椅子から彼女を離そうかという議題があがったことがあるほどだ。

メモ帳のページの端に「これに乗っていると安心するのよ。昔を思い出すようで。」という文章があり、赤線が引いてある。これはおばあさんが口にした自身の過去についての貴重な情報だ。私の想像は飛躍する。安心するということは自分のよく慣れた好ましい環境に身を置くということだ。自分の幼少期を思い出すと、私は昔から押し入れの中や暗くて狭い場所に隠れるのが好きだった。今、車の中にいると安心するのはその名残かもしれない。これを踏まえると、常に激しく揺られているという環境が彼女の幼少期の当然の環境だったのではないか。だから今もその状態に身を置くと安心する。

長距離を移動する常に激しく揺れる乗り物、それは船だ。おばあさんは船で日本を訪れたに違いない。

私は更にメモ帳のページをめくる。これまでの仮定が正しければ世界大戦を経験していないヨーロッパ圏の国家はそう多くない。ある程度絞り込むことが出来るはずだ。


 メモ7:おばあさんはヨーグルトとお肉がきらい


 メモ6と同じくおばあさんの嗜好のひとつ。おばあさんはこの二つが食事に出ると決して口をつけなかった。ヨーグルトは「甘すぎる」と言い、肉は「柔らかすぎる」と言った。病院食に注文を付ける患者さんは数多くいらっしゃる。しかし、おばあさんの言い分はこれまた一般的な要望とはむしろ真逆のものだった。「甘い」ことと「柔らかい」ことは基本的に好まれる要素だ。

私は少し思い違いをしていたかもしれない。おばあさんはこれらの食べ物が嫌いとは一言も述べていない。彼女は味付けに対して不平を言っていたのだ。つまり、これを逆にすればいい。「甘くない」ヨーグルトなら好ましい。「かため」のお肉なら好ましい。ひょっとすると、おばあさんは故郷におけるこの二つの味付けが好きだからこそ、日本風の味付けが気に食わなかったのではないか。

 私はそう推測すると同時にテレビで見たあるエピソードを思い出していた。北欧出身の力士がパーティに招かれ、最上級のステーキをご馳走になったとき、口に入れた瞬間、吐き出して「不味い」と言ってしまったそうだ。彼の故郷では噛み応えのある引き締まったお肉ほど上質で好ましいとされていた。そして彼の出身はヨーグルトの名産地でもある。私は一つの答えを導きだした。


 ―ブルガリア。


 おばあさんの故郷はブルガリアだ。間違いない。あの絵を見れて良かった。この喫茶店に来たのは正解だった。

「はい、こちら特製ブレンドになります。」

 私の考えがまとまったところで珈琲が出来上がった。一杯口に付ける。形容しがたい、ほど良い苦みが口の中に広がった。その瞬間、私はまた機会があれば必ずこのお店に来ようと決心をした。


 私は喫茶店に向かった日の三日後には荷物を纏め、飛行機を予約し、空港で便が来るのを待っていた。体調は絶不調で本来なら旅行などせず大人しく療養しているべきだが、これは一般的な不眠ではない。羊が深く関わっているのだ。あれからやはり眠ることはできていない。処方された睡眠薬でだましだましやり過ごしているが、このままでは限界が来るだろう。おばあさんだけではなく私まで倒れかねない。それならば、動ける間に動かなければ。四の五の言っている暇はないのだ。おばあさんの故郷がブルガリアだという推理と、店主に許可を得て撮影させて頂いた喫茶店の羊の絵以外に情報はないがとにかくやるしかない。私は日常会話程度の簡単な英語なら出来る。この絵の景色を見たことがないか聞いて回るしかないだろう。

 フランクフルトで乗り継ぎをして所要時間、実に約19時間。眠ってやり過ごすことの出来ない歯痒さに耐えながら私は一日掛けてブルガリアの首都にあるソフィア空港に辿り着いた。

 荷物を受け取り、空港を出た。さあ、どうしようかと息巻いた瞬間、眩暈がした。私はその場に座りこんでしまう。やはり目標に近付いているのだ、という直感があった。距離が縮んだ分、羊との呼応が高まっている。朦朧とした意識の中でいつもより鮮明に高原の景色が見える。私は羊の為の柵の向こうにある丸太小屋をいつもよりよく観察できた。これまで気付かなかったが、看板が建てられている。そこには確かに住所が記されていた。しめたものだと思った私は覚束ない動きでペンとメモ帳を手に取った。ブルガリア語の箇所は読めないので看板に書かれた文字を、絵を描くようにしてそのままメモ帳に写した。


x―xx-xxx Николай Димитров


 何を意味しているのかはさっぱり分からないが、文脈的に人の名前だろう。

眩暈と幻覚が収まるまで少しトランクの上に腰掛けて休み、回復を待ってから私はタクシーを呼んだ。運転手にメモ帳を差し出す。

「この住所までお願いします。」

 英語でそう言うと、運転手は怪訝な表情で私にメモ帳を返した。彼は吐き捨てるように呟く。

「別に俺は構いやしないが、どうしてあんな偏屈ジジイのところにわざわざ行くんだ?この国にはもっとマシな場所が幾らでもあるぜ。」

それだけ言うと彼はアクセルを踏み、車を出した。私は既に不安でいっぱいになっていた。


「ほら、着いたぜ。まったく近頃の観光客の考えることはよく分からねぇな。」

 最後まで運転手の彼は私に対する怪訝そうな表情を崩すことなく去って行った。結局、目的地に着くまでは2時間掛かった。舗装のない凸凹道を延々と駆け抜け、お尻が痛い。それでも覚悟していたよりタクシー代が掛からなかったのが救いか。

 私は木々に囲まれた坂を上る。大した距離ではないはずなのだが、不眠で疲労困憊の私には永遠に等しく感じられる。息も絶え絶えにようやく坂を登り切ったとき、私はようやく待ち望んだ風景と出逢った。

 あの芝生、あの風、あの山岳、あの柵、あの丸太小屋。私はこの風景のすべてを知っている。胸いっぱいに広がるのは感動や達成感というよりは懐かしさであった。

 しかし、やはりそこに羊の姿は見当たらなかった。ただそこには果てしなく緑の大地が広がるだけであった。私は少なからず落ち込んだ。ここに羊がいなくて一体どこにいるというのか。しかし、ここまで来て悩んでいても仕方がない。自分に残された出来る限りを試みるしかない。私は柵を越え、敷地に入り、丸太小屋に近付いた。空港の幻覚で見た通りの看板が立てかけてある。木の扉をノックする。返事がない。扉には覗き窓が付いているのだが驚くほど汚れていて中の様子は何も見えない。ここまで来て後戻りすることは出来ないと思った私は意を決してドアノブを回した。鍵は掛けられていない。扉は私を拒まず小屋の中へと誘った。

「失礼します…」

 小屋の中に入ると一面から木の匂いが漂ってくる。心地いい安らぎを感じる匂いだ。しかしその匂いに安らぎを感じるのも束の間、私の心は緊張した。部屋の真ん中に陣取り、椅子に座って居眠りをしている御老人がいた。真っ白な髭が顔の下半分を包み込んでいる。率直に申し上げて、私はそのときアルプスのハイジのおじいさんは実在の人物だったのかと錯覚した。

 どうするべきか判断しかねた私の動揺が伝わったのか彼は目を醒ました。

「Кой е?」

 聞き取ることが出来ない。彼の話しているのは英語ではなくブルガリア語だった。当然のことだ。

「Какво правиш?」

 御老人はゆっくりと椅子から立ち上がり、私の方へ近付いてくる。彼は背が高く体格もよかった。お髭と併せてどっしりとした熊のような印象を受けた。

「えっと、その…」

 軽くパニックになった私は英語で早口でまくしたて彼に弁解を試みた。

「ごめんなさい。不法侵入じゃないんです。いや、不法侵入したんですけどつまり泥棒とか怪しい者ではないんです。」

「Били ли сте дошли?」

 御老人が私をじっと見つめる。今から思えば莫迦莫迦しいにも程があるが、私はパニックに陥っていたので彼に喰われるのではないかと思ってしまった。パニックが最高潮に達し、遂に私は日本語で心の叫びを訴えた。

「私は羊を探しに来ただけなんです!」

 すると無表情だった御老人に僅かな反応が見えた。

「овца?」

 一言謎の言葉を発すると、御老人は私から遠ざかり、小屋の隅にある抽斗をがさがさと探り始めた。そして振り向いて私の方を見る。

「あ、眼鏡…」

 振り向いた御老人は眼鏡を掛けていた。私のことをじっと見つめていたのは単に目が悪かったせいだった。改めて私に近付き全身を一瞥する。すると次の瞬間、思いがけない出来事が起きた。

「君ハ日本人カ?」

「…え?」

 一瞬、意味が理解できなかった。しかし数秒遅れて脳に意味が到着する。

「あ…!はい、そうです。」

 狼狽えながらもそう答えると、御老人ははじめて顔を綻ばせた。

「そうカ、そウか。こんなトコロまでよくキた。」

 多少訛りはあるが、御老人は殆ど完璧に日本語を使いこなしていた。

「タっていないで、座りなサい。」

 御老人の勧めるままに私は小屋にある幾つかのテーブルの席に着いた。彼もまた私と向かい合って座る。

「キミはなにをしニきたんだ?」

 私の頭の中はこのとき疑問符に埋め尽くされていた。つまり、言いたいことよりも聞きたいことの方が勝ってしまって何を喋っていいか分からなくなってしまったのだ。混乱の末に私は喫茶店で撮影した写真を彼に見せた。

「удивителен…!」

すると、彼はどこか感動したような懐かしむような表情になり、感嘆の声を洩らした。

「いったいどこでコレを?きみはあのコにあったのか?」

「えっと、それは…」

 私は御老人の勢いに気圧されてしまう。その様子を見て彼も少し冷静になったようだった。

「そうか、こんなにいちどにたくさんきいてはこまるな。」

 彼は徐に席を立ち、階段を登って二階へと上がった。そしてマグカップを二つ持って帰ってきた。

「ミルクだ。のめるか。」

「はい。」

「わたしたちはゆっくりはなしをするべきだ。そうだろう?」

「はい…。」

「きみはとまるばしょはあるのか。」

 私は首を横に振った。

「ではきょうはここにとまっていくといい。」

 御老人は穏やかな笑顔でそう言った。

「ききたいことは山ほどあるが、まずは君のもくてきだ。」

 御老人は私と話すにつれて次第に日本語の発音が滑らかになりはじめていた。勘を取り戻し始めたようだ。私はもう一度彼に言った。

「私は羊を探しに来たんです。白くて柔らかい毛をして、知性のある黒い瞳をした羊です。」

「私はその羊を知っているよ。」

「本当ですか?」

「だが、羊はもうどこにもいない。」

「どうして…?」

「あの羊が生きていたのはもう60年も前の話だからだよ。」

 それを聞いた瞬間、私はまた眩暈がした。しかし、今度のは正真正銘、疲労による貧血だった。御老人が倒れそうになる私を支える。

「大丈夫かね。どうやら長旅で疲れたようだ。今日はもう休みなさい。二階から毛布を持って来よう。」

 結局、夜が更けるまで御老人が床に敷いてくれた布団の上で私は休むことになった。お陰で朦朧とした意識はある程度まで回復した。しかし、やはり一睡もすることは出来なかった。予備の睡眠薬ももうない。私はよろよろと立ち上がって窓から外を見た。周りに灯りのないこの土地の空には満天の星が広がっていた。

「いい眺めだろう。」

 背後から声がする。ランタンを持って二階から御老人が下りてきた。

「やはりこんなボロ小屋では眠れないかね?」

「いえ、そんなことは…!眠れないのは病気のようなものなんです。」

「そうなのかい。若いのに大変なことだ…。」

「いえ、いわゆる普通の病気ではありません。羊が夢を見ている限り私は眠れないのです。」

 御老人はランタンをテーブルの上に置く。

「詳しく聞こうか。」

「私は日本人で看護師をしています。櫃寺と申します。そうだ、お爺さんのお名前は…」

「私かい。私の名はニコライ。ニコライ・ディミトロフだ。」

「改めましてお世話になります。ニコライさん。」

 私は出来るだけ深々と頭を下げた。ニコライさんは笑った。

「やっぱり、日本人というのは礼儀正しいのだな。彼とそっくりだ。」

「彼?」

「いや、それはまた後で話そう。君の話を続けてくれ。あの羊が夢を見るんだろう?」

「そうです。そして…変な話だと思われるでしょうが、そのせいで今、命の危険に晒されている方が日本にいらっしゃるのです。私はその方を助けたくて、また自分も助かりたくてここまでやってきました。」

ニコライさんは私の話を真剣に聞いていた。私に問う。

「その命が危ない人は誰なんだい。」

「私が担当していた患者さんです。一番最初に羊の夢を見ていたのは彼女です。彼女は自分にもしも何かあったら羊を任せると私に頼み、私はそれにYesと言いました。そして、その日に彼女は倒れ、私は羊のいないこの高原の夢を見るようになりました。」

「あの機械で見せてくれた絵は君の患者さんの持ち物かい。」

「そうです。」

「やはりか…。」

「おばあさんのことをご存知なんですね?」

「ご存知も何も彼女は私の大事な家族さ。」

「家族?」

「そう。そしてこの家は彼女が幼い日々を過ごした場所。さしずめ私は私の家族の想い出の守り人だ。」

「いったいおばあさんに何があったのですか。」

「ようやく私が話す番のようだね。では君に話そう。我が家の歴史、彼女と彼女の羊の話を。」

「聞かせてください。」

「我が家は四人家族だった。父と母と姉と私。この国は中立を保っていたが、当時世界は戦火の渦に巻き込まれていた。幼い私は戦争を憎んでいたよ。昔からこの国の自然と生命が大好きだったから、新聞で爆撃によって火の海と化した各地の森の写真を見るたび、小さな者を顧みず平気で踏みにじる連中に本気で怒りを感じていた。」

「だから今もこの高原に住んでらっしゃるんですね。」

「ああ。それで戦争とは無縁のはずのこの土地にもある日、訪問者が現れた。」

「何が起きたんですか。」

「森に戦闘機が不時着したんだ。燃料が漏れだして辺りは殆ど焼け野原になった。戦闘機に乗っていたのは日本人だった。英国に爆撃を仕掛ける為の部隊の一人だった。彼は命からがら脱出し、私たちの家のすぐ傍で行き倒れていた。」

「そんなことが…」

「驚くだろう。ただ幼い私が感じたのは怒りだったがね。それでとにかく怪我人を捨て置けないということで私の両親は彼を家で看病した。私はそのとき両親の行動が理解できなかった。人殺しをどうして助けるのか、命を粗末にする奴をどうして生かさなければならないのか、こんな奴このまま野垂れ死んでしまえばいいとまで言った。」

「今のニコライさんからは想像もできませんね…。」

「まあ、私も歳を取ったからね。少しは丸くなる。そして看病の甲斐あって日本人はみるみる回復した。元々丈夫な質だったらしい。歩けるようになると彼は家の畑仕事を手伝いだした。あらゆる村の雑用をこなした。周囲も―当時はまだ山の上にも人がたくさんいたんだ―彼のことを認め始めた。でも私はまだ信用していなかった。」

「用心深いですね。」

「そうさ。空から降ってきたような得体のしれない奴だ。用心に越したことはない。。今はもうないけど、当時、この丸太小屋の隣にもっと小さい小屋があってそこが彼の部屋になっていた。彼はある頃から仕事の合間に石やら木の実やらをすり潰して何かをこっそり作り始めるようになった。周りは気付いていなかった。用心深い私だけが知っていた。幼い私は彼が爆弾でも作ろうとしてるんじゃないかと思って彼の部屋を襲撃した。」

「か、過激ですね、ニコライ少年は。」

「ああ。しかし、そこには爆弾などひとつもなかった。あるのは美しい無数の風景画だった。木の実や石は絵の具を作る為の顔料だった。私はその巧みな描写に一瞬で魅せられた。芸術は時に言葉の壁を越える。私は彼を誤解していたことを理解した。だって、あれ程美しい風景を描く者が自然を愛していない訳などないのだから…。」

「そのパイロットの日本人があの羊の絵を描いたんですか。」

「その通り。あれは彼の作品の一つだ。その絵も後で話に出てくる。とにかくそれ以降、僕と彼とは親友になった。一緒に森の中を駆け巡りたくさん遊んだ。私はこれまでが嘘のように彼と仲良くなりたくて日本語を必死になって覚えた。あれが今もこうして役に立つとは夢にも思っていなかったがね。」

 ニコライさんはランタンに油を注いだ。

「お互いある程度言葉が通じるようになって私はいろんなことを彼に尋ねた。彼の国、文化、自然、生き物、夢…。ある時私たち家族とテーブルを囲んで夕食を取っているとき、彼は打ち明けた。彼は本当は画家になりたかった。でも否応なしに召集を受けて兵隊にさせられた。彼は手先が器用だから機械の操縦に長けていた。だからパイロットに任命されたんだ。私はここでようやく両親の意図を理解した。誰も進んで人殺しなんかしている訳じゃないとはじめて気付いたんだ。そして彼がこの国に不時着した理由は彼の戦闘機に帰りの燃料が積まれていなかったからだ。つまり…」

「神風特攻隊…」

「君たちの言葉ではそう言うらしいね。まあ早い話が自爆だ。彼はそれを告白して泣いていた。次々と仲間たちが命を犠牲に敵国を焼き払わんとするのを見てもまだ彼には操縦桿を前に倒す勇気がなかった。或いはこの時代では正常な判断と言う方が適切だろう。だが彼は相当に悔やんでいた。自分を祖国の裏切り者、臆病者だと自分で罵っていた。私の彼への理解はまた深まった。彼は私と同じ、或いはそれ以上に命を大切にした人間だったんだ。」

 私はただ黙ってニコライさんの話に耳を傾けていた。

「私が心を開き彼もまたそれに応えた。私たちの絆はより一層深まった。でも実は彼は私よりももっと深く姉の方と絆を深めていたらしくてね。」

 ニコライさんは困ったように笑った。

「それってもしかして…」

「ああ。姉と彼とは僕の知らぬ間に恋仲になっていたんだ。まだ小さい僕はそんなことまったく気付かなかった。何はともあれ、私たちは名実ともに家族になった。めでたきことだ。村総出で小さな結婚式を挙げた。姉はその日、世界で一番幸せな人間だった…。そして、やがて二人の間には子供が出来る。何もかもがうまく行っていた。これからもこんな生活が続くと誰もが信じてやまなかった。しかし、ある夏の日に終焉が訪れる。」

「何が訪れたんですか。」

「大戦の終結だよ。日本軍は敗北を認めた。そうだろう?」

「ポツダム宣言ですね。」

「そして皮肉にも世界の平和の始まりは我々の平和の終わりを意味していた。」

「どういうことですか?」

「各国に隠れていた戦犯たちは国際連盟によって一斉に逮捕された。私の義兄にも魔の手が忍び寄っていた、どこからか情報が洩れていたんだ。誰が密告したのか分からないけど。警察の調査が村に入るようになった。皆で義兄を隠した。でもそれももう限界だった…。」

「そんな…。」

「村の者たちは最後まで抵抗しようとした。義兄は本当に優しい人で村の皆から愛されていたから。でも結局は彼が自ら投降を申し出た。罪の意識もあったんだろう。でもそれは何より生まれてきた幼い我が子の為だった。実は親切に逃亡ルートを用意してくれた人がいたんだ。ちょうど大戦中、ユダヤ人を逃がす組織があったみたいにね。この国にもそういう人たちが少なからずいた。但し、彼らのルートでは逃がせるのは一人が限界だった。

父として義兄は娘を国外へ逃がすことを選んだ。」

「もしかして逃走ルートって船でしたか?」

「そうだよ。よくわかったね。」

「でも、どうして彼はその道を選んだのですか?自分が逃げればそれで済む話じゃないですか。生まれてきた子供には罪はないんだから。いや、そもそもお義兄さんにも罪はない話ですけど。」

「彼は自分の子供が後ろ指刺されてこれから生きていくんじゃないかって不安だったみたいだね。世間は捕まったと言ったら皆同じ人殺しだと思うから。それだけを心配していた。

娘にまで戦争の呪いを掛けたくなかった。自分の代ですべて引き受けて終わりにしたかったんだ。」

 私はうなだれた。一体、彼の何が悪かったというのだろうか。

「投降することを決意した義兄は数日間を掛けてたった一枚の絵に己の全身全霊を込めた。自分の娘が自分を憶えてくれるように。或いは自分の記憶のすべてが遠ざかろうとも自分のすべてを込めたその絵だけは娘と共にあるように、と。」

「それがあの羊の絵ですか…?」

「そうだ。義兄の娘はいつも羊を欲しがっていた。でもこの丸太小屋を見たら分かる通り僕ら一家はそれほど裕福じゃなかった。ましてよりにもよって空から落ちてきた人間を一人、自分たちの家族に加えたわけだからね。お金にはいつも苦労してたよ。あの絵に描かれた羊は義兄から我が子へのせめてもの贈り物だったんだ。そして時は来た。義兄は投降し、娘はその騒ぎに乗じて運ばれた。幾つもの船を何か月も掛けて乗り継いでたくさんの人が協力して彼女を日本へと運んだ。私にはありありと想像できるよ。協力者の大人たちがいるとはいえ、両親から離れたった一人。まだ幼く故郷を離れどこへ行くのかも分からない。唯一の心の慰めは絵の中の羊だけ…。」

「彼女は幼少期の記憶を決して話しません。話したくないのか記憶に蓋をしているのか分からないのですが…。」

「そうか。」

「でも彼女はいつも羊の話をします。本当は守秘義務があるのですが、今、その禁を破ってお話します。彼女は認知症です。あらゆる出来事を忘れていきます、話も多くは整合性がありません。でもあの羊だけは、本当に大事なことだけは決して、決して忘れてはいませんでした。」

「そうか…それは…義兄に聞かせてやりたかったなぁ。」

 ニコライさんの眼には僅かに涙が浮かんでいた。彼は涙を拭って言う。

「まあ、これが君の患者さんと僕たち家族の過去だよ。そして彼女の羊のね…。」

「羊は私の心の中だけにいるというのも、地球の裏側にいるというのもどちらも本当だったんだわ。」

「彼女がそう言ったのかい?」

「ええ、そうです。」

「しかし、弱ったな。」

「何がですか?」

「羊を見つけないと君は眠れないし、彼女も目を醒まさないんだろう?」

「何を言ってるんですか。羊なら見つかったじゃないですか。」

「え?どういうことだい。」

「私が、貴方が、確かに知っています。貴方のお義兄さんとその娘さんの絆があったことは私とニコライさんが出逢ったことによって証明されました。羊は確かにいたんです。」

「そうか。そうだな。君の言うとおりだ。」

 私たちはその後、何も話さず語り合いの余韻に浸っていた。心地よい沈黙だった。もうランタンの火が消え始めていた。揺れる火を見ているとどこか意識がぼんやりと薄れていくようだった。私は数日ぶりに眠りに就いた。

 夢を見た。いつもと同じニコライさんの高原だった。でも違ったのはそこに真っ白な美しい羊がいたことだった。そしてその隣にはあどけない可愛らしい少女が寄り添っていた。

すぐにそれが彼女だと分かった。面影が確かに残っていたからだ。彼女は満面の笑みで手を振った。私もとても晴れやかな気持ちで手を振った。そして少女は羊といっしょに歩いていく。二人はどこまでもどこまでもいっしょだった。二人は私から離れてどこか新しい場所へと向かっていった。

 私は目を醒ました。真っ先に心配そうに私の身体を揺するニコライさんの顔が目に飛び込んだ。

「どうしたんだい。ヒツジ。なぜ泣いているんだい。また病気が起きたのかい?」

「違うんです。おばあさんが、貴方の姪が、お父さんの羊と一緒に向こうの方へ…。」

 涙を零しながら語る私の姿を見てニコライさんはすべてを察したようだった。彼の方が辛いだろうに私に慰めの言葉を掛けてくれる。

「きっと君のお陰で姪は幸福な人生の幕を下ろすことが出来たよ。本当にありがとう。」

「いえ、お礼を言われることなんて私は何も…。」

 そうして私はニコライさんに肩を優しく叩かれながら涙が枯れるまで泣いていた。


「結局、どうして私はおばあさんの羊を見たのでしょうか。どうして私だったんでしょう。」

 ニコライさんの答えはこうだった。

「世の中には人の理解を越えたことがたくさんあるのさ。例えば、空から落ちてきた人間と家族になるとか、ね。あまり深く考えずいい勉強になったと思いなさい。」

「うーん。」

「きっと君がいつか歳を取ったら誰かに僕と同じことを言うのさ。そうやって世界は回っていくんだ。」

「私にそんな日が来るのかなぁ。」

「君が眠っている間にタクシーを呼んだよ。もうじき来る。それで帰るといい。行きも彼に乗せてもらったろう?」

「え、あの方が来るのですか。」

「なんだ、嫌かい。」

「嫌ではありませんが、少し苦手です。」

「残念だがここまで来てくれる運転手は彼一人だ。選択肢はない。どうして苦手なんだ?」

「言葉遣いというかなんというか…言いにくいのですが、ニコライさんのことを偏屈な老人だと言っていました。私はそんなことこれっぽっちも思いません。」

「ああ、なんだ、そんなことだったのか。彼は別に間違っちゃいない。」

「そんな。」

「いや、私は彼と仲が悪いわけではないんだよ。」

「え、そうなんですか?」

「ああ。なんといったらいいのか…彼はね、つまりいい奴なんだよ。」

「いい奴?」

「そうさ。お節介なだけなんだよ。私を偏屈と呼ぶのも無理はない。彼はずっとこんな山奥に引っ込んでないで仕事を紹介してやるから街に降りて来いと私にしつこく言うんだが、頑として私がそれを聞き入れないから頭に来てついそんなことを言うのさ。」

「そうだったんですか。つい誤解を…。」

「いい人間ほど誤解されやすいものさ。最初、君も私が怖かったろう。」

「え、いや、その…はい。」

「あっはっは、素直でよろしい。」

そうこう言っているとタクシーが来た。運転手が窓から顔を出す。

「まだ山を下りる気はないのか、熊野郎。」

「ああ、熊が人里を襲っては困るだろう?」

「虫も殺せないような奴が何抜かしてやがる。気が変わったらすぐに言えよ。」

「ああ。でもそれより彼女をちゃんと送り届けてやってくれ。」

「金貰うんだから仕事はちゃんとやるさ。おまえと違って俺はまともな都会人だからな。」

「ああ、それじゃ田舎の熊はここで退散するとしよう。それじゃあね、ヒツジ。何もないところだがいつでも気が向いたら来なさい。また話をしよう。」

「はい、ありがとうございます。ニコライさん。」

「おい、ごちゃごちゃ言ってねぇで早く乗れ。」

 そしてタクシーは出発した。でも相変わらず運転は荒く、お尻は痛い。運転手が話しかけてくる。

「どうだ、あんな辺鄙なところで楽しかったか?」

「ええ、とても。」

「そうかい。そりゃよかったな。」

 愛想なく言うもののバックミラー越しに見える彼の表情はどこか明るく嬉しそうだった。

帰りは行きよりも遥かに早く感じた。あっという間に空港に着いた。

「じゃあ気を付けて帰れよ。」

「はい、ありがとうございました。」

「もし次来るときがあったらそのときはまけてやるよ。」

 彼はそれだけ言うとアクセルを踏み込む。

「じゃあな。」

 タクシーはあっと言う間に見えなくなった。私は彼の車が見えなくなるまでその背を見届けてから空港に入った。帰りの飛行機の中で私はかつてなく爆睡した。


「おはようございます。」

「おはよう。復帰おめでとう。本当に良かったわ。貴方がいなくて大変だったんだから。早速バリバリ働いてもらうわよ。あ、でも本当に無理しちゃダメよ?」

「はい、お気遣いありがとうございます。頑張ります。」

 ナースステーションを出る。担当医師とすれ違う。

「お、櫃寺じゃないか。復帰おめでとう。」

「ありがとうございます、ドクター。」

「…残念だが、xxx号室の患者さんは…」

「知ってます。」

「おや、他の人から聞いたか。」

「いえ、…あ、いやそうです。聞きました。」 

「でも彼女一瞬だけ、目を醒ましてな。また君に伝言を託してその後、すぐに息を引き取った。これがそうだ。君に渡しておこう。」

 医師は小さく折り畳まれた手紙を私に手渡した。

「それじゃあ、私は回診に行くから。君は病み上がりだから無理しないようにな。」

「はい。いってらっしゃい、ドクター。」

 医師は後ろ手を振って去って行った。私は手紙を開く。


 ―羊には逢えたかしら?


「逢えましたよ。ちゃんと逢えました。」

 私は手紙を大事に仕舞った。これから肌身離さず、ずっと持っていようと思った。もう誰も羊の夢を見ることはない。羊も誰の夢を見ることはない。今日の仕事が終わったらあの喫茶店に行こう。あの絵を見に行こう。確かにこの世界には白くて柔らかい毛の黒い瞳をした美しい羊がいた。それは紛れもないこの世界の一つの真実だった。

ヒツジはもう夢を見ない。どうか安らかにおやすみ。       





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