2人は1人として
舞台はどこになるのでしょう。簡単には説明しずらいです。とりあえず人を殺すっていうのはそういうことなのかもしれないですね。
体に衝撃が走り、目の前が真っ暗になった。わたしは何処か高いところから落ちてきたらしい。頭を押さえた。少し痛みが引いてきたところで辺りを見回すと、どうやらここは独房のようらしい。
「どうしてあたしを殺したのですか!?」
聞き覚えのある声が響き渡る。順子だ。
「ごめんね。順子。」
「ごめんねじゃないですよ。何であたしを殺したのですか?」
わたしはただ謝ることしか出来ない。本当に何故殺したのかわからないのだ。
「どうして?どうしてですか?」
順子は悲痛な、それでいて憎しみのこもった声でわたしに語りかける。それはそれは長い時間わたしに語りかける。どのくらい長い時間かというと、ラーメンの器いっぱいに入っている食塩を箸でつかみ、別の器に移し替えるくらいの時間だ。しかし、そんなことわたしに殺され、長い間この独房の中にいた順子の苦しみに比べたら真夏の夜の夢の様なものだろう。
「ごめんね。ごめんね。」
本当にわたしにはもう謝ることしか出来ない。
「本当に分かってるのですか?」
「ごめんね。ごめんね。」
「何であたしを殺したのですか?」
「ごめんね。ごめんね。」
「……はぁ。もういいですよ。久しぶりの再会なのに怒ってばっかりってのも、アレですからね。」
どうやら順子は納得してくれたようだ。もっともそれが納得なのか呆れなのかは分からないが。さて、ここまでに果てしない時間がかかったがわたしがここに来てからずっと疑問に思っていたことを尋ねることにした。
「ねえ。ここはどこなの?」
「ここですか?ここは刑務所ですよ。ほら、あれが鉄格子で、あたしが着てるのが囚人服。」
嗚呼、神よ。油を注がれし者よ。なんと残酷なことだろうか。被害者であるはずの順子がこの独房の中でどれほどの時間を過ごしてきたのだろうか。それともやはり神などというものは幻想だったのだろうか。所詮旧約聖書など空想の産物、この独房においてはそこかしこに散らばっているライトノベルの一種なのだろうか。
「順子はここで何をして過ごしているの?」
見たところ暇つぶしになりそうなものなど、何もないようだが。
「週に一回(とは言ってもここには現代社会のカレンダーなどという概念は存在しない。週間というものは太陽が昇り、そして沈むのを七回数えたということと同義だと思っていただいても差し支えはない。)本が支給されます。普段はそれを読んで過ごしています。今週は罪と罰、先週は限りなく透明に近いブルー、初めて読んだのは、そうだ、あはは、おかしいや、あははは、あはははは、そう、聖書です。新約聖書。あははは、聖書だって、聖書。」
わたしには何がそんなにおかしいのか理解に苦しむ。しかし、順子の笑顔を見るのはいつ以来だったろうか。
「ねえ、わたしがここに来たことに意味はあるの?わたしがここに来たことで順子は元の世界に戻れるの?」
そう、神がいなくてもわたしがいる。仮にわたしがここに一人で生きていくことになっても、それは私の招いた運命。メシアの仰せのままに。
「ふんっ。ここの連中はそんなに甘いもんじゃないです。ここであたしはずっと一人なのです。気が狂おうが、体が腐ろうが。もっともここにいる限り老いなんてものはないんですけど。」
悲しい話だ。例えるなら、決してやむことのない雨の中たった二人でノアの箱舟にのっているような。そんな気分だ。
「京香さん。ここでのルールを教えてあげます。」
そういって順子は笑う。何がそんなにおかしいのだろうか。
「まず、起床は午前五時です。見回りが来るので正座して待機しなければなりません。それが終ったら読書です。午後七時までずっと読書。時計は無いので、太陽の傾きと体で覚えてください。」
「もしも、しなかったら?」
「死んだほうがましな罰を受けます。もちろんここでは死んでしまっても生き返ります。そう、まるでキリストのように。あはは、なんてことだ、聖書なんて所詮大いなる幻影、大いなる誤解、あはは、なのに、なのに人は信じ、裏切られる。なんということだ。なんということだ。なんということだ。」
なんということだ。順子は長い時間の中できっと狂ってしまったのだろう。頼りになる人も物もなくし、遂には神さえ信じられなくなってしまったのだ。
「午後の八時にやっと食事になってます。ただし、毎日ではなく週に一回まとまって支給されます。」
「どんなものが支給されるの?」
何かおかしいところがあったのだろうか。わたしが質問をしたその直後に順子は笑い転げていた。長い間、それはそれは長い間、順子は笑っていた。
「なに?どうしたの?」
わたしの質問になんらおかしいところはなかったはずだ。しかしそれは更に笑いを誘うという形になりました。
「いいですか、京香さん。」
ようやく笑いが収まった順子が口を開いた。
「いいですか、食事っていうのは貴女なんですよ。」
わたしは絶句した。そういうことか。神を信じていないわけではなかったのだ。ただ、この孤独な一室の中において信仰心などというものはアフリカゾウを目の前にしたミジンコの様なものだろう。
「週に一回、京香さんが空から降ってきます。あたしはそれを眺めているのです。そして、重力に逆らいきれずつぶれた京香さんを食べているのです。しかし、稀につぶれないこともあるのです。そんな時はこの様に楽しくお喋りをして、食べるのですよ。」
わたしは逆らいもしなかった。逆らう理由もなかった。かつてわたしが順子にしたことを返されるだけの話である。ハンムラビ法典の様な話である。もっとも、この場所において、人類が生み出した法律など虚無的な偶像崇拝なのだが。
「いただきます。」
順子は丁寧に手を合わせわたしにかぶりつく。わたしが順子を解剖した時よりも上手くわたしの肩甲骨を剥ぎ僧帽筋、つまりはサーロインを切り取り食べた。次は三角筋、やがて背部の筋肉はすべてなくなった。そこからの一週間は地獄であった。わたしは意識がありながらも(この世界ではどんなに外傷があっても死ぬことはない。この世界においての死はすべて精神の死とする)わたしは食われるのだ。その後わたしのたんぱく質を一週間かかって順子は食べきった。残ったものといえば脳髄くらいだ。そういえば脳髄しか残っていないのにわたしは意識を保っている。これは、脳髄論を打ち砕いたことにはならないだろうか。まあ、小難しい話は全て知識人にでも任せることにしよう。
今日もまた京香さんを食べた。今のあたしにあるのはただ京香さんに殺されたという事実、いやそれさえも気を抜くと忘れてしまいそうだった。それほど何年、何十年、何百年、何千年、もしかするとそれ以上(宇宙ができてからそして滅ぶほどの歳月をかけたのかもしれない)の歳月を過ごしてきたのだ。いい加減気が狂ってしまいそうだ(この世界の死は精神の死である、つまり発狂というものは即ち、死である。)。どうせならば、京香さんを生かしておいてお喋りでもしていたほうが楽しいのかもしれない。しかし、それもまたかなわぬ話だ。あたしにだって欲望はある。食欲などというものは人間の根源的な欲求である。それを耐えることなどあたしの精神力では到底できない。さて、もうすぐ午前五時である。あたしは大きく伸びをして正座した。看守の足音が聞こえる。今日もまた退屈な本を読み、たいして旨くもない京香さんを食べる。はじめは憎悪の感情だけで食べていたが、最近ではそんな感情も薄れただ生きていくためだけに食べているのである。そんなことを考え出すと止まらない。そもそも何故、被害者であるはずのあたしが独房に入れられなければならないのか。そもそもここは本当に独房なのか(哲学の初歩は全てを疑うことにあるというが。)。あたしはこれからの未来について考えてみた。何の面白味もなく、そのくせ数奇なこの運命。このまま、運命の前にひれ伏すことが正しいのだろうか。違う。物事は全て神の名のもとに美醜で決められるものだ。……はて?神などという概念を考えることになるとは。神が!十二使徒が!今まであたしに何をもたらしたというのか。旧約聖書を読み信じるだけ信じさせておいて、結局何もない。こんな非情なものが神なのか。神を信じ、あたしはカンタベリー十字を!アンデレ十字を!聖ペテロ十字を!体に刻んだと思っているのか。カトリックだろうがプロテスタントだろうがもういい。サクラメントもミステリオンももういい。何を信じても結局は同じだ。嗚呼、モーセよ!サムエルよ!あたしはこれからどうなるのか。所詮お前たちも金儲け屋なのか。やはり宗教は幻想か、ひと夏の終りか、ただあたしはここに来て初めて涙を流した。こんなところを見られたらあたしは拷問を受けることになってしまう。泣き止め!泣き止め!そう強く思うほど涙は溢れ、案の定、看守に見つかってしまった。あたしはどうなってしまうのだろう。解体されるのか、もっと非道徳的な人体実験か。いや、実際はどちらでもなかった。首を絞められた。だがあたしは、今までもっと倫理を欠いたことを京香さんにしてきたわけだ。正直なところ、こんなもんかと思った。しかし、不可解なことが起こった。意識が遠のいていくのだ。解体されようと意識ははっきりしているこの世界においてそれはあまりにも異常で、冒涜的(この世に神を信じていない人間からすると一体誰に対して冒涜的なのだろうか。)な状況であった。
京香さんが順子ちゃんになる。京香さんが順子ちゃんを殺したのに、殺した人間が死に、殺された人間が生きる。これは論理的、倫理的、道徳的、そして自然主義に逆らっているのではなかろうか。しかしそんなことは私からするとどうだっていい話だ。私の、人間の、哲学の永遠の謎の解決に一歩近づいたのである。さあ!歌え!魂を幸福へと導くために!メサイアを!高らかに歌うのだ!その時である、むくっと京香さんが起き上った。
「あれ?あたし……何でここに……?」
姿はもちろん、声質も京香さんだが、口調は明らかに順子ちゃんであった。
「ほら見ろ!私は何も間違ってなどいなかったのだ!魂は精神に宿るのだ!今の順子ちゃんは京香さんであり、京香さんではない!つまりだ!やはりそれは孫うことなく順子ちゃんなのだ!イヒヒ。イヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ。」
「ううん。それは違うよ。存在するっていうことはそんなに簡単なことじゃないんだよ。魂とは精神に宿るのか、それとも脳髄か。もしかすると決まった器官に宿るようなものじゃ似のかもしれない。もっと言うならば、人間の生とは魂なのかということから謎なんだよ。」
「イヒヒ。順子ちゃんは分かっていない。きっと順子ちゃんは長い間独房の中にいて気がくるってしまったんだよ。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
そして私たちは笑いあう。魂がどこに宿るのか。その疑問は我々(ここではあまりにも人間的、自然的な人間のことを指す。)が生きている限り解き明かすことなど出来ぬ、永遠の謎、神秘のベールの様なものである。それでも私は脳髄論ではなく精神論を推すが。何よりこの世界においての死は精神の死であると記述したが。
「ねえ初穂。やけに外が騒がしいね。」
順子ちゃんは窓の外を見る。どうやら順子ちゃんはうまく立つことができないらしい。もっともそんなことは当たり前のことである。一人の人間が生き返ったのだ。言わば輪廻転生(ここで仏教的観念を用いるのはご愛嬌であるのだ。)である。つまり、赤ん坊の様なものである。
「世界がね、終るんだ。」
順子ちゃんは悲しそうな顔をした。驚くだろうと思っていた私としては少し残念だった。
「何でかなしそうなの?」
私は素直に聞いた。聞いた後に気付いたのだが、こんな馬鹿げた質問もないだろう。せっかく生き返ったというのに、また死ななければならない。やはり人間というものは、一筋の光が見えている状態からどん底に叩き落とされることが一番こたえるようだ。
「……ううん。やっぱり人間は永遠の謎を生み出し、そして答えを知る前に死ぬんだなあって思ってね。」
そういって順子ちゃんは笑う。人類が生み出した謎。リーマン予想のことでも言っているのだろうか。それとも非人道的な思想実験のことだろうか。
「0.99999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999…………………………………………………………………………………………………………………………………。永遠と続く9なのに1にはなり得ない。こんな悲劇を抱えたままあたしたちは死ぬんだなって。」
「でもそれは、1と同義なんだよ。」
「たとえそうだったとしても、それでもほんの僅かに1には届かない。数学的には同義でも1とは決して書かれることのない数。そもそも誤魔化しなしでは書ききることさえできない数。全宇宙に存在する物質をすべて紙とペンにしても書ききれない数。それが1ならどうだ。あまりにも明確。同義でありながらそれほどまでの差を抱え我々の世界は消えていくのだ。」
私は口をつぐんでしまった。それほど順子ちゃんの言っていることは正論だった。それと同時に恥ずかしさが私を襲ってきた。
「そんなことよりさ……。」
恥ずかしさのあまり下を向いている私に順子ちゃんは語りかける。なんとなく声色が真剣なようだった。顔を上げると見たこともないほど顔をこわばらせた順子ちゃんがいた。はじめは怒っているのかとも思ったが、そんなことではなかった。そんな稚拙で冒涜的なわけではなかった。さあ、私と順子ちゃんの議論を始ようか。
「世界が終る。それが一体何の意味を持っているのか。初穂は分かる?」
「ううん。私には何も分からない。」
「これだから初穂は……。」
やれやれと順子は首を振る。溜息を吐いた後、彼女は私の周りをゆっくりと歩き始めた。
「世界が終る。それは何かの始まりなのかもしれない。」
「どうしてそんなこと言い切れるの?」
「あたしが退廃主義論者であり、冒涜的思想家だからだよ。」
「つまり、どういうことなの?」
順子はにやりと笑う。不気味な笑みである。
「万物は滅びゆく時が最も美しい。世界も、あたしも、あなたも、……京香さんも。」
「……それが、京香さんがあなたを殺した理由?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ一つ、あたしは神を信仰していない。冒涜的思想家というのは実は論理を逸脱しているんだ。ただ、退廃しないものなど存在しない。この世界だってもしかすると終った世界だったのかもしれない。」
なんということだ。今まで共に笑い、共に苦しみ、共に支えあってきた親友が、このような悪魔の主義を持っていたなんて。今の私には何一つ共感を得ない話である。気が狂ってしまいそうだった。今すぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、それと同時に私は興奮を覚えていた。この狂った人間(自分と異なった性質、価値観を持っている人間を無理に弾圧しようとする我々、そして彼女自身もまた狂った人間なのだが。)をどうにかして神の前に跪かせたい、そう思ったのだ。
「順子ちゃんあのね?世界には星々程の仮説があるんだ。だけどそれはあくまでも仮説に過ぎないんだよ。」
「……初穂はアインシュタイン、シュレーディンガーを馬鹿にしてるの?」
「そんなことを言ってるわけじゃないよ!あの二人は仮説を呈したわけじゃない。ただ、現代人は、あの二人の理論に反論するだけの頭脳を持ち合わせていないだけだよ。」
「……確かにそうだね。だけどね、初穂は間違ってるよ。」
「……何を?」
「あたしは退廃主義論者だよ?だけど、それはあたしが無宗教だからじゃない。たとえキリシタンであっても、神を冒涜することになろうとも、あたしは退廃主義、もとい世界終了仮説を呈するよ!」
「世界終了仮説……。」
「そう。あたし達はこの醜い世界の終り、そして始まりを見ることになる。あはは。あはははは。おかしいや。一度、いやもしかすると何千、何万回と終った世界がまた始まり終っていく。いや、違うな。今あたしたちのいる世界でさえつい五分前には終ったのかもしれない。あは。あははは。」
「だけど私は五分以上前の記憶を持ってる!」
「だからぁ、五分前に世界が終ったとして、すぐにまた構築されたとしよう。その前の記憶を引き継いだまま、この世界は誕生したのかもしれない。」
「……何の意味があって、誰がそんなことを?」
「へえ、キリシタンの初穂がそんなことをいうんだ?混乱してるのかな?それもそうだよね。初穂は“死んだ人間は天国、地獄、無に行く”なんて考えてるんだもんね。そんな宗教なんかに囚われてたらいつまでたってあたしの仮説を覆せないよ。もっとも、あたし自身証明すらできない、いやできるんだ。あたしや初穂には無理でも京香さんなら……。」
「どうして?京香さんが出てくるの?京香さんなら私がこの手で解体したのに。」
「だからだよ。京香さんはあたしに精神まで侵されてしまった。それはつまり、死。だからこそ、世界の終りを体験できるのは京香さんだけなんだ。」
「だから京香さんは死んだんだよ!」
「違う。死んでなんかいない。京香さんの精神は独房にいる。京香さんの体もここにある。これで世界終了仮説を実証できるんだよ。」
ここまで読んだあなたはとても物好きだと思います。自信を持ってください。物好きです。




