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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

少年と猫

作者: 禅寺 丸翁

出会は突然だった。

その日は昨日までの五月晴れがうそのように朝から空はどんよりと曇っていて、

昼過ぎに小雨が降り始めると、みるみる大粒に変わった。

 「母さん、庭に何かいるよ。」

ベッドから外を見ていた優太が言った。

裕子は雨に濡れた窓から下を見た。植木の根元に灰色の小さな生き物がいる。

目を凝らした。

 「アー、猫、子猫よ」

二人は居間に降りてサッシ戸を開けた。

雨でずぶぬれになり丸まった子猫は、まるで雑巾のように見えた。

子猫はぐったりとして動かない。

 「母さん死んでいるの?」

裕子は何時どうして庭に入って来たのか。それに息子の言うように、もし死んでいたらどうしよう。

急に胸が高鳴った。


祈る気持ちで子猫に近づいて覗き込んだ。かすかではあるが腹の部分が動いていた。

「優ちゃん、死んではいないみたい。お腹が動いているよ」

このままにしては置けないと裕子は子猫をタオルで包んで部屋に入れた。

丁寧に体を拭いてストーブの近くに置くと、冷たかった体が温まったのか子猫は

手足をピクピクと動かし始め、うっすら目を開け、そしてそっと頭を持ち上げた。

温めた牛乳をスプーンで口に持っていくと、腹をすかしていたと見えて息もつかず飲んだ。


野良猫に違いない。元気になるまで暫く面倒見てやるかと・・裕子は考えたが、

餌は、トイレは、獣医に診せるの?家が汚れるじゃない!気が滅入った。

しかし、それは杞憂に終わった。

子猫は体が温まり空腹を満たすと、外へ出ようと部屋中を走り回り、窓ガラスにぶつかり、

挙句カーテンを駆け上がった。たまらず裕子はサッシ戸を開けた。

まさに脱兎のごとく子猫は庭に飛び出し、瞬時に姿を消した。


帰宅し風呂あがりの大輔がダイニングに入ってきた。

「今日ね、驚いちゃった。子猫が庭にいたのよ。植木の根元で死にかけていたんだけど」

裕子は夫に昼間の出来事を話した。

「ふーん、誰かが捨てんだな、きっと。ひどいことをするもんだ」

「えーっ!わざわざ他人の庭に捨てる人がいる?」

「野良猫が増えるのは猫が子供を産むだけじゃなくて、捨てる人間がいるからなんだ。

実際、野良猫の子が育つ確率は低いらしい」

「・・・」

「他人に育てて貰おうと思ったんだろうね。むしが良過ぎる」

大輔は怒ったように語気を強めた。


「ところで優太の症状はどうなの?」

大輔はテーブルに2個あったグラスにビールを注いで裕子の前に差し出した。

「長くても三カ月・・・・医者は出来る限りのことはするって言うけど」

裕子は急に現実に引き戻された。うっすら目尻に涙が滲み、それを夫に気づかれまいと慌てて拭いた。

「代われるなら換わってあげたいよ。俺の命なんてたいして・・・」

「あなた」

「子どもは望んで生まれて来たのじゃない」

「勝手に産んどいて命を断たれようしているのに助けられないなんて。それで親といえるか?」

大輔の目は真っ赤になっていた。


優太が小児がんと宣告されたのは、正月が開けて三学期が始まった頃だった。

はじめは微熱や腹痛が続き、行きつけの病院に行くと風邪と診断された。

しかし症状は一向によくならず総合病院の再診を受けた。そして小児がんが発覚したが、

回復の見込めはない程、進行していると告げられた。


それから一月ほどたった日にあの子猫が再び姿を現した。

あの雨の日に倒れていた植木の根元に座っていた。

ベッドからいつものように外を見ていた優太はあわてて居間に降りた。

優太はキッチンから煮干を持ってきてサッシ戸をそっと開け、子猫のほうへ差し出した。

子猫はその手元をじっと見ていたが、ゆっくり近づいてきて立ち止まった。

さらに食べ物か確認するかのように鼻を近づけた。突然、前足で優太の指先の煮干を叩き落とした。

優太はとっさに手を引いた。指に鋭い痛みを感じ、見ると指先に一本の赤い筋と血が滲んでいた。


子猫はそれをきっかけ毎日来るようになった。

ほんの少しのご飯に削り節をかけたお皿を床に置くと恐々近づき食べた。

裕子は野良猫に餌を与えてはいけないと聞いてはいたが、その可愛いさについ負けてしまう。

それよりご近所のゴミをあさるよりましかな、と勝手に思った。

さらに嬉しかったのは子猫が来ている間は、優太のつらそうな症状が和らぎ生き生きとしているのだ。


「名前をつけよう。猫はのどをゴロゴロ鳴らすからゴロかな?」

優太は急に思いついたように言ったが、たぶん前から考えていたにちがいない。

「ゴロ?ゴロか、野口五郎、黒板五郎、岸谷吾朗、・・・」古い名前しか想いつかない。

あの子猫はオトコの子か?・・・裕子がつぶやいた。

「ゴローじゃなくて、ゴロ。雄でも雌でもゴロだったらいいでしょ!」


まるで自宅のようにゴロは朝に夕にやってきては餌をねだった。

サッシ戸の外で座っているのだが、家族が気が付かなかったり無視するとニャーニャーと鳴いて騒ぐ。

戸を開けると部屋に入り、餌を待ちきれないようにキッチンの入り口までやってくる。

食べ終わると決まってテーブルの下でうたた寝をする。しかし心から気を許していないらしく、

ちょっとでも身体に触ろうとするとサッと逃げるのだ。

暫くすると外に出たくて、戸を開けろと言わんばかりにニャーニャーと鳴く。


そんな平穏な日々が続いたがゴロに異変が起きた。裕子が最も懸念していた事だった。

妊娠したらしく腹が徐々に大きくなりだしたのだ。

雌だと分かっていたが、まだまだ子猫でまさかその月齢とは思っていなかった。

ゴロの腹は日に日に大きくなって地面に付きそうになってきた。

もともと体も顔も小さい猫なのに腹のみが際立って大きいので、とても不恰好に見えた。


さらに一カ月ほど経った頃、ゴロの腹はぺしゃんこになっていて何処かで子供を産んだと想像された。

「子猫が一ケ月ぐらいになると家に連れて来るみたいだよ」

優太はどこで調べたのか嬉しそうに言った。


それからもゴロは前と変らずやって来ては、餌を食べ、暫く休み、帰っていく事を繰り返した。

時になかなか帰らない日があり、もしかして子育てを放棄したか、子猫が何かの原因で死んでしまったのでは、と心配した。

しかし子猫の存在自体が不明で、事情は一切判るはずもなかった。

一方予想されていたこととは言え、優太は日々衰弱しベッドに寝たきりの状態が続いた。

ただ、ゴロが来た時だけは目が輝き元気を取り戻した。

今の優太にとってゴロの存在だけが生きる力になっていた。


その日はいつもより庭が騒がしく感じられた。

ゴロが来て鳴いているようだがゴロ一匹の声にしてはあまりに騒々しい。

裕子は野良猫に餌を与えることに後ろめたさを感じていて、ゴロの鳴き声にはとても気を使っていた。

「あんまり大きな声で鳴かないで、お隣さんに気付かれたら大変だから」

あわてて裕子はサッシ戸を開けたが、庭のその光景に一瞬固まった。

なんとそこにはゴロのほかに、手のひらに乗るくらいの子猫が4匹いるではないか。

同じような色といい、毛並みといい、まったくゴロに生き写しだ。


裕子は急いで優太を背負ってきた。

「あっ、子猫だ。ゴロが連れてきたんだね。僕の言った通りでしょ!」

もしかしたら初めて子猫達は真近に人間を見たのかも知れない。

警戒心もなくゴロの周りで、無邪気にはしゃぎ回り、じゃれ合っていた。

優太は子猫を触ろうと手を伸ばした。子猫達は驚いたのか少し後ずさりしてゴロを見た。

ゴロがニャーと鳴くと子猫達は落ち着いたようで、拡げた優太の両手の中に納まった。

優太の手はやせ細り、骨が浮き出ていた。その腕は箸も持ち上げられないのではと思われた。

震える手で子猫を一匹また一匹と胸に抱き上げ、いとおしげに頬ずりした。

「ゴロの赤ちゃんだ・・・」

生まれてこの方、こんな幸せそうな顔の優太を見たことがあったろうか。

突然、裕子は胸に熱いものが込上げてきて両手で顔を覆った。涙があふれ手を伝わった。


その夜、優太に猛烈な高熱と痛みが襲った。体は痙攣で絶え間なく震えた。

「あなた、早く早く病院へ電話してっ!」

裕子の声は絶叫に近かった。

救急車が駆けつけ点滴や人工呼吸器を取り付けたが、医者の表情からもう望みはないと見て取れた。

裕子は大輔の胸に顔をうずめ泣いていた。


その時、枕元からかすかに声が聞こえた。

「ゴロ、来てくれたんだね。きっと子猫を連れて来ると思っていたよ」

一息継いだ。

「ゴロの赤ちゃん、かわいかった。僕が元気になったら一緒に遊ぼうね・・約束だよ。」

とぎれとぎれであったが、ゆっくり優太はつぶやいた。

ゴロの幻を見ているのかも知れない。優太は指きりげんまんをするかのように、そっと小指を立てて微笑んだ。実際は微笑んではいなかったかも知れないが大輔にはそう見えた。


大輔も裕子も改めて自分達の無力さを知らされた。

結局、親らしい事は何にもしてやれず、優太は苦しい思いだけで短い一生を終えた。

思えば息子には勉強もスポーツも期待をかけ過ぎて、叱咤激励ばかりしていた。

期待に応えるため彼は人一倍頑張ってきた。何か嬉しいことや楽しいことがあったのか。

心から笑った息子を見たことがあっただろうか。冷徹な親だ、心が痛んだ。

今は亡骸を抱いて泣くしかできない。生前に抱き締めたかったと悔悟の念にかられた。

唯一救われたのは何故か、その亡き顔が微笑を浮かべていたことだ。


十一月も半ばを過ぎると紅葉前線が里に下りて周りの木々が鮮やかに変わっていった。

四十九日納骨も終わり、大輔と裕子は菩提寺の住職に挨拶に行った。


「子供が親より先に逝くのは一番親不孝です。順番が違いますから親にとっては真に辛い。

しかし優太君は不治の病ですから仕方ありません・・・短くとも充実した一生だったと思います」

住職は続けた。

「子供は成長すると親を煩わしく思ったり干渉されるのを嫌がりますが、

親にとっては子供は幾つになっても可愛いもので、その愛が変ることはありません。

私はそう信じています、特に母親は愛は強い・・」

二人はじっと耳を傾けた。

「人間と動物を一緒にするのはどうかと思いますが、この前こんなことがありました」 

「いつの頃か、本堂の床下に野良猫の母子が住み着いて、それを野犬が襲ったのです。私はその時に現場にいませんでしたから、あくまで想像です」

住職はその時の情景を思い起こすような目で遠くを見た。

「母猫は子猫を守るため必死で立ち向ったのでしょう。その死骸は皮が裂け、全身から血を流していました。後ろ足など噛み切られていましたよ」

「そりゃ、ひどい」大輔が呟いた。

「お陰で子猫達は助かり、死んだ親のそばに寄り添っていましたが、私が近づくと縁の奥に隠れてしまいましてね。ようやく2、3日して弱っていたところを捕まえて檀家の人に貰ってもらいました」

二人は顔を見合わせた。

「その母猫はどんな毛並みでしたか?」

「灰色で縞が入った、小さくて尻尾のないやつでしたよ」

「何日頃ですか」

「確か、九月二十日だと思います。優太君の通夜の3、4日前でしたから」

「知った猫ですか?」

「いえ・・」被りを振ったが、もしかしてゴロではと思ったのだ。

「あそこに小さな石が立っているでしょう。あの下に埋葬してやりました。野良猫と言えあまりに可哀想そうですからね」

住職は墓地のはずれに立っている紅く色づいた木の下あたりを指差した。

二人は深く会釈をしてその方へ歩いていった。

周りと土の色が異なった場所に三十センチ程の石が立っていて、白い花が手向けられていた。


「ゴロは死んでいたのね」

「優太が亡くなってゴロのことはすっかり忘れていたのだけど、あの日以来、まったく来なくなったので不思議に思っていたの。」

裕子は墓の前にしゃがんだ。


「優太が死ぬ一日前に死んでいたという事か?すると優太が抱いたあの子猫達はゴロが連れてきたではないのだろうか」

「ゴロにまちがいないわ。私はこの目で見たもの!少し離れた処で優太と子猫達をじっと見てた・・・」

大輔の言葉を遮るように裕子は言った。


裕子は目を閉じて手を合わした。

「ゴロ~、優くんに子猫達を抱かしてくれてありがとう。

一度も触らせてもくれなかったあなただったけど、天国では優くんに抱っこしてもらってね・・・」


何時しか空は黒い雲がたち込め、そして雨が降り始めた。

ぽつぽつの小粒はみる間に大粒になった。

墓の前に佇んでいる二人の肩は濡れ、裕子の前髪から雫が落ちた。

野良猫ゴロの存在や出来事は実際に我が家で起きたことです。

子猫だったゴロに餌を与えてから毎日やってきては餌を食べて、リビングでのんびりする毎日でした。

やがて子猫を産んで、その子猫たちを連れてきた時は感動以外の言葉が見つかりませんでした。

一方、少年優太の小児がんの件や菩提寺での話はフィクションで、成人ですが息子が優太のモデルになっています。

ご近所の話によると、ゴロは他の家でも餌を貰っていたらしく、いつしか姿を見せなくなりました。

そうなると寂しくて、保護猫を貰い育てる事になりました。

ゴロが来る前は家族は動物と暮らしたこともなく、たいした感情もなかったのですが、

今は二代目の保護猫と生活していますが、猫の存在はなくてならないモノになりました。

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